83、世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

 はあ、はあ。

 どこまで逃げても追いかけてくる。

 姿は見えない。けれど、声が聞こえる。声が、どこまでも追ってくる。

 許して、許して。わざとじゃなかった。あれは事故だった。だって、あんな簡単に死んでしまうなんて思わなかった。

 誰も見ていないはずだった。

 あの人の死は事故として片付けられて、私もこれまでと変わらぬ平凡な生活を送っていくはずだった。

 なのに、あの時から声が聞こえる。

「ヒトゴロシ」

 言葉として認識できないほど微かな声、けれど私の耳にははっきり聞こえた。

 誰? 振り返るけれど、声の主は見つからない。

 でも、確かに聞こえた。

 誰にもばれていないと思っていた。けれど見られていたのだ、誰かに。

「ヒトゴロシ」

「ヒトゴロシ」

「ヒトゴロシ」

 ふとした時に声はあちこちから聞こえた。雑踏に掻き消されそうなくらい小さな声で、男なのか女なのか、若いのか年配なのかも判別できない。

 もしかしたら、一人の声ではないのかもしれない。

 そう思い至った時、ぞっと背筋が総毛立った。

 どうしよう。相手が一人なら、見つけ出しさえすれば何とかなると考えていた。また消せばいい。仕方のないことだ。けれど、不特定多数なのだとしたら、そうも言っていられない。

 私は逃げ出した。

 どうして私がこんな目に。

 何の高望みもしない。ただ平凡に生きたいだけなのだ。それがたった一度、誤って人の命を奪ってしまっただけだ。幼少期から今までたくさんのことを我慢してきた。それでも一生懸命に真面目に生きてきた。なのに。人生でたった一度、ささやかな自己主張をしてみただけだ。なのに、軽んじていた私が言い返したことにあの人は激昂して、掴みかかってきた。揉み合いになるうちに、気付けば動かなくなっていた。そうだ、あの人はいつも私を虐げてきた。誰も助けてくれなかったし、私は一人で耐えてきた。あの人の家族だって、事故として納得しているじゃないか。わざわざ殺されたのだと報せて傷付ける必要はないではないか。

 そう思うのに、声は消えない。

「ヒトゴロシ」

 あの人の声に似ている気もする。

 頭がおかしくなりそうだ。

 もう嫌だ。

 私は耳を切り落とした。

 なのに、声は消えない。

「ヒトゴロシ」

 頭の中で声が響く。

 ゴンゴンゴン。どれだけ壁に頭を打ち付けても声は消えない。

 ふらふらと山の奥に入り、崖の上に立つ。

「ヒトゴロシ」

 谷底から声が聞こえる。

 分かった。もう分かった。

 私は谷へ向けて一歩踏み出す。手にはナイフを携えて。声の主を消す。そうして私は生きるのだ。

 落ちていく。どんどん地面が近付いてきて、ふっと声は遠くなった。

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