88、難波江の芦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋わたるべき
「スクエアしようぜ」
「なんだよそれ?」
オカルト研のくせにお前らスクエアも知らないのかよ、と言いながら一居が僕に視線を向ける。それを受けて説明する。
「スクエア」は都市伝説の一種だ。吹雪に閉ざされた山小屋を舞台に語られることも多い。遭難して山小屋に逃げ込んだ四人の登山客は疲れ果てていた。しかし、電気も届かぬ山小屋で眠れば、朝を迎える前に凍死してしまう。そこで、四人はそれぞれ小屋の四隅に立ち、真っ暗な部屋の中をぐるぐる回ることにする。まず一人目が次の角まで壁伝いに進み、二人目の肩を叩く。そしたら二人目が出発して、次の角の三人目の肩を叩く。三人目はまた次の角の四人目の肩を。四人目も同様に次の角の一人目の肩、そして一人目はまた次……。という風に、日が昇るまで一辺ずつ走り続けて、無事に下山することができた。
「それのどこがオカルトなんだよ」
里三が据わった目を向ける。
「四人じゃ無理なんだよ。最初に四隅に一人ずつ立っているけれど、スタートして一人目は次の角へ進んでいるから、四人目がもともと一人目が立っていた次の角に進んだところでそこには誰もいないはずなんだ。真っ暗闇の中、一体彼は誰の肩を叩いていたのか……」
声のトーンを低くしてみたけれど、里三は「へーえ」と気のない返事をするだけで、不二に至っては話を聞いてすらおらず残り少ない缶ビールを空けている。
「まあいいから、やろうぜ」
一居が立ち上がり蛍光灯のスイッチのところまで移動する。不二と里三もぶうぶう言いながらそれぞれ部屋の隅に進む。ほっと息を吐いて僕も残りの角へ立つ。
また麓の町まで酒を買出しに行かされるよりは、部屋をぐるぐる回っている方がまだましだ。夕刻から降りだした雨脚は強くなる一方だ。三人ともずいぶんな量の飲酒をしていたし、どうせ途中で寝てしまうだろう。
「じゃあ俺からスタートするから」
そう言って、一居は「おい」と隣の角に立つ僕に視線を送る。分かっているな、と。僕が曖昧に頷くのを確かめもせず、電気はバチンと消された。上手いことやって不二と里三をびびらせろよ、ってことだろう。大学生がこんなお遊びでびびるはずないと思うが、断った結果起こるであろう面倒を考えれば、四走者目の自分が二辺分走ることなどどうってことない。
そう言い聞かせながら、溜息をつく。こんなはずじゃなかったのに。
小中高とずっといじられる対象だった。大学では生まれ変わろうと、髪を金髪に染めた。ここなら自分に合った青春を謳歌できるだろうと扉を開けたサークルは、「オカルト研究会」とは名ばかりのチャラい奴らの溜まり場で、逃げそびれた僕はせめて舐められないように彼らの同類として振舞おうと努めたが、滲み出るものがあるのだろうか、じきに小中高の時と同じ視線を向けられるのを感じている。今が瀬戸際だ。もう一手でも間違えば小中高の二の舞だ。
それで、来たくもない「合宿」にもついて来た。
「大学生だし羽目を外して楽しもう」とやたら張り切って計画された合宿には、オカルトを餌に誘った他大学の女子も参加する予定だった。しかし、現地集合のはずなのに約束の時間が過ぎてもいっこう彼女たちは現れない。教えられた連絡先も繋がらないという。それで荒れそうな一居たちを酒で何とか落着かせた。
ぱたぱたぱた。真っ暗な部屋の中、足音が聞こえる。一居も散々飲んでいたから、ややふらついた不規則な足音。それが次の角に着いた辺りで「ぎゃっ」と悲鳴がした。
「もお、なんだよ。驚かすなよ」
「肩叩くって言ってただろ」
暗闇の中で一居と不二のはしゃぐ声が聞こえる。「んだよー」とぶつぶつ言いながら、不二が出発する。次の角でも「ぎゃっ」と同じことが繰り返される。いちいち驚く辺り、よしよしもう半ば寝かけているのかもしれない。
足音が近付いてきて、「でーん!」と背中をばちこん叩かれる。「いたっ」と声を上げると、うへへと里三が笑う。「お前の金髪は暗闇でもぼんやり見えるぜ」と嘯く里三を無視して、出発する。
次の角には誰もいない。本来ならそこでゲーム終了だが、さっきの一居の指示に従ってさらに次の角まで進む。それの何が面白いんだと思いながら。ええと。この後二周目に里三が走った時、次の角に誰もいないことになるから、一居にタッチしたら僕はまた角を一つ戻っておかないといけないのか。それからまた二辺走って、一辺戻って……、と考えているうちに、二つ目の角に到着した。しかし、手探りするがそこにいるはずの一居がいない。あれ? 考え事をしながら進んでいたから、数え間違えたか? と思いながらもう一辺進むが、次の角にも誰もいない。さらに進みながら、考える。不二と里三を怖がらせる計画だと思っていたが、さては僕をびびらせるつもりだったんだな。ありえることだ。
気付かない振りをしながらそのまま進み続ける。ゲームを終えてまた別の絡まれ方をするよりは、一人ぐるぐる走り回っている方が気が楽だ。それに相手は酔っ払いだし、そのうち追い付くだろう。
ぐるぐる。ぐるぐる。
ぐるぐる。ぐるぐる。
進んでも進んでも、角に着いても、いっこうに誰にも行き当たらない。おかしい。酔っ払いが真っ暗闇の中で三人揃ってこんな器用に逃げ続けられるだろうか。そういえば足音一つしないではないか。
立ち止まって耳を澄ませてみる。足音どころか、息遣いさえ聞こえない。雨はもう止んだのだろうか、外の気配も感じられない。
おい、と闇に向かって発しかけた声を飲み込んで、また走り始める。
なんとなく声を出してはいけない気がした。
気付かれてはならない。誰に? 何に? 分からない。自分は誰かを追い掛けているのか、それとも追われているのか。壁を手探りして蛍光灯のスイッチを探すけれど、ずいぶん走って今やどの位置の壁を走っているのかさえ判然としないので、スイッチも見つからない。いや、それどころか扉さえ。止まってはいけない。走り続ける。いつまで走り続ければいいのだろう。登山客たちは朝日が昇るまで走り続けた。しかし、この部屋には窓がない。
次の走者の肩に手を置きさえすれば、終わらせることができるのだ。
たったった。たったった。
たったった。たったった。
暗闇の中、僕はぐるぐると走り続ける。ほんの一夜のお遊びのはずだったのに。どれ程の時間を走り続けているのか、もう自分でも分からないでいる。
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