97、来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
訪れた海辺の町を散策する。
潮風の吹く海岸はどこまでも磯の香りがする。
過疎化しているのだろう、ひと気のない土地を一人で歩くのはずいぶん心許なく寂しい。
「あとから行くから」
あの人はそう言った。私はいつまでここで待てばいいのだろう。所在なくぶらぶら歩き続ける。
海岸線の果てに白い煙が上がっているのが見えて、近付いてみる。
砂浜に女性が佇んでいる。
周囲が岩場に囲まれていて人目に付かないような場所。煙がなければ私も気付かなかったろう。女性の隣には大きな黒い塊があり、そこから煙が出ている。
私の足音に女性が振り返る。目が合い、会釈する。そのまま彼女に尋ねる。
「それは何を燃やしているんですか?」
彼女はちらと足元に視線を遣る。長い睫毛が表情に蔭をつける。
「藻草です」
「もぐさ」
ぴんとこない私が復唱すると、彼女はふっと表情を緩めた。
「この土地では地場産業として藻塩を作っています。海水を掛けた藻を焼いて、水に溶かして煮詰めて塩を精製するんです」
「へえ。では、それも?」
足元の藻草の塊を指差す。
「いいえ。これはおまじないです」
「おまじない」
「ええ」
と彼女が頷く。
「この土地に永らく伝わるまじないです」
そう言って彼女は、伝承について教えてくれた。
遥か昔、一人の女がいた。女は旅の男と恋仲になり、将来を誓い合った。
しかし、男には郷里に妻子があった。一度里へ戻り妻子に別れを告げてから、必ずまたここに戻ってくる。男はそう言って、小さな舟で漕ぎ出していった。舟が水平線の向こうに小さく消えてゆくのをじっと見送った。
その日から、女は毎日砂浜に立った。男が迷わず帰ってこられるように、藻を焼いて煙を上げた。
男はなかなか帰ってこない。男の里までどれ程遠いのか聞かなかったことを、女は後悔した。長い舟旅でよもや事故にでも遭ったのではないか。女はただ無事を祈って待つことしかできない。
十日経ち、一月経ち、半年経ち、一年経ち……。戻って来ない男を、女は待ち続けた。流れ着く海藻をくべて煙を絶やさず祈った。いつしか周辺の海藻もなくなり藻が燃え尽きた時、そこに女の姿はなかった。代わりに新しい藻の塊がそこにあった。
風雨も昼夜も問わず浜辺に立ち続けた女の体は、潮風に晒されてぼろぼろになり、長い時間を掛けて藻の塊になったのだった。
毎日祈り続けた女が化した藻には念力が籠もっているとして、以来、この地では待ち人があればその藻を燃やします。待ち人が現れず燃え尽きた時には、また新たな藻の塊がそこに残ります。次に人待ちをする女はその藻を燃やして、また次の女も同じように……。この土地ではそうやって人を待ちます。
顔を上げた彼女もまたずいぶん長いことここにいるのだろう。潮風に晒された髪は傷み、荒れた肌は触れると崩れてしまいそうに見えた。
それ程まで愛しい誰かを待っているのだろう。
「私も、人を待っているんです。彼はあとから行くと言ったけれど、三日待ってもまだ来ません」
同じ境遇の気安さで、彼女に白状する。我ながら馬鹿だと思う。けど、私は彼を信じて待ち続ける。
彼女は眩しそうに私を見つめて、少し笑った。逆光で影になった表情の中、真っ白い歯だけが浮かんで見えた。
「なら、一週間したらまたここへ来て。私の藻草はじき燃え尽きるから、あなたはここに残された新しい藻に火をつけて愛する人を待ってください」
愛する人、と彼女は衒いなく言った。あいするひと、と私は口の中で復唱した。そうだ、私が待つのは愛する人なのだ。信じて待ち続ける以外ないではないか。
それまでに待ち人が現れるのが一番ですけれど、と彼女は付け足した。私こそ彼女にその言葉を掛けてあげるべきだったのかもしれないが、適当な言葉が浮かばなくて「ではまた」と言って宿へ引き返した。
一週間後、先の場所を再訪した。
この一週間、町や海辺をぶらぶらしたり、宿に籠もって本を読んだりして待っていたが、彼は来ない。携帯電話の充電も切れてしまって、探したけれど町には充電器を置いている店はない。
岩場に囲まれたその場所に、彼女の姿はなかった。代わりに、彼女の立っていた位置に新しい藻の塊が置いてある。
視線を上げると、凪いだ海がどこまでも続く。船の一隻さえ見えない。
この一週間で私も覚悟を決めた。
小さく深呼吸をして、宿でもらったマッチを取り出す。火をつけたマッチを、そっと足元の藻の塊に向けた。
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