93、世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも

「よい子のみんなー! 大きな声で、元気いっぱいに呼んでみよう! せーのっ」

「モガモナー!!」

 舞台上のおねえさんの呼び掛けに、子ども達が声を張り上げる。ミノルも、席から立ち上がり顔を赤くして叫んでいる。日曜日の百貨店屋上のヒーローショーは盛況だ。

 おねえさんが満足そうに頷くと、舞台袖からもふもふの着ぐるみが登場する。こいつが「モガモナー」らしい。百貨店のオリジナルキャラクターか何かだろうか。

 モガモナーはみかんが好きだとか、一輪車が得意だとか、おねえさんが紹介する。

 司会進行のおねえさんは二十歳はたちくらいか。あの子が私の娘でもおかしくないんだなと思い、未だにそんな考えをしてしまうことにうんざりする。

 にわかに舞台上に黒ずくめの集団が現れて、おねえさんが囚われる。「たすけて、モガモナー!」おねえさんの悲鳴を受けて、舞台上でモガモナーが大立ち回りを展開する。ヒーローショーだったのか。息子はキラキラした瞳で一心に舞台を見つめて、モガモナーに声援を送る。

 ほっと一息つく。舞台が終わるまではゆっくりできそうだ。

 息子の実は四十を越えて授かった待望の一つ宝だ。

 四十代での子育ては想像以上にしんどい。成長する子が日に日に元気を増していくのと反比例して、私は日々疲弊していく。「男の子は大変よー」と子育て経験者は語る。これからさらにやんちゃになるのかと思うとぞっとする。

 保育園のお迎えに行くと、同じクラスの子から「ミノルのおばあちゃん?」と訊かれて、露骨に顔が引き攣ってしまった。確かに母娘とも十代で出産していたら、この子のおばあちゃんが私より若い可能性だってあるのだ。どれだけ若作りしたって、二十代のママ達には馴染まない。

 わがせしがごとうるはしみせよ。両親が私にしてくれたみたいに、息子にも愛情を注いでやりたい。けれど、大学卒業までとなると、その時私は六十五だ。母は七十で亡くなった。だとすると、この先私に残された自由な時間はたった五年間しかないのか。いや、その頃には五つ上の夫の介護が始まっている可能性だってある。

 本当は出産後も仕事を続けたかった。同僚の産休育休を支えてきた。ようやく私の番だって。けれど、辞めてしまった。サポートしてくれるはずだった両親はすでに他界しているし、働きながら一人でこの子の面倒を見るには体力が足りない。

 毎日怪獣みたいな我が子を相手に奮闘している。たすけて、モガモナー!

 待望の一人息子だけれど、本当にこれが私の望んだ幸せなのかと考えてしまう。望んだのは平凡な幸福に過ぎない。何かに追い立てられるように結婚して出産したけれど、私は一人の方が幸せだったのではないか。

 一転してピンチに、「誰か、モガモナーを助けてあげて」とおねえさんが観客席に呼び掛ける。ちびっ子達が「はい! はい!」と小さな手を懸命に上げる。

「じゃあそこの緑色のボーダーのシャツを着た男の子! こっちに来て」

 指名された実が、頬を紅潮させて舞台に上がる。私のことを振り返りもしないで。

 モガモナーを救出した実が、逆に黒ずくめに捕まる。あれではどこへも逃げようがない。

 一時ひとときも目を離せない息子の世話を黒ずくめに任せて、束の間瞼を閉じる。慢性的な睡眠不足で、無心で夢の世界に浸れる時間なんて僅かもない。

 疲れが溜まっていたのだと思う。本当にそのままうとうと眠っていたようだ。

 目を覚ますと、古い百貨店の屋上のベンチに一人ぽつんと座っていた。

 周囲には申し訳程度の植栽が広がり、「屋上庭園」の看板が控えめに立つ。他には客の姿もない。遊具も、舞台も、何もない。

 そうだ、私が幼い頃よく連れて来てもらった百貨店の屋上遊園は、少子化も相俟って二十年程前にとうに閉園したのだった。迷子になり着ぐるみに手を引かれてえーんえーんと泣く私を、母が慌てて迎えに来てくれた。「ごめんね」と言いながらぎゅっと抱き締めてくれた温もりは今も覚えている。

 とても疲れていたから、懐かしい夢を見たのだろう。閑散とした屋上庭園で、ヒーローショーなんて開かれるはずもない。夢だったのだ。すべて。何もかも。

 引き返すなら今だ。そう思いながら、私は屋上をあとにした。振り返ることなく、古い階段を下りた。

 夫は息子のことを覚えているだろうか。何か言うだろうか。いや、夫だって夢かもしれない。

 私はとても疲れている。ぼんやりとした足取りで家路を辿る。いえ、どこへ向かって?

 もういい。考えるのはよそう。面倒なことになれば、またモガモナーに助けてもらえばいいのだから。

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