86、嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな
大学の旧学生棟四階の薄暗い道場がサークルの部室だ。
「新しい教祖様が見つかりました」
大学にある支部長の飯田から連絡があった。
連絡を受けて、まずサークルが存続していることに驚いた。そして、宗教活動を続けていることにも。それで、重い足をここまで運んだ。
扉を開けて、部員の顔を見た吾妻は息を呑んだ。
そこには部長の飯田以外に、見知った顔が二つ並んでいた。
「
白い服を着て飯田部長の隣に飄々と立っている青年。彼は、吾妻が愛した女性の息子で(その女性のために吾妻はこの宗教団体を立ち上げた)、女性が出て行ったあとには吾妻自身が息子同然に育てた子だ。ここの大学に進んだことは知っていたが、まさかこのサークルに行き着くなんて。東は、彼が本部の幹部であることを知っていたのかどうか、育ての父の顔を見ても驚く様子もなくにこにこ手を振っている。
そしてもう一人。
白い装束を纏い、長い黒髪を靡かせる少女。彼女の名は訊かぬとも知れた。かつての教祖様と同じ顔をしている。
「――
東とは対照的に、彼女は能面のような表情で入口に立つ吾妻を真っ直ぐに見つめる。
性別が違うから、分かりにくいかもしれない。けれど、少しでも事情を知っている者ならば、対面した二人を見てすぐに気付くだろう。吾妻とアキの相貌がそっくりであることに。
なのに、吾妻本人はこういう対人的なことにとても鈍いから、気付いていないのかもしれない。
アキちゃんも、何でもお見通しみたいな顔をしているけれど、吾妻に似てたぶん何も分かっちゃいない。
アズマくんは飄々として何考えてるのかよく分からないけど、聡い子だから、ある程度の事情を察していると思う。けど、アタシほどじゃないはずだ。だって、アタシはアズマくんとアキちゃんが生まれる前から知っているのだもの。
この部屋の中で、もっとも彼らのことを知っているのがお人形のアタシだなんてね。
アタシはアキちゃんとアズマくんが幼い頃に、彼らのお母さんによって手作りされた。だから、それより前のことは実際に見たわけじゃない。けれど、お人形だから気を許してしまうのかしら、たくさんの人がアタシに色々なことを教えてくれた。祭壇のご神体の鏡の前に座るアタシに、人々は時には悩みを打ち明け、懺悔し、秘密事を話した。だから、アタシは結構人間の心を理解しているつもりだけど、その一方で人間は複雑怪奇で理解できないなとも思う。
そして、彼らのことを、この「宗教ごっこ」(信者の一人がよくそういう表現をした)のことを、誰よりもよく知っているのもアタシだ。
この「宗教サークル」は、当時大学生だった吾妻の気紛れで設立した。たった一人の愛した女性に居場所を提供する目的のために作った組織だ。
だから「宗教」を謳いながらも、当初の活動はごっこ遊びのようなもので、集まってくるのは彼らと同じくただ居場所を欲する人達だった。一人で学食でランチできないような子が、道場へ来てお弁当を広げるような他愛もないものだ。ご神体の大きな鏡でメイクを直す子さえいた。彼女はそういう人達に温かく手を差伸べ、吾妻もそれを受入れた。
吾妻の連れてきた彼女は、妊娠・出産で一度は団体から去った。人妻だもの、いつまでも学生に紛れて遊んでもいられない。自らの家庭に戻っただけだ。
なのに、鏡が呼んだのだろうか。再び彼女は戻ってきた。
吾妻は大学院を卒業して、サークルの部長を後継に譲り、自らは「本部」と称して親族から譲り受けた郊外の居宅に移り住んだ。そこに彼女も住むことになったけれど、家庭を捨ててきた今、お遊びというわけにはいかなかった。彼女は「教祖様」として振舞った。自らを正当化するために、まるで人格が変わったみたいに。その怪しい光に導かれるように、団体には危うい人達が集まってきた。触れれば壊れてしまいそうな人達。突き放せばいいのに、彼らはそんな人達を団体に受入れた。根がやさしいものだから。反面、そういう人達から守るために、我が子を突き放した。結果、双子の子供たちを手離すことになってしまった。そうして双子は別々に引取られた。
アタシが作られたのは、その頃だ。
彼女は「教祖様」としての覚悟を決めた。代わりに、愛娘に似せて人形を作った。人形の中には親子三人の髪を忍ばせた。
けれど、守るべき小さき者を失ったことで、たがが緩んだように少しずつおかしくなっていった。彼女も、団体も。
いえ、そうじゃない。
鏡は次の教祖様を求めていた。出産を契機に、彼女の不思議な力は弱まっていた。団体内外でも細かな諍いが絶えないようになった。そんなトラブルに対処するため、吾妻は我が子を失った彼女のケアに十分な時間を割けなくなっていた。
それで彼女は団体を出奔した。
そんな矢先に「支部に新たな教祖様が現れた」という連絡を受け、吾妻は慌てて支部に乗り込んできた。
そこで今、吾妻は、彼女の双子の子供達――アズマくんとアキちゃんに対面したわけだ。
けれど、これは偶然なんかじゃない。
前教祖様の力を継いだ子が仕向けたことだ。すべてを終わらせるために。
団体の元信者の手で育てられたアズマくんは、自身の母のルーツがここにあると知り、興味本位でサークルの門戸を叩いた。そこでご神体の前に座る
鏡に導かれてサークルに迷い込んできたアキちゃんを、アズマくんが引留めた。
アキちゃんとアズマくんは、同じお母さんのお腹から生まれてきた双子なのにまるで似ていない。二人が兄妹だと他人が気付くことはまずないだろう。
まれにこんなことが起こるらしい。
異父過妊娠――、父親の異なる双子。百万分の一の確率だとされるが、母親が申告しないケースも多いと考えられるため実際の確率はもっと高いとも言われる。
鏡なんて拾ってくるから、おかしくなってしまった。
アタシはそう思うけれど、お人形だから何もしてあげられない。
だから、今父子が対面するこの状況を作ったのは、他ならぬアキちゃんとアズマくんだ。
運命に引き寄せられるみたいにここを訪ねてきたのは彼らだけではなかった。アキちゃんとアズマくんのお母さんも数日前ここへやって来た。団体を抜けて一人で生きるお母さんは我が子の形見としてこっそりお人形を取り返しに来た。鏡が彼女を呼んだのだろう。アタシが鏡の前に座る限り、鏡は悪さができないから。
祭壇から突如お人形がなくなって、サークルの皆は騒然とした。それを黙らせたのはアキちゃんだった。
「静まって! もう人形なんていらないでしょ。教祖の私がいるんだから」
アキちゃんが一喝すると、皆から「つきしろ様!」と声が上がった。
そんな盛り上がりの中、アタシを連れ去ったのがお母さんだと察したのはアズマくんだった。けど、行動したのはアキちゃんだ。
「……母さんが取りに来たんだ」
アズマくんが呟いた瞬間、アキちゃんは部室を飛び出した。薄暗い廊下を真っ白な装束が走り抜け、建物を出ようとするアタシ達に追いついた。
「お母さん!」
アキちゃんははっきりとそう呼び止め、お母さんの腕を取った。微塵の迷いもない。彼女は月下に光る日本刀みたいな子だ。
アキちゃんは、振り返ったお母さんの手からアタシを取上げた。
お母さんは、まるで怯えるようにアキちゃんを直視することができなかった。「アキちゃん?」と呼び掛けようとした言葉さえ、唇から外に出ることはなかった。
「……返して」
かろうじて口にしたのは、それだけだった。私にはもうそれしかないから、と。
「駄目」
アキちゃんは容赦なく断った。
アタシは、アキちゃんはお母さんを引っ叩くのかなあってわくわくして見てたけど、アキちゃんはそんなことしなかった。遅れて追いついてきたアズマくんも。
「お母さんにはお人形なんていらないでしょ」
お母さんは悲しそうな顔をした。
「お母さんはもう家にも団体にも居場所はないよ。自分で捨てたんだから」
アキちゃんの言葉は遠慮というものを知らない。お母さんは項垂れてしまった。いつもなら足りない言葉をフォローするアズマくんも今は黙って静観している。
「お母さん、今どこで暮らしてるの」
「え?」
「これからは、私とアズマがお母さんに会いに行く。だからもう子供代わりの人形はいらないでしょ」
「……いいの?」
いいよ、と返事する代わりに、アキちゃんはにっこり微笑んだ。かつての教祖様とそっくりなすべてを包み込むような微笑で。
アキちゃんには人間の心がない。無表情な彼女はそう勘違いされることも多い。実際、そのせいであまり人が寄り付かないから、確かに変わった子ではある。思ったことをはっきり言っちゃうところとか。けれど、伝わりにくいだけで、実は誰よりも情に
サークル活動するうちにアズマくんのことを思い出し、お母さんのことを思い出したアキちゃんは、よく誰もいない部室でじっと祭壇の前に佇んでいた。
お母さんそっくりな
アキちゃんは後悔していた。「お母さん、しゅーきょーしてるの気持ち悪い」、祖母の入れ知恵もあり、幼いアキちゃんはお母さんにそんな台詞を何度もぶつけた。そのせいでお母さんは家を出て行ったのだ。だから、私のことは置いて、アズマだけを連れて出て行ったのだ。いや、でも本当に嫌っていたならば私そっくりの人形を作ったりしないはず。ああでもこの人形さえ置いていってしまった。
けれど、彼女はそんな懊悩を誰にも見せない。教祖様だから。アズマくんさえ、そんな彼女を眩しそうに見つめる。アタシも彼女の力になってあげたいと思う。
お人形がこんな風に意思を持つのは普通ではないようだ。想いを籠めて作られたせいかもしれないし、ずっと鏡の前に座っているせいかもしれない。
人間とは因果なものだ。
でも、アタシ、皆のこと嫌いじゃない。皆やさしい人達だ。
アタシの中には、綿に紛れて親子三人の髪の毛が埋められている。アタシを作ったお母さんと、双子の子供達のものだ。
そのことを知っているのはアタシとお母さんだけなのに、アキちゃんもアズマくんもちゃんとやさしい。やさしい人達に育てられたからだ。やさしい人達ほど苦しむ。もっと幸せになっていいのに。
「アズマ、もう全部終わらせよう」
お母さんを見送って、アキちゃんが言った。宗教の再興に興味があると言っていたアズマくんは、少し残念そうだったけれど、承諾した。
アズマくんの手を介して、アタシは吾妻の元へ行き、彼をここまで連れてきた。
「お父さん、この鏡を元の場所に戻したいのだけれど」
アズマくんが言う。
割っちゃえばいいのに。と思うけれど、こんな所で割れば何が起こるか分からないものね。
吾妻から場所を聞いて、アズマくんとアキちゃんは二人でレンタカーを借りた。後部ハッチに大きな鏡を乗せて。夜の山道は木々の陰となり月明かりもなく暗い。
「あーあ、飯田先輩が卒業すれば僕が次期部長だったのにな」
「いいじゃん、そのまま部長になれば。そもそもうちってボランティアサークルとして登録してあるんでしょ」
運転席のアズマくんも助手席のアキちゃんも淡々と世間話をしている。けれど、膝の上のアタシを抱く手が心なし震えている。まだ子供だものね。大丈夫よ。アタシはアキちゃんの腕にそっと手を添える。最後にアタシにできること。
廃村に辿り着くと、二人で鏡を車から下ろし、人目に付かない藪の中に置いた。
アキちゃんが前屈みになった時、パーカーのお腹に入れていたお人形がするりと飛び出した。
「あ」
ふわふわのはずのお人形が鏡の上にぽとんと落ちた瞬間、バキバキと鏡の表面に亀裂が走り、パリンと割れた。
その時、雲が切れて満月が出た。
さようなら。鏡から得ていた力が一気に抜けていく。目を閉じる前に、アキちゃんとアズマくんがアタシに手を伸ばすのが見えた。
これでもう大丈夫だからね。
誰もいなくなった廃村に、どこからか一人の白装束の人が現れる。
粉々になった破片の一つを取り、アタシの体の上に乗せる。月光が宿る。せっかく双子が手向けてくれた月下美人の甘い香りに包まれて眠ろうと思っていたのに、アタシを起こすのは誰?
白装束の人は、アタシを抱いてにこりと微笑んだ。
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