96、花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり

「ハナちゃん、行こう」

 アラシがわたしに向けて手を差し出す。その手を取ろうと伸ばしかけた手を止める。

「ユキは?」

 わたしの質問が聞こえなかったのか、そのままアラシはぐいとわたしの手を取り、進もうとする。いいのだろうか。わたしとユキとアラシ、うちで遊ぶ時にはいつも三人一緒なのに。

 まあ、あとで迎えに来たらいいか。それでわたしはアラシに手を引かれるまま進んだ。

 まるで真っ暗な洞窟みたいな屋敷の中を、アラシは迷うことなくすっすっと扉を開けて進んでいく。わたし一人ではきっと迷子になってしまうから、はぐれないようにぎゅうっとアラシの手を握った。

 ぎぎぃ、いっとう大きな扉を開けると、外に出た。

 ずっと中にいたから、日の光が眩しかった。

「やっと出られたねー」

 うんと伸びをして腰を下ろそうとするも、アラシはまだ先へ進もうとする。

「いそごう。日が落ちる前に」

 そう言ってアラシは強引にわたしの手を引く。

 野花が咲き乱れる中を進む。周囲は鬱蒼とした森のようになっていて、確かに日が暮れて迷子になるのは恐ろしい。その時にはまた屋敷に戻った方がいいかもしれない、と屋敷を振り返ると、先程出てきた扉の奥は漆黒の闇で、なぜだかあそこに戻る方が恐ろしい気がした。

 森においてもアラシは迷いなく先を目指す。

 そういえば、どこへ向かっているか聞いていない。あまり遠くまで行ってしまうと、引き返す時に大変ではないか。もしユキが追いかけてこようとした時に、森で迷ってしまうかもしれないし。そもそもここはどこなのだろう?

「……ヒラ坂」

 尋ねると、アラシは答えたがよく聞き取れなかった。

 うちの周辺の坂のある場所をいくつも思い浮かべてみたけれど、今歩く場所がどこなのか分からないままだった。もしかしたら、村からずっと離れた場所まで来てしまっているのかもしれない。途端に不安になる。

 それで、わたしは足を止めた。

「これ以上行くなら、ユキも呼んで一緒の方がいいよ」

 子供同士で遊ぶ時、わたしたちはいつも三人一緒なのだから。

「行こう」

 なのにアラシは先へ進もうとする。わたしはその小さな手を引き留める。

「なんで?」

 三人で遊ぶけれど、アラシはユキの方によく懐いていた。

 振り返ったアラシはじっとわたしの目を見つめる。いつもにこにこしているくせに、笑顔のないアラシは何を考えているのかよく分からない。

「先に、ユキちゃんを誘った」

 アラシは言った。

 わたしは「そう」とだけ答えて、繋いでいた手をほどいた。アラシはもう一度わたしの手を取ろうとしたけれど、わたしはその手を避けた。

「はぐれないでね」

 手を繋ぐことを諦めたアラシは、そう言ってまた道を進み始めた。不本意だけど、わたしはその後ろ姿を追った。

 やっぱりこいつは嫌いだ。いつも「ユキちゃん、ユキちゃん」。わたしが構ってやってもすぐにユキのうしろに隠れて、「ハナってば、あんまりアラシに乱暴しちゃだめだよ」なんて二人で結束するのだ。

 結局、今だってアラシは先にユキを誘っていた。どこだか知らないけど、先にユキを目的地へ送り届けてから、思い出したみたいにわたしを呼びに来たんだ。

 面白くない。

 薄暗い、知らない野道をどこだか分からない目的地へ向かって進んでいるという不安も相俟って、イライラしていた。足を止めようとするたびに、「だめ」とアラシは先を急かす。

 どれだけ歩いたのか、ようやく森を抜け、視界が開けた。

 河原に立つと、眼前に大きな川が流れている。対岸は靄になってよく見えないけれど、こちら側には見渡す限りほかに誰もいない。

「ユキは? 先に待ってるんじゃないの」

 思わず語調が荒くなる。

 アラシは小さく首を振った。

「誘ったけれど、ユキちゃんは来られなかった」

「は?」

 どういうこと。つまり、わたしはユキの代用ってこと?

「ユキちゃんも連れてきたかった。けどだめだった。ハナちゃんだけでも来てくれてよかった」

 全然「よかった」って感じじゃない、残念そうな表情でアラシが言う。

「あんた、何言ってんのか訳分かんないんだけど。要は、ユキじゃなくてわたしだけで来てもよかったんだよね?」

 確認するように問う。なのに、アラシは首を横に振る。

「ユキちゃんも一緒がよかった」

 それで、わたしの中で悶々としていた何かが弾けてしまった。カッと頭に血が上り、そのまま捲くし立てた。

「だからあんたのこと嫌いなのよ! ユキが誘わなけりゃ一緒に遊んだりしなかった。薄気味悪い奴!」

 アラシは何か言い訳しようとしたが、口を挟ませなかった。一方的に怒りをぶつけられたアラシはしゅんとうつむく。

「ハナちゃん、ぼくのこと嫌いなの?」

「嫌いだよ!」

 アラシの顔がくしゃりと悲しそうに歪む。ちくりと罪悪感が湧いたが、怒りの方が勝っていた。だから、「ぼくはハナちゃんのこと好きだよ」とぽつりと聞こえた言葉にも、返事をしなかった。

 居心地が悪くて、とにかくこの場所を離れたかった。

 アラシに背を向けて、河原をざくざく進む。大小の石が転がっていて歩きにくい。

「ひとりで行くと危ないよ」

 追ってくるアラシから逃げるように、走り出そうとした。

 不安定な石の上に足を置いた瞬間にバランスを崩して、そのままドボンと川に落っこちてしまった。

 河原からはゆるやかに見えたのに、実際に水の中に入ると流れが速くて抜け出せない。

「ハナちゃん!」

 差伸べられた手に向けて、もがきながら手を伸ばす。

 ぐっと手が握られる。

 アラシ!

 あっぷあっぷと声にならない。小さな手では掴まるのがやっとで、岸に戻れない。

「ハナちゃんたちと遊ぶのは楽しかったよ」

 そう言って、アラシはわたしの手を離した。


 目が覚めると、視界には見慣れた天井の木目が広がっていた。

 わたしは自宅の部屋で布団の上に寝かされていた。体が重くて動かない。うう、と呻くと、看病に付いていた母が「ハナ!」と大声を上げてわたしの体に抱きつき、すぐに「ハナが目を覚ました!」と部屋を出て家族に知らせに走った。

 川遊びをしていて溺れたわたしは、三日三晩意識を失っていたらしい。

「ユキは?」

 布団の中から尋ねると、わっと母は泣き出して、助かったのはわたしだけだったと父が教えてくれた。わたしのことももう助かるまいと諦めていたと。

 布団の中で目を閉じて、ぼんやりする頭でじっと考えていた。

 アラシがわたしを死の際から助けてくれたのだ。なのに、ひどい言葉をぶつけてしまった。後悔してももう遅い。

「アラシ」

 部屋に誰もいない時にそっと呼んでみる。けれど、しんと静寂が充ちるだけでどれだけ待っても返事はかえってこない。

 結局、次の年にはその家を引き払って町へ引越すことになった。

「老朽化してそろそろ取壊しの話も出ていたし、山中の一軒家だといざという時に医者にもかかれないからね」

 両親はそう言ったが、本当は子供を一人喪った家に暮らし続けるのがつらかったのだろう。あれだけ賑やかだったのが嘘みたいに、子供が一人だけになった家は静かだった。

 転居準備を終えた家は空っぽだったけれど、振り返るとそこに小さな三人の子供――わたしとユキとアラシがぱたぱたと家中走り回る姿が見えるようだった。

「またね」

 両親に聞こえないようそっと呟く。「わたしもアラシのこと好きだよ。楽しかったよ」

 両親に急かされて車に乗り込み、家から遠ざかっていく。

 いつか大人になったらまたここに戻ってこようと心に決めた。その時わたしにはもう見えないかもしれないけれど、わたしの子供達はきっとアラシと仲良くなって家中走り回るだろう。

 幼いわたしとユキには「ざしき」と発音するのが難しくて、その子のことを「」と呼んでいた。

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