21、今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
「いま来られますから」
白い服の人が言う。その言葉に従ってもうずいぶん待っているけれど、いっこう来ない。私は何を待っているのか。分からない。けれど、ただ待っている。
「ちょっと覗きに行ってみようよ」
友人が軽い感じで言った。私は怪しい宗教みたいなものには関わりたくないと言ったけれど、彼女は粘り強かった。
「社会学部生として宗教団体がどんなものなのか、一度は見てみた方がいいと思うの。本気のやつは私も怖いけど、これは学生がやってるお遊びみたいなものだから平気だよ。とくに悪い噂も聞かないし、学生課も黙認してるんだし。学生棟の部屋は鍵がかからないようになってるから、危ないと思ったらすぐ逃げればいいんだよ」
きっと一人で行くのは怖いのだろう、あまりにしつこいので私は渋々承諾した。彼女は嬉しそうに飛び跳ねた。その熱心さを勉強に充てればいいのに、という私の小言はもう耳に入っていないようだった。
その団体の部屋は旧棟の四階にあった。晴天にも関わらず、フロアは薄暗い。廊下の窓が薄汚れたまま磨かれていないせいだ。現在フロアには件のサークルしか入っていないらしい。せまい部室をイメージしていたけれど、見つけた部屋はずいぶん大きかった。柔道部が練習するような道場が広がっている。すべての窓にカーテンがかかって外の光は入らず、室内は蛍光灯に照らされて白々しい。部屋の隅で数名の学生が雑談している。皆、白い服に身を包んでそれらしくしているが、見るからにふつうの人達だ。
入口のところで友人と二人でぼけっとしていると、すぐに一人がこちらに気付いて声を掛けてくれた。見学したいと申し出ると、祭壇の前に案内された。道場の正面には大きな祭壇が設えられていて、その奥はカーテンで仕切られている。
「つきしろ様がすぐに来られますから、ここで待っていてください」
そう言われて、私達は大きな祭壇の前にぽつんと正座した。ちらと友と視線を交わすと、彼女は「へんな所に来ちゃったね」といたずらっぽく笑った。
すぐ来ると言われて待つものの、つきしろ様とやらはいっこう現れない。いつの間にか、白い服の人達もいなくなっていて、広い部屋には私達しかいない。友人は落ち着かなさそうにきょろきょろ部屋を見回している。私はそっと溜息を吐いて、ぼんやり目の前の祭壇を眺める。
部屋の一辺を占めるほど大きな祭壇だ。三段に組まれた祭壇には花やお菓子や酒が供えられている。花は、造花や学内でむしってきたようなものが混じっていて、やる気があるのだかないのだか分からない。最上段には大きな円い鏡が置かれている。よく見ると、カーブミラーだ。どうやって手に入れたのだか。鏡の前には、小さな人形がぽつんと置かれている。友人も気付いたようで、人形を見た瞬間「ひっ」と小さな悲鳴を上げていた。
待つうちにどんどんイライラしてきた。とても無駄な時間を過ごしている。
「ねえ、もう帰ろうよぅ」
堪え性のない友が情けない声を出す。あんたが来たいって言ったんだろうが、という暴言を返す代わりに無視を決め込む。何度か「帰ろう、帰ろう」と声を掛けてきたが、あまりに私が無反応なので不安になったのか、「先に帰るね」と一方的に早口で言って一人でそそくさと部屋を出て行った。長時間正座していたせいで立ち上がった瞬間ずでんと転んでいて、ざまぁと思った私も大概性格が悪い。
薄情な友の後姿を見送って、一人でこんな所にいても仕方ないので、私も部屋を出ることにした。立ち上がりかけたところ、どこから戻ってきたのか白い服の男に、肩に手を置かれた。
「つきしろ様がいま来られますから。もう少しお待ちください」
「もう結構待ったし、友達も帰っちゃったんですけど」
「大丈夫。もうじき来られますから」
白い服の人はそう繰り返すばかり。
私の方でも、「つきしろ様」を実際に見れば、あとで友人に嫌味の一つでも上乗せできるかもしれないという下心があった。すぐ来るのなら、もう少しだけ待ってみよう。そうして座りなおした。
腰を下ろす直前に、鏡の中の自分と目が合った。ちょうど立った時に顔が映る高さなのだ。意地の悪い薄ら笑いを浮かべていた。
相変わらずひどい顔。母とはまるで似ていない。といっても、母のことは写真でしか知らない。写真の中の母はいつもにこやかな表情を浮かべている。すべてを包み込む微笑をたたえた母は、私が物心つく前に失踪したらしい。父も祖父母も、母について何も教えてくれない。一度だけ、酔った叔父が、母がなにかの宗教団体に入れ込んでいたという話を溢したことがある。だから、私はなるべく宗教というものには関わらないようにしていたのに。
祭壇の前でじっと待っている。窓の外が見えないからもうどれだけ待っているのかも分からない。白い人はまたいつの間にか姿を消している。ずいぶん待った気がするけれど、いっこう誰も来ない。私は一体なにを待っているのか。分からない。けれど、ただ待っている。
鏡の前の人形の白い顔は、母によく似ている気がした。
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