84、ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しとみし世ぞ今は恋しき
牛と一緒に夜空を見上げていました。
ハナコという雌牛でした。私の物心がつくかつかないかの頃に生まれた牛で、あまりに弱々しいので他の牛たちとは別の小屋で世話されていました。
私自身まだ幼かったですから、体の大きな他の牛たちよりも、小さなハナコがお気に入りでした。よくハナコの牛舎に入浸っては、温かい体に身を寄せました。私には母がいませんので、ハナコに母性を感じていたのかもしれません。
父は男手一つで、牧場経営に子育てにと大忙しでした。ですがそんな父の庇護の下、私も牛たちものんびりすくすくと育ちました。
そんな中、不幸が訪れました。うちの牛が何者かに連れ去られ、一頭ずつ減っていくのです。
巷では、牛の血が抜かれた、宇宙人の仕業だ、などと騒がれていた時期です。当時はオカルトブームで、テレビでもよくそんな特集が組まれていましたね。
私の三歳の誕生日にもまた一頭いなくなりました。だから、折角食卓に豚汁が並んだのに、私の気持ちは沈んだままでした。あ、当時うちでは豚汁がごちそうだったんです。普段は具のない味噌汁ばっかりだったので。それ程うちは貧しかったのです。
牧場の経営は厳しいと父は酪農仲間に溢していましたし、昼間は町へ働きに出なければ生活ができない程でしたから。
UFOがうちの牛を連れ去っていることは、父も知っていました。そもそも父から聞かされたのです。でなければ、まだ幼い私が深夜に何が起こっているのかなんて知るよしもありません。知っていたけれど、父にはどうすることもできませんでした。だって、相手は宇宙人なのですから。
幼いながらも家族(父と牛たちのことです)のために何とかせねばと、私は夜更かしをして犯行現場を取り押さえようと思いました。直接宇宙人に交渉するつもりだったのです。もううちの牛ばかり連れて行くのはやめて。隣のキヨさんの牛の方がおいしいよ、って。
それで私は晩ごはんを食べた後、ハナコの牛舎に籠りました。一人では怖いですもの。ハナコと一緒なら安心です。ハナコはぐんぐん成長して、その頃にはもう立派に大きな体をしていましたから。
外が見えるように牛舎の扉を少しだけ開けて、敷き藁の上でハナコに寄り掛かってうとうとしていました。深夜、ハナコがぶうと小さな鼻息を立てて私を起こしました。眠い目を開くと、扉の外がとても明るい。一瞬もう昼間かと思ったほどです。けれど、それは太陽の光ではありませんでした。
十メートル程の高さでしょうか、銀白色の大きな円盤が夜空に浮かんでおり、円盤の底から地面に向かって強い光を放っていました。放牧地に立っていた牛が、その体勢のまま光の中をふわふわ浮いていき円盤に吸い込まれました。私とハナコは、唖然としてそれを眺めていました。自分には何もできないと悟り、ただ見つからないように息を潜めていました。ハナコの温かい体がなければ、気絶していたかもしれません。
結局何の対抗措置も取れずに、牛は一頭、また一頭と数を減らしていきました。
そうしてついにハナコを残すのみとなりました。
別れの予感に、私は片時もハナコの側を離れませんでした。その甲斐あってか、ハナコはすぐにはいなくなりませんでした。
ハナコの乳が出るようになった時、私は絞りたてのそれを飲ませてもらいました。後にも先にもあれ程美味しい牛乳は飲んだことがありません。私にとっての母の味です。
「ハナコ、おいしいよ」
讃えると、ハナコも嬉しかったのかモーと鳴いて私の体に頭を擦り付けました。それがハナコとの最後の思い出です。
翌朝起きると、ハナコはもういませんでした。
それでうちには牛が全くいなくなり、牧場を畳むことになりました。その区切りに、父は豚汁を出してくれましたが、私は泣きじゃくってなかなか箸を付けませんでした。ようやく口にした時にはすっかり冷めていましたが、泣いてお腹を空かせたためむしゃむしゃ食べておかわりまでしました。
そんな風に、幼い頃はUFOの存在を信じて疑っていませんでした。けれどさすがに今は違いますよ。
UFOのことは、父がついた嘘だったのではないかと思います。
私が物心ついた時にはすでに牧場経営は苦しかったですから、父ははなから酪農から撤退するつもりで牛たちをよそに引取ってもらっていたのだと思います。それを、幼い私を慮ってUFOのせいにしたのではないでしょうか。それを信じ込んだ私はまんまと夢まで見たのでしょう。父が生きていれば真相を聞けるのに。けれど実際、会社勤めに専念してからの方が生活は楽になり、以降は誕生日にも豚汁ではなくケーキを食べるようになりました。
え、私の実家が酪農をしていたなんて意外ですか? そうですね、牧場をやっていたのは私がほんの幼い頃まででしたから、私自身あんまり実感はありません。大人になるまで私は牛肉と豚肉の違いさえ分かっていなかったんですから。新人の頃、取引先の人に牛しゃぶをごちそうになって「美味しい豚ですね」と言って笑われたのは、今でも恥ずかしい思い出です。それもあってわざわざ酪農家だったことを自分から話すことはなかったんです。
ただ僅かにハナコとの思い出を覚えているばかりなのですから。
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