98、風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける

 ばしゃばしゃばしゃ。

 彼はずっと手を洗っている。

 もともと潔癖症だったわけではない。彼のその習慣は、あの日を境に始まったように思われる。

 堀河と小川、二人でキャンプへ行った。ワンダーフォーゲルサークルの我々にとって、山へ行くことは珍しいことではない。私も、恋人の堀河から誘われたけれど、所用があり断った。それで彼らは二人で出掛けた。

 けれど、帰ってきたのは小川だけだった。

 何があったのか、何かあったのか、尋ねても上の空のような感じで判然としない。ただ、気付けばずっと手を洗っている。

 堀河はもともと思い立つとふらりと旅へ出るような人だったから、夏期休暇中のことということもあり、周りも特に騒ぎもしない。ただ私だけがそこはかとない違和感を持っている。

 行方が分からなくなってから、一ヶ月経つ。夏が終わる。

 私は小川に声を掛けた。

「キャンプへ行こう」

 まったく乗り気ではなかった彼を、別の山にするからと半ば強引に連れ出した。

 彼を助手席に座らせ、車を走らせる。

 始めはそわそわしていたものの、最近いつも疲れた表情をしていた彼は、じきに隣で寝息を立てていた。

 目覚めて、例のキャンプ地に到着していることを知った彼は狼狽していた。私はそんな彼の様子をじっと観察する。

 堀河は誰かを誘う時、大抵この場所を選んだ。ほかに人の来ない穴場なのだと、秘密基地を自慢する少年のように笑っていた。私も何度となく連れて来てもらった場所だから、迷うこともなかった。

「なんで」一言そう漏らした小川は、私の意思が固いのを見るや、諦めたように設営を始めた。いつもと同じ、すぐ近くに川の浅瀬がある場所。しんとした静寂に包まれ、水が流れる音や葉擦れの音だけが聞こえる。ペグを打ち、テントを張る小川の背中を見つめる。まるで何かを振り切るみたいに無心に作業を続けている。

「できたよ」

 手際よく作業を終えた小川が背中越しに言う。

「うん」

「水汲んでくる」

 私が何か言う前に、彼はバケツを引っ掴んで川の方へ歩いていった。

 しばらく待つが、戻って来ない。

 川へ見に行くと、そこに彼はいた。

 川の中に立ち、ばしゃばしゃと一心不乱に手を洗っている。私が傍にいることにさえ気付いていない。

 ばしゃばしゃばしゃ。

 この山に人が来ないのは、禁足地だからだ。獣や魚の姿さえ見ない。

 あの場所に行くのはよした方がいいと繰り返し止めたが、堀河は鼻で笑うだけだった。そうして結局毎度彼について行った私もまた、すでに魅入られてしまっていたのかもしれない。

「小川」

 声を掛けると、びくりと振り返る。

「無理だよ」

「え?」

 怯えたような視線を私に向ける。

「もう逃げられないよ。どれだけ洗ったって、染み付いた血を流れ落すことはできない」

「な……」

 言葉を詰まらせた小川に、「手伝って」と声を掛けて車まで引き返す。

 後部ハッチから大きな荷物を下ろす時、小川は何か言いたそうにしていたけれど、結局一言も発さなかった。

 二人で対岸まで荷物を運ぶ。

「小川はここまででいいよ。まだ慣れないと思うから」

 そう言って、小川を置いて、ずるずると森の入口まで荷物を引き擦っていく。

 ここでいいか。まだ小川の姿は見えるが、雑草に覆われて足元までは見えまい。軽く穴を掘って、どさどさと荷物の中身を出す。

「この辺は生き物が来ないからね。外から持ってきてあげないと堀河が飢えちゃうから」

 そう説明してやる。彼に声が届いているかどうかは分からないけど。

「私一人じゃあ世話する限界があるから、小川にも手伝ってほしいんだ」

 できるでしょ? と振り返ると、じゃばじゃばじゃばと小川は深い淵に腰まで浸かって手を洗っている。

 私は黙ってその様子を眺める。もう遅いよ。

 堀河は今どうしているのだろう。何になるのだろう。神? それとももっと別の何か?

 分からない。私達がこれからどうなってしまうのかも。堀河と同じ道を辿るのか、それとも。

 ただどれだけ洗っても消えない手の赤さだけが、もう逃れることはできないのだと告げている。

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