寡婦蜘蛛の魔女3

「ふふ……ここまで凶悪な魔力を内側に抱えているだなんてね。びっくりしちゃった」


 寡婦蜘蛛の魔女が動くと、炎の蜂がそれを察知したように顎をその場に突き刺した。地面が抉れ、顎が突き立てられた場所に炎が吹き上がったけれどその場所にはもう寡婦蜘蛛の魔女はいない。


「やりすぎちゃった。ごめんなさいね。殺すつもりまではなかったっていうのは冥府を覆う氷あなたには伝わっているだろうけれど」


「詫びは今度してもらう」


「あら、意外。本当に許してくれるなんて。お嫁さんが出来ると丸くなるのね」


 イスは、箒に腰掛けながら空に浮いている寡婦蜘蛛の魔女へは視線を向けずに、私から生まれた化物をじっと見つめている。

 炎が渦巻き、周りの木々を燃やしていた。身体のあちこちから汗が噴き出ているのがわかる。

 このままだと森が燃えてしまうのではないかと焦っていると、寡婦蜘蛛の魔女がどこからか取りだした杖を手首だけでスイっと動かしたように見えた。彼女の杖の先端からは糸のようなものが広がって、あっというまに薄い膜のようなものが屋敷の周りを覆う。


「これはほんのお詫び。じゃあ、また会いましょう」


 寡婦蜘蛛の魔女はそういうと、膜を突き抜けて箒に腰掛けたままどこかへ飛び去ってしまった。

 イスはそんな彼女を咎めるような真似をするでもなく、追いかけもしなかった。

 不穏な羽音と共にミシミシと体を動かしているスズメバチとにらみ合っている。


「ど、どうするんだよ……こんな化物……私」


 せっかく私に優しくしてくれるみんながいるのに……フロルとペタロが怪我をしたらどうしよう。

 それに、こんな化物を生んだ私を、イスは嫌いになるだろうか。

 思わずイスのマントを握りしめながら情けない声を出す。私があんな魔女に惑わされなければ、こんなことにならなかったのに。

 下唇を噛みしめていると、イスがそっと鉤爪の背で私の唇を撫でた。 


「君は心配なんてしなくていい」


 私を抱きしめてから屈み込んだイスは、そのまま濡れた鼻を頬に当ててきた。

 こんなに熱いのに、鼻が当たった場所は冷たくて心地よい。

 すぐに体を離したイスは、枯草色の瞳で私をじぃっと見つめながら笑って見せた。人の表情とは違うけれど、笑顔だって私にはわかる。


「俺のいいところを見せてなかったよな」


 少し冗談めかしながら彼は言う。それから蜂が勢い良く前肢を叩き付けてきたのを私を抱き上げてひらりと避け、屋根の上に私を下ろした。

 私たちを見失った蜂が大きな目のついた頭を左右に動かしている。


「俺はとても強い魔法使いなんだ。だから、君は安心して夕食に食べたいものでも考えていれば良い」


「あんたがすごい魔法使いだってのは知ってるけど……今は冗談を言ってる場合じゃねえだろ! あんな化け物にはいくらあんただって……」


 王宮から派遣された魔法使いを氷漬けにして殺せても、人買いを脅かすのが得意でも、化物とは違う。

 イスよりもずっとずっと大きな蜂の化物はまだ飛べないのか、裏庭できょろきょろと辺りを見回しているだけだ。でも、いつ飛び立ってここに気付くのかわからない。屋敷も壊されてしまうかもしれないし、イスも大怪我をしたり、死ぬかもしれない。

 火の粉はあちこちに飛び散っているけれど、寡婦蜘蛛の魔女が張った膜から外へは出ていかないようで、森が燃えるのは防がれているらしいけど、それもいつまで保つかわからない。


「あんたが得意なのは氷の魔法で、アレは炎の化物だ。氷ってのは炎に溶かされちまうだろ?」


 焦りながら、私はイスに対して言葉を投げかける。 


「確かにそうだな。成長した君なら俺を殺せるだろう」


 優しい声だった。それから、そっと手の甲で頬を撫でられる。

 長い夜色をした睫毛がゆっくりと揺れて、枯草色の瞳が細められた。優しい表情を浮かべながら、彼の視線は裏庭へ向けられた。裏庭に陣取っている蜂はさっきから苛立ったように羽根を震わせている。


「だが……生まれたてで自我も失っている君の魔法に殺されるほど、俺は弱くないつもりだ」


 私を抱きしめていた体が離れていく。辺りは熱いのになんだか肌の表面だけが寒く感じて腕を伸ばすけど、それは虚しく空を掻いた。

 私から離れて屋根から音も無く飛び降りたイスが、ゆっくりと蜂の方へ歩いて行く。


「炎を纏う女王蜂、生まれたばかりのところ悪いが」


 イスの体に白い風が纏わり付くように噴いているのが遠くからでもわかる。

 急に現れた敵に、蜂が怒りを露わにしたようだった。私から出てきたモノだからか、蜂の怒りや焦りが伝わってきて胸の奥がざわざわして落ち着かなくなる。


「主の元へ戻ってもらおうか」


 イスが牙を剥きながらそういうと、彼に纏わり付いている白い風が一回り大きくなった。唸る風が蜂の縞模様に沿って燃えている炎の勢いを弱めていく。

 どうか、大人しくしてくれ。そいつは私によくしてくれたんだ。

 そんなことを思いながら、私はイスと蜂を遠くから見ているだけしかできない。


凍てつく風I'r gwyntoedd rhewllyd猛り狂う炎の蜂へhorned tân cynddeiriog与えようRhowch, 屍人のような安眠をnoson dawel o gwsg fel corff


 開かれたイスの口からは歌のような言葉が紡がれていく。徐々に強くなっていく白い風は、少しずつ強くなり、蜂の動きはなんだか鈍くなっている気がする。寒いからか? それに怖れ、焦り、そして怒り……そんな気持ちが蜂を通して伝わってくる。お前は……何をそんなに怖がっているんだ? イスに向けられた感情だけではなさそうだった。

 私から生まれた炎の蜂は、前肢で体を持ち上げた。お尻に生えた針をイスに向かって突き出すが、それは最低限の動きで避けられた。 


無数の氷棘で貫けTreiddiwch ef â drain wedi'u gwneud o lawer o rew


 蜂が噛みつこうとして下げた頭も難なく避けて、手を触れたままイスはそう言った。

 耳鳴りのようなキィンという透き通った音がして、地面から突き出してきたいくつもの氷の棘に蜂が串刺しになって動きが止まる。

 駆けだそうとして躓くと、私の体を白い風が優しく受け止めてくれた。そのまま、白い風は私をイスと動かなくなった蜂の元へ連れていく。


「殺してはいない。君から生まれた、君の力の根源だからな」


 自分の体に甘えるように纏わり付いて消えていった白い風を確認してから、イスは私のそばに来てそう言った。

 それから、鉤爪で傷付けないように私の手首をそっと掴んで蜂の頭へ持っていく。

 私から生まれた蜂は、触るとほんのり温かくて、頭部に生えている毛は思っていたよりも柔らかかった。

 無機質に思える巨大な虫の化物は、触覚を私の方へ伸ばしてくる。怖くて手を引っ込めたかったけど、こいつから流れてくる感情はとても優しいものだった。


「ユルベル、俺が君にしたように、君もこいつに名前を付けるんだ」


「は?」


 急に言われて、戸惑う。

 名付け……そんなこと、したことがない。うまくできるかもわからない。


「これは、君が生み出した魔法。君がこれから共に成長していく友とも言える」


 私が……共に、成長していく……。

 動きが鈍くなった蜂を見る。氷に足を貫かれて痛々しい姿だけど、怒ってはいないみたいだ。


「私なんかが……名付けなんて……。あんたみたいに知識も無いし」


「私なんかが……じゃない。君はもう立派な魔法使いだ」


 優しく諭すように言われて、私はしぶしぶ首を縦に振る。私が考えたモノよりもイスが考えてやった方がいいように思うのに。

 それでも、イスに「立派な魔法使いだ」と言われて嬉しかったのも事実だ。

 だから、必死で考える。最初にこいつが現れたときの炎の渦を。羽根を動かしたときのかっこいい姿と舞い散る火の粉。


「イタリクス……」


 頭に浮かんだのは、温かくなると咲く赤紫の花。鋭い葉が剣みたいでかっこよかった花は、確かそんな名前だった様に思う。

 

「戦う者を守る花の名か……良い名だ」


 頬を毛皮の滑る感覚がする。心地よさに目を閉じながら、私は一歩前へ踏み出してイタリクスに寄り添った。額を硬い甲殻に当てて手でふわふわとした毛が生えている部分を撫でてやる。

 パッとイタリクスに触れている部分が熱くなって驚いて目を開くと、イタリクスの体が外側から徐々に火の粉になって消えていく。


「死にはしない。君の中へ帰るだけだ」


 指でそっと目元を拭われて自分が泣いていることに気が付いた。

 慌てて袖で涙を拭いながら、完全に火の粉になってしまったイタリクスに向かって両手を広げた。

 辺りを漂っていた火の粉は、それを待っていたかのように私の模様目がけて集まってくる。

 熱いのかなとギュッと目を閉じて耐えようとしたけれど、パッと火の色をした光がきらめいただけで物音がしなくなっただけだった。


「よくやった」


 その声を聞いて、張り詰めていた緊張の糸が切れた。一歩も歩けないまま足腰の力が抜けてへたり込みそうになると、イスが私をそっと抱き留めた。

 そのまま抱き上げられて、濡れた鼻を額に押しつけられる。

 目を閉じる前に見たイスは、さっきまで巨大な蜂に立ち向かっていたときの凜々しさが嘘のように思えるくらい心配そうで情けない表情を浮かべていた。

 身体中が重くて、それにあちこちヒリヒリする。煤の匂いがして喉も痛い。

 温かくて少し硬い毛皮の感触を頬や額に感じながら、私は意識を手放した。

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