5、奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき

 ひとり山道を行く。

 いつも同行していた妻はもういない。

 妻自身はインドア派で登山が趣味でもないのに、いつも山へついて来てくれた。早起きして二人分の弁当を作り、ともに出掛ける。妻と登る時は険しい山は避け、標高の低い山やロープウェーなどのある山を選んだ。男同士の山仲間と登るのとはまた違う楽しみがあった。山頂で弁当を食べ、缶コーヒーを飲む。「行くまでが面倒だけど、来ると楽しいのよね」妻はいつもそう言って笑った。

 山のことは大抵おれの方が詳しいが、花に関しては妻の方がよく知っていた。いつの間にかポケットサイズの植物事典まで持参するようになっていた。四季折々に山を登ったが、気候のいい春秋にとくによく出掛けた。頭上の赤く染まった紅葉を見上げながらそんなことを思い出す。思い浮かぶのは、隣を歩く元気な妻の姿ばかり。

 とはいえ、還暦を過ぎてからは体がしんどいといって留守番することが多かった。誘いを断るくせに、おれが黙って山へ行くとぷりぷり怒った。弁当だけは変わらず用意してくれた。代わりに花を摘んで帰ると、口ではそっけない返事をしながらもいそいそ小瓶に花を飾った。

 そんな長年連れ添った妻が、突然いなくなった。いや、急死だと思ったのはおれだけで、実際妻自身の体調がどうだったのか、今更知るべくもない。齢のせいだろうと聞き流していたが、「体がしんどい」という言葉にこそ真実があったのかもしれない。振り返るにつれ後悔ばかりだ。そんな妻を置いて、おれはいそいそ山登りに出掛けて、自分のことばかりだった。最後の日も、妻は弁当を持たせてくれて、おれはいつも通り山へ行った。下山して夕方帰宅すると、妻が玄関先で倒れていた。摘んできた花を渡すことはできなかったし、弁当の中身さえ思い出せない。あれが最後になるなんて思っていなかったから。

 四十九日が明けて、近くの山に登った。山を一ヶ月以上空けるなんてはじめてだ。いつの間にか季節は変わり、かつて妻と来た時と同じに山中一面紅葉に染まっていた。落ち葉を踏み分けながらゆっくり進む。思い出を噛み締めながら。

 十代の頃から半世紀以上登山してきたが、今回が最後だ。

 体はまだまだやれそうではある。しかし、もう山へ行きたいと思わなくなってしまった。心配する人がいてくれるから、安心して山へ入っていけたのだ。今はもうどんな土産話も写真も一輪の花さえも受け取ってくれる人はいない。

 どこかで雄鹿が雌を呼ぶ切ない鳴き声が、山中に響き渡った。

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