5、奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき

 あの山には誰も登らない。けっして登ってはいけないと、古くからこの集落で言い伝えられているからだ。「呼ばれるから」、おばあはそう言っていた。

 なのにその山に踏み入ったのは、逃げて来たからだ。くだらないことで村の連中と揉めた。村の金を少々拝借したのだ。そうしなければ唯一の肉親であるおばあの葬式を出してやれなかった。

 山の中腹で一息つく。村人はこの山を畏れているから追っては来るまい。もう、村へ戻ることはできない。

 ふだん人の踏み入ることのない山中は荒れており、野宿などすればどんな獣が出るかも分からぬ。空に黒い雲がかかっている。確か山頂に近いところに祠があったはずだ。そこで雨風を凌ぐことにしよう。そう決めて、ふたたび山を登りはじめる。

 鬱蒼と木々が生い茂り、昼間なのに薄暗い。

 山道を登っているはずなのに、いっこう景色がひらけない。ずっと同じ場所をぐるぐる回っている気がする。迷ってしまったか。日も落ちてきて、暗い山道がさらに暗くなっていく。

 いっそ山にいるという何者かが「こっちだ」と呼んでくれればいいのにとさえ思う。呼ばれて山奥へ踏み分けて行った者はどうなるのだろうか。伝承は残っていない。誰一人として帰ってこないからだ。山の神は寂しがりだから人を呼ぶのだという。だから山に向かって「やっほう」と声を掛けると、返事するのだとか。一方で、生贄として喰われてしまうという噂もある。どちらでも構わない。どうせ天涯孤独の身の上だ。そう考えてから、ならば村の連中に大人しく捕まっていたってよかったんじゃないかと我ながら苦笑する。

 とはいえ、今更引き返す気にもならず、無心に山道を進む。ただ、先程までの逃げよう生きようという心持ちとは打って変わって、今はもうどうにもならなければそれはそれで致仕方なし、なるようにしかならぬ。命尽きなばまたおばあにも会えよう。

 そんなふうに歩いていたら、ふと誰かに呼ばれた気がした。

 足を止めて耳を澄ます。

「――こっちだ」

 木々の間から微かに聞こえたのは、おばあの声だ。はたしてその声は山奥から呼ぶ声か、それとも麓へと呼ぶ声か……。

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