寡婦蜘蛛の魔女2
何かを叩くような音が聞こえて目を覚ました。
清潔な部屋と寝ている寝具が寝る前と同じことに胸をなで下ろしてから、辺りを覗った。鎧戸は閉められていて、ランタンから漏れている魔石の白い光が部屋を仄かに照らしている。
フロルは部屋にいない。私が寝てしまったから、他の仕事をしているのだろうか。
――コンコン。
寝具から下りて、音のする方へ向かう。どうやら、窓の外から音がしているようだった。
開けない方がいいかもしれない。
「ねえ、開けてちょうだい? あなたに大切な用事があるのよ」
寝る前に出会った魔女の声だった。
イスに追い出されていたし、やっぱり開けない方がいいな。
「私はあんたに用件はない」
「本当に? 魔法についてのお話、聞きたくなぁい?」
きっぱりと断るべきなのはわかってる。
でも、聞くだけなら……聞くだけならいいんじゃないか。それで、その方法をイスに試してもらえば……。
「今、開ける」
閂を外して、窓を持ち上げると狐みたいな綺麗な赤褐色の髪がまず目に入った。やっぱり寡婦蜘蛛の魔女だった。
箒に跨がるのではなく、横掛けに座って空中に浮いている寡婦蜘蛛の魔女はにこやかな微笑みを向けて、親しげに話しかけてくる。
「ねえ、
思わず彼女の問いに首を縦に振ると、嬉しそうに手と手を打ち合わせた寡婦蜘蛛の魔女はさらに言葉を続ける。
「あいつ、きっとあなたを飼い殺しにするつもりよ。だって
あいつってのは、多分イスのことだろう。
イスはそんなことしないと反論したいけれど、寡婦蜘蛛の魔女は話を止めるつもりはないらしい。
色々とイスの悪口を続けた後、私を見てハッとしたように目を一際大きく見開いてから唇の両端を持ち上げて、それから体を前に乗り出して私の耳元に顔を近付けてきた。
「私と一緒に来れば、すぐに魔法を使えるようになるわよ」
「え」
「あなた、きっと良くない思いをしてきたわよね。魔法使いの家に生まれて、出来損ないって罵られたりして」
なんでわかるんだ。イスが話したのか? いや、そんな暇はないはずだ。
魔女というくらいだから私の何かを見透かしたのか?
嫌な記憶を思い出して汗ばんできた手を思わずギュッと握りしめた。
それに「すぐに魔法を使えるようになる」という言葉が頭の中で何度も繰り返される。
すぐに魔法を使えるようになりたいわけじゃない。イスが私を騙して魔法を教えないつもりなら、最初から言うはずだ。でも、本当に? さっき寡婦蜘蛛の魔女が言った「魔法を覚えさせるより、何も出来ないまま、ここにいてもらう方が便利なのよ」という言葉を思い出して、そういう利益もあるのかもしれないなって思う。だって、役立たずの
「家族にだって復讐できるわよ」
復讐と聞いて、私の胸元にある模様がドクンと脈打ったように熱を持つ。
「復讐……? 私が、あいつらに?」
「ムカつくやつらの悲鳴と命乞いを聞きながら、肉が焼ける音を聞くの! 自分を虐げていた場所が真っ黒でボロボロな炭と灰になるのを見るのは楽しいわよ」
寡婦蜘蛛の魔女の薄緑色の瞳から目が離せなくなる。吸い込まれてしまいそう。優しくて、甘い言葉。心地よい言葉が私を満たしていく。そうか。確かに、復讐をしたい。
私を酷い目に遭わせたあいつらに、自分の魔法で復讐が出来たら気持ちが良い気がしてきた。私が強大な魔法を使うところを見れば、
頭を地面に擦りつけて今までの仕打ちを謝罪してくれるのだろうか。
「冥府を覆う氷、あいつは確かに怖いけど、森から出て私達の領域に来ればきっと追いかけてこれないわ」
「あんたたちの領域って?」
「
目を細めた寡婦蜘蛛の魔女が、妖艶な笑みを浮かべて、私の手を取った。
それから、薄緑色の瞳が妖しく光る。
「
耳元で囁かれると、全てをこの人に託してしまいたくなる。
思考が霞んでいく。蠱惑的に微笑みながら彼女が差し出している手を取って私は窓を乗り越えた。
「それでいいのよ
足の裏を柔らかな草と土が撫でていく。
寡婦蜘蛛の魔女に魔法を教わって、それで
そこまで考えて、左手の薬指に嵌めた指輪が急に冷たくなった。私は寡婦蜘蛛の魔女の手を振り払って指輪へ目を向ける。
イスの毛皮に似た色の宝石は、満月の光に照らされて控えめに光っている。さっきまで痛いほど冷たかった指輪は、私の視線を受け止めたからか温度を取り戻していったようでもう冷たくない。
それと同時に、急に寡婦蜘蛛の魔女に対して抱いていた安堵の気持ちや、甘えたい気持ちがしぼんでいった。
いつのまにか開いていた手を握り直して、彼女から見えないように指輪を撫でる。息を深く吸い込んでから、私は改めて寡婦蜘蛛の魔女の薄緑色の瞳を見つめ返した。
「待て。あんた、私に何か魔法をかけていただろ?」
「は? そんなこまかいこと、どうでもいいじゃない? 早くここから出ましょう。あの犬っころは勘が鋭いからきっとすぐにあなたが家にいないって気が付くわ」
ハッと鼻で笑ってから、寡婦蜘蛛の魔女は肩を竦めてそう言った。
それから私を急かすように腕を少し乱暴に掴んで引っ張る。
「私は、あんたと一緒には行かない」
私が腕を振り払うと、驚いたように目を見開いてから彼女は冷たく笑った。
少女のような可憐さは消え失せ、魔女という呼び名に相応しい残忍で恐ろしい気配を滲ませた寡婦蜘蛛の魔女は、一言「何故?」と問い掛けてきた。
「あいつは、こんな私に名前をくれた。私を
「そんなことで」
目を細めた寡婦蜘蛛の魔女が、大きく一歩後ろへ飛び退いた。
彼女がいた位置には鋭い氷の棘がいくつも生えていて、ひんやりとした風が私の頬を撫でる。それからすぐに、私の肩は背後から大きな手にそっと掴まれた。
「……騙されているようなら止めようと思ったが、どうやら俺の妻は知らない魔女についていかないだけの賢さはあるらしい」
ぐっと後ろに抱き寄せられて、声がした方を見るとイスが私を後ろから抱きしめていた。頭を持ち上げてイスの顔を見ようとしたけれど、背が高い癖に私の真後ろにいるせいで表情がよく見えない。
「指輪があるとはいえ、よく魔女の
イスがふっと息を漏らすように短く笑って、それから頬を手の甲でそっと撫でられる。それだけで、こいつが怒っていないことだけは理解できた。
「なぁんだ。ざーんねん。まだ付け入る隙はあると思ってたのに」
寡婦蜘蛛の魔女は、口調こそ砕けているし笑みを浮かべているが目は全然笑っていなかった。
ゆっくりと手を動かした彼女の周りに赤い炎の球が揺らめきながら現れて、ごうごうと音を立てている。
「冥府を覆う氷が、そこまでする
寡婦蜘蛛の魔女が大きく手を横に凪ぐと、こちらに炎の球が真っ直ぐに向かってくる。ぐるると喉を鳴らしてイスが私をグイッと後ろへ引っ張って前へ踏み出す。
「ねえ、こうしたらあなたの焦った顔くらいは見れるかしら?」
前でイスが炎の魔法に手から出した青白い光を当てて打ち消している中、背後から声が聞こえた。体ごと振り返ると、少女のように無邪気な笑顔を浮かべた寡婦蜘蛛の魔女が突き出してきた腕が私の胸元を優しく撫でる。
次の瞬間、熱を持った模様が火を噴いて私の服を焦していく。
「なんだよこれ」
みるみるうちに大きくなった炎の塊は牛とか馬みたいな大きさで、少し離れていても火傷しそうなくらい熱い。
それに息が苦しくて、模様がヒリヒリと痛い。逃げる体力すら奪われて、思わずその場に膝を付くと慌てて振り向いたイスが私の肩を支えてくれた。
「あなたの内側に眠っていた魔力が形を持ったものよ」
噴きだした炎は、私から離れた場所に留まると徐々に輪郭がくっきりしていく。
裏庭の生け垣や花壇に落ちる火の粉が、綺麗な草花を焦している。
寡婦蜘蛛の魔女は、それ以上私に何をするでもなく、その場で私から出た炎の塊をうっとりとした表情で見つめていた。
「蜂か……」
蜂の形になった炎の塊が半透明の羽根を震わせるとおびただしい量の火の粉が噴き出す。真っ赤な体と、赤みを帯びた暗褐色の縞模様は、イスの言うとおり大きなスズメバチの形をしていた。
縞模様に沿うように炎の渦が巻き、パチパチと周囲の木々が音を立てて燃えていく。
胸の苦しみが続いているけれど、なんとか立ち上がった私の中には、めらめらと燃え上がる蜂から怒りと焦りの感情が流れ込んでいた。
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