4、田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

 白いワイシャツに付いた白いファンデーションに気付いたのは、夫を疑っていたからだ。浮気の証拠を見つけたからといって、どうする勇気も私にはないのだけれど。どうもしないなら放っておけばいいのに、次から次から女の痕跡を見つけてしまう。無駄に時間があり余っているのがよくない。仕事を辞めるのではなかったと今更後悔しても仕方ない。

 夫とは職場恋愛だった。旧い会社だから、職場内結婚の場合はどちらかが職場を去るのが慣例で(当然それはいつも女性で)、私も当然のようにそれに倣った。出産して子育てが落ち着いたらまた仕事を探そうかな、なんて甘いことを考えていたけれど、ずっと子宝に恵まれずにいる。

 家にいる時間が長いと悶々と気分が落ち込んでしまう。

 それで、平日一通りの家事を片付けたあと、電車を乗り継いで海を見に行った。たったそれだけのことなのに、「夫が働いているのに一人海に遊びに来るなんて申し訳ない」なんていちいち思ってしまう。そんな卑屈だからよそに女を作られてしまうんだなんて、いっそう卑屈になる。

「海」は「産み」に通じるともいわれるし、安産にご利益のある社があると、ネットで調べてわざわざここまで足を運んだ。けれどシーズンオフのせいか、駅から歩いて見える限りの海岸線にはひと一人いない。

 やしろは海岸の岩場の隅にぽつんとあった。地元の人がお世話しているのか、古いながらもきれいに手入れされており、祭壇の水も新しく、海藻が供えられている。賽銭をしてそっと手を合わせる。

 お参りするともう他にすることもなくて、早々に帰路につく。夕飯の仕度をしなければ。手を抜くとまた夫に叱られる。せっかく作っても帰ってこない日も多いのだけれど。

 その夜夢を見た。小さな赤ん坊がわあわあ泣いている。懸命にあやすけれど、泣きやまない。どうしたの、と訊く。あのパパの子どもは嫌だ。そう言ってわあわあ泣く。私はどうすることもできず、途方に暮れる。

 目が覚めた時はまだ深夜二時。隣に夫はいない。リビングのテーブルの上にはラップをかけた夕飯がそのまま残っている。スマホを確認すると「残業でそのまま会社に泊まる」とメッセージが入っていた。二十三時の着信だ。

 またファンデーションの付いたシャツを洗わねばならないのだろうか。溜息をつくけれど、私にはどうすることもできない。ただ少しずつ少しずつもやもやしたものが心のうちに溜まっていくだけだ。もやもやがすっかり溜まって全てを覆い隠してしまったら、何も思うこともなくなるだろうか。そんなことを考えながら、独り床に就いた。もう赤ん坊の夢を見ることはなかった。

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