87、村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

「濡れてる」

 彼が言う。

「あ……」長い指に触れられて、思わず私の唇から息が漏れる。彼はいつも私の触れて欲しくないところに触れる。

「放っておいて」

 なのに、搾り出した私の声はしっとり濡れている。

 彼は素直に私の頬に添えていた指をそっと離す。離さないで。心のどこかがそう言うけれど、それは言葉にはならない。

 彼が触れていた部分に指を当ててみる。濡れてなんていない。当然だ。私は泣いてなどいないのだから、まだ。

 彼との結婚生活はほんの一年で終止符を打った。私から別れを告げた。彼はいつでも傍にいてくれるから。彼がいるとひとりで泣けない。

 私みたいな欠陥品の何を気に入ったのか知らない。けれど、彼は私にプロポーズした。愛が分からないと渋る私に、それでもいいと言ってくれた。彼と一緒なら愛というものが分かるかも知れない。それで私は彼と結婚した。

 けれど、結局私には愛というものが分からなかった。

 彼のような善き人を私なんかに縛り付けておくのが申し訳なくて、別れを切り出した。「きみがそう望むなら」と、彼は意外にもあっさりと承諾した。私はそれをほんの少し寂しく思ったが、何かが変わるほどではなかった。

 以来、彼とは付かず離れずの関係を続けている。

 私にかなしい出来事があると、慰めてくれる。

 ペットが死んだ時。

 同僚が急逝した時。

 友人が事故死した時。

 祖母が亡くなった時。

 隣人が姿を消して警察の検分があった夜。

 いつもタイミングよく彼が現れて、私を慰める。遠方に出張へ行っているはずだったとしても。まるで私の身に何が起こるのか知っているみたいに。

「ヒーローはどこからでも飛んでくるものさ」

 そう言って私の髪を撫でる。

 いつの間にか、私の目からはらはらと涙が零れ落ちる。今まで誰かの前で泣くなんてなかったのに。彼と一緒にいるうちに、少しずつ変わっていっている。彼の長い腕の中に身を委ねる。私の冷たい体に、彼の体温が伝わってくる。

 私には私の心が見えない。人間としての感情がないのではないか。

 身近な人が亡くなった時にささやかな涙を流して、かろうじて自らの感情を、己の生を実感する。そんな壊れた私に彼は寄り添ってくれる。

「別れてなお僕はきみを愛している」

 そう囁き、実際に再婚はおろか、恋人を作ることさえしない。

 まるで甘い罠に絡め取られたみたいに。自分でも気づかぬうちに、私は彼に依存しているのではないか。最近は自分でも少し恐ろしくなるくらいペースが上がってきた。もともとは、自らの生を確認するためだったのが、この頃は彼に会う目的に変わっていやしないか。この人を手に掛ければ、きっとまた彼が慰めに来てくれると。

 いや、そんなことよりも私が恐れているのは。

 ずっと聞こえない振りをしている。けれど、どんどんその声は大きくなる。心の奥深くで、もう一人の私が囁くのだ。――誰よりも特別な存在の彼を喪えば、私の心はきっと今までにない程強く揺さぶられるでしょう。

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