27、みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ

「久しぶりやな。元気か」

 目の前の男が視線も合わせず、気まずそうに言う。自分からこの喫茶店に誘ってきたくせに。

「なんや、しばらく見んうちにえらい大きなったな」

「はあ」

 とんちきな質問に、溜息みたいな返事しか出ない。

 もう何年ぶりだと思っているのだ。もういくつになると思っているのだ。

「さみしい思いさせて悪かったな」

「別に……」

 他に言うことないのかよ、と思うけれど、逆にこちらからも他に何もいうべき言葉は見つからない。

「かあさんは元気か?」

「母さんは死んだよ。五年前に」

 女手一つでずいぶん苦労したから、という言葉は飲み込む。

「そうか……」

 男の肩が小さく項垂れる。それきり黙ってしまった。

 なぜ連絡くれなかったんだ、とか言われたらぶん殴ってやろうかと思っていたのに、残念だ。俺はこの人の連絡先も知らない。母さんは知っていたのだろうか。知っていたにしても。母さんが連絡をとっている様子はなかったし、遺品整理の際にも何も見つからなかった。メモも手紙も、養育費が払われた形跡さえも。

「親父、いま何してんの」

 沈黙に耐えかねてついこちらから質問を投げてしまう。営業マンのかなしいさがだ。

「え、ああと。去年会社を定年退職して、そこからはとくに何も」

 定年まで勤め上げたんなら、金の無心でもないだろう。

 ただ、本当に聞きたかったのは「今独りなのか」ということだったのだが。質問しなおす気にならず、また沈黙が続く。ずず、と親父は気まずそうに空になったコーヒーカップを啜る。

 俺がまだ小学生だった頃、親父は家を出た。理由は知らない。母さんが教えてくれなかったから。けど、どうせ女だろうと思っている。一度だけ、母さんが深夜台所で独り泣いている姿を目撃してしまってから、なんとなく話題にすることもできないでいた。

 それからもう何十年だ。俺ももう三十五になる。

 どうせ会いに来るならば、もっと早くに来てほしかった。ちゃんと親父のことを恨んでいるうちに。今となってはもう何の感慨もない。

 ゴールが見えてようやく人生の精算をしようと考えたのだろう。

 母の死亡手続の際に戸籍謄本を改めて確認すると、夫婦の籍はそのままで、少なくとも戸籍上は親父はよその子を認知したり養子にしたりもなかった。

 今はもう俺の方が体も大きい。親父は縮んだみたいだ。肩車の上から見た景色はあんなに壮大だったのに。叱られる時にはあんなに大きく感じて恐れていたのに。晩飯のあとコーヒーを飲む親父をかっこいいと思ってた。今は、俺だってブラックのまま飲める。

 意外と覚えているもんだな。だからどうしたという訳でもないが。親父は昔から口下手な男だったから、もしかしたら些細な行き違いもあったのかもしれない。けれど、もう二十五年過ぎた。何の言い訳にもならない。親父は何かを期待して会いに来たのだろうか。今さら親父のことを恋しく思うとでも?

「俺、もう行くわ。うちで嫁さんと息子が待ってるから」

 ズッとコーヒーを飲み干して席を立つ。「あっ」と親父も慌てて立ち上がろうとしたけれど、振り返らずに店を出た。

 別にもう恨んでもいない。けれど、何もなかったことにもできない。

 ただ、情けのようなものも一分くらいはある。だから、俺に子がいると教えてやった。あんたの遺伝子は次の世代に引継がれていくのだと。それが最大限の譲歩だ。もう会うこともない。

 俺は、妻子の待つマイホームに向かい真っ直ぐに夕暮れの街を進んだ。

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