85、夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり
だめだ、何も出てこない。
天井を仰ぐ。
けれど、何にもなりやしない。
そこから白い手が伸びてきたのは、もうずいぶん昔のことだ。
僕はまだ中学生で、インフルエンザに罹って学校を休み、高熱にうなされながらぼーっと天井の板目を眺めていた。ちょうどベッドで眠る僕の真上の模様が、髪を逆立てた女のように見えると思っていたら、そこからぬるっと白い腕が伸びてきて、僕の手を掴んだ。そうして、声を上げる間もなく、その腕に引上げられて僕は天井の中に引きずり込まれた。
僕の腕を掴んだ女は天井に浮かんだ姿そのままに長髪を逆立てていたが、その髪色は紅蓮の炎のようだった。けれど恐ろしいと思わなかったのは、彼女があまりに華奢な体をしていたからだ。ひょろりと長い手足は少し力を込めれば折れてしまうのではないかと思うくらい細いのに、けっして僕の手を離さなかった。陶器のように白く滑らかで冷たい肌。この世のものとも思われない。
また、彼女を恐れなかった別の理由は、「そこ」には彼女よりもはるかに恐ろしい異形たちが蠢いていたからだ。彼女の手を離せば、たちどころに喰われてしまう。そう直感した。
その世界で、僕は異形たちと戦った。戦う理由なんて。やらねば、やられる。その一心で、彼女に指示されるまま奇妙な世界を渡り歩いた。ホームシックに陥る暇さえない。
そうして、そこで一年以上の時間を過ごした。異形たちはいずれも人間のエゴを煮詰めたような醜悪な容貌をしていて、慣れはしないが、次第に興味を抱くようになった。そのフォルムも生態も、僕の世界では想像さえできぬものだった。だから、それらをスケッチしたいと思ったが、その世界でそれは叶わなかった。その間、僕の腕はずっと彼女に握られたままだったから。
けれど、別れは突然やってきた。
鎌のようなものを振るった異形から僕を庇って、彼女の腕は落ちた。ずっと繋いでいた片翼を喪った反動で、僕は断崖から落ちていった。光の届かぬ奈落の底へ。
「戻って!」
悲鳴のような声が上がり、出し抜けにぐっと腕を引かれて、僕は尻餅をついた。
目を覚ますと、自宅の自分の部屋だった。窓から飛び下りようとしているところを、母親に止められたのだった。処方薬の副作用による幻覚のせいらしい。
ベッドに戻った後も、しばらくぼんやりしていた。だって、確かに一年以上の冒険をしたはずなのに、ここは先程天井を眺めていた時からまだいくらも時間が経っていないのだから。
考えれば考えるほど、あちらの世界の出来事はぽろぽろと頭の中から零れ落ちていくようだった。それで、僕はまだ熱の引かぬまま机に向かった。
先程見てきた異形たちをノートに描き写し、いや駄目だ、見えるものだけではない、出来事もすべて書き残さねば。
かりかりかりかりかりかりかりかり。
一心不乱に机に向かった。熱が引いてからも。学校へ行くのもやめた。どうせ行ったっていびられるだけで時間の無駄だ。寝食を惜しみ丸一ヶ月掛けて描き上げた漫画は、大手の漫画雑誌の新人賞で大賞を獲った。絵は荒削りだが、完成された世界観と、独創的な妖怪のデザインであると絶賛された。特に、逆髪の女が最も不気味で見るだけで吐き気を催すほどだと。
「十四歳の鬼才現る」とセンセーショナルに発表された受賞作は大いに話題となった。
しかし、それも束の間のことだった。
誰もが僕の第二作を期待した。しかし、描けなかった。何も。
そんなはずはない。僕は天才なのだから。
毎日何時間でも机に向かうのに、何も描けない。
次第に人も離れていった。焦れば焦るほど何も出てこない。うるさい。急かすな。黙れ。口出しするな。独りにしてくれ。じきに誰も近寄らなくなった。
あっちの世界では「英雄」と呼ばれたことさえあったのだ。僕はやれるはずだ。そう思うものの、その頃にはもうどれだけ集中しても頭痛がするだけで新しい記憶は何一つ呼び覚まされない。もう一度あちらへ行きさえすれば何とかなるのだ。僕がそう訴えるたびに、母も父も気味悪そうな顔をする。無理矢理病院へ連れて行こうとするので、思わず力に任せて振り払ってしまった。以来、親も僕に接することを避けるようになった。
構わない。
かりかりかりかりかりかりかりかりかり。
机に向かう。絵だけは上達した。なのに、肝心のストーリーが浮かばない。行かなければ。なぜ誰も信じてくれないのか。嘘じゃない。僕の右手首には逆髪の彼女が握った痕が今も残っているのだから。
夜は静かでいい。世界で生きているものが誰もいなくなるから。集中できる。なのに、何も浮かばない。長い。夜が長い。永遠に明ける気がしない。まるであの時覗き込んだ真っ暗な奈落のように。
かつての同級生達は、とうに就職して結婚して子供を作り家を建ててと時を進めているらしい。僕はずっとこの子供部屋に閉じこもったままだというのに。だからこそ今更引き返せないではないか。僕にはこの道しかない。
もう一度。もう一度行きさえすれば、すべて上手くいくはずなのだ。
天井を仰ぎ見る。
すると、ひょろりと細い腕が天井から伸びる。僕はその手を掴むために、椅子の上に足を掛けた。
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