94、み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
草木も眠る丑三つ時、野太い叫び声が聞こえる。例の廃墟からだ。
何か言葉を発しているようにも聞こえるが、判然としない。その声は、驚いているようにも、恐れているようにも、怒っているようにも聞こえる。
本来なら、少し叫んだくらいで声が届く距離ではない。山の上からだからよく聞こえるのだろうか。
廃墟は山の中腹にある。かつて遊園地があった場所だ。平成に入って間もなく廃業して、ほとんどの施設が撤去されずにそのまま残っている。
僕も幼い頃に両親に連れられて何度となく遊びに行った。
最後に訪れたのは、それこそ廃園間際。最後だから全てのアトラクションに乗るんだとはしゃいでいて迷子になった。
「おとうさーん、おかあさーん」
いつになく人の多い園内で、両親はいっこう見つからない。広い敷地をふらふらひとり彷徨ううちに日も暮れてくる。夕陽に赤く染まった景色はいつもと違って見えて、今にも泣き出してしまいそうだった。
「坊や、どうしたの。迷子?」
大人が声を掛けてくれる度に、「大丈夫」と言って逃げた。逆光の黒いシルエットに浮かぶ笑顔が不気味に思えたのだ。
遊園地には人攫いのピエロがいて、ひとりぼっちの子どもを探している。
そんな噂話を思い出す。子どもが何人もいなくなったから、あの遊園地は潰れるんだぜ。クラスの奴が言って、皆でつまらない作り話だと笑った。
悪い子はピエロに連れて行ってもらうように、遊園地に置いてくるのよ。
いたずらをして叱られた時、母が言った。「ピエロなんて怖くないやい」なんて言い返した。
だけど今、僕は走っている。ピエロから逃げている。
「ボク、迷子?」
家族連れがどんどん帰路に着き、閑散とした園内で途方に暮れていると、声を掛けられた。次に声を掛けてくれた大人に助けてもらおうと覚悟を決めていた僕は、振り返って悲鳴を上げた。
「うわあっ!」
長い体躯を曲げて、僕の目線の高さに顔があった。真っ白い顔。大きく丸い真っ赤な鼻、派手な衣装。ピエロがそこにいた。心配そうな言葉とは裏腹に、その顔は異様な程口角を上げて笑っている。それがメイクのせいなのかどうか幼い僕には分からなかった。
ただ、逃げ出した。
「おや、お待ちなさい!」
あとからピエロが追ってくる。ぴょんぴょん跳びはねるみたいに。
子どもの足では追いつかれてしまう。
咄嗟に近くにあった建物に入った。
ここは苦手だ。何度か来ているのに、未だに一人で出口まで辿り着いたことがない。引き返そうとしたが、派手な衣装が近付いてくるのが見えてそのまま突入した。
少し進んだところで、ピエロも建物に入ってくるのが見えた。
何度も透明なパネルにぶつかりながらも、立ち止まらずにひたすら進んだ。ただただ間違えて道を戻らないように祈って。
「ボクちゃーん」
僕を追い掛けてくるピエロの声。建物内に反響して、まだ十分に距離があるのかそれとも近くまで迫っているのかさえ分からない。奴の姿も、遠くに小さく見えたり、合わせ鏡で十人に増えて見えたり。
右手をずっと壁に添えて進めば必ず出口に辿り着く。そんな父の教えを思い出した時には、すでにどこをどう進んで来たのかさえ分からない。ただ、ピエロから離れるように進む。永遠にここから出られないような気さえするが、泣いている暇もない。
どれくらい掛かったのかわからない。けれど、ようやく出口の光が見えた。
やった。
スピードを上げて出口から飛び出す。
「まーくん」
建物を出ると両親がいた。
「おかあさん! おとうさん! ……うわっ!」
父母の後ろに、ピエロがにこにこ立っていた。
「もう大丈夫よ、さあ帰りましょう」
両親と手を繋いで、遊園地をあとにした。もしかしてピエロが両親を連れてきてくれたのかと思ったが、母も父もピエロに一言の声を掛けることもなくゲートに向かった。ちらと振り返ると、夜の遊園地の電飾に照らされて、ぽつんと立ったピエロがじっとこちらを見て笑っていて、僕はもう振り返らず逃げるように父母について園内を出た。
それだけの話だ。
大人になった今振り返れば何てこともない。遊園地のピエロが迷子を保護しようとしたのだろう。
けれど、喉に引っ掛かった小骨のようにいつまでも心の片隅に不気味にその思い出がある。幼少期のエフェクトも掛かっているだろう。無事に遊園地から自宅へ帰った僕は、その後長らくピエロの悪夢とともに、妙な違和感に悩まされた。あの日、出口で僕を迎えてくれたのは本当の両親だったのだろうか。両親が笑うたびに、その笑顔がなんとなくピエロに似ているような気がしてそわそわした。思い過ごしだ。現に、あれから三十年近く経つ今に至るまで、何事もない平凡な日々を過ごしてきた。
山中の廃墟から、たまに声のようなものが聞こえる。風の音だ。動物の鳴き声だ。両親はそう言うが、その声を聞く度に、僕はピエロを思い出す。
最近特にそんなことを考えるのは疲れているのかもしれない。
仕事で上手くいかず、精神的に参ってしまい、一年間の休職を経て復帰することなく職を辞した。交際していた恋人とも破局した。彼女は僕と別れてすぐに、僕の友人と結婚した。それを機に元より少なかった友人達との交流も絶えた。何も上手くいかない。
きっとどこかで何かを間違えたのだ。
小中高大学と真面目に勉強して成績優秀だった。両親も一人っ子の僕に惜しみなくお金も愛情も注いでくれた。仕事だって手を抜くことなく真摯に取組んできた。何も間違ってこなかったはずだ。
そうすると唯一引っ掛かるのが、やはりあの遊園地での一件なのだった。
きっと僕はあの時間違えたのだ。
何を間違えたのか、ずっと分からずにいた。
けれど今、ようやく分かった。
遊園地に視線を向けた時、ガラス窓に自分の姿が反射した。ひょろりと長い体躯はあの時のピエロにそっくりだった。
「ボクちゃん」
ひきこもって掠れた声は、自分のもののように思われない。
僕だったのだ。
あのピエロは、僕だったのだ。
あの時、僕は僕を正しい道に戻そうとしたのに、僕は僕から逃げてしまったから、だから僕は僕の道を外れてしまって上手くいかないのだ。
山中に光が浮かんでいる。遊園地の灯り。廃墟は行政が介入してようやく取り壊されるのだと母が言っていた。そのために色々点検しているのだと。
急がなければ。
遊園地の灯があるうちに、僕は僕を助けに行かなければならない。迷子になった幼い僕を。そこにいるはずだ。捕まえて、正しい道に引き戻さねば。
顔を白く塗り、服を着替えて、自宅を飛び出した。車で山道を進み、遊園地を目指す。
廃園になってからは人通りもなく道も荒れている。草木が茂り、道路が途切れてしまっているため、車を乗り捨て、自力で山を登る。息を切らせながら、うおおと雄叫びを上げ自身を鼓舞してひたすら進み、ようやく到着した。
確かに灯りが見えたはずなのに、廃墟は漆黒の闇に包まれ、ゲートも鎖で固く閉ざされている。
そんなはずはない。
そんなはずはない。
鎖に足を掛け、なんとか這い登る。ゲートを越えて、敷地内に降り立つ。園内を振り返ると、思わず口角が上がった。
ほらやっぱり。
やっぱりそうだ。
夜の遊園地に灯りがともっている。あの日と同じ。
早くこの中から僕を探さないと。
一歩踏み出した瞬間に、立ち止まる。
「ボクちゃん」
どこから現れたのか、目の前にピエロが立っている。
「ボク、また迷子?」
ピエロが口角を上げてにたりと笑う。
「あの時、せっかく逃がしてやったのに」
そう言って愉快そうに、冷たい手を僕の顔に向けて伸ばす。その手もその顔もその声も、全然僕のものではない。
僕はまた間違えたのだ。
そんな考えは刹那で消えた。僕の視界も思考も真っ暗闇に落ちていったから。
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