寡婦蜘蛛の魔女
寡婦蜘蛛の魔女1
「ユルベル」
細長い口先を開くと、尖った牙が見える。でも、昨日ほど怖くない。
それは、こいつが今のところは私に乱暴なんてしないって思えるからなんだと思う。
手招きされるがままイスへ近付いていくと、手首をそっと掴まれた。獣そっくりな毛皮に包まれた手は、鋭い鉤爪がついている。
少し不自然に指の付け根で私の手首を掴んでいるのは、きっと私の肌を傷付けないように気を使っているからなんだろう。そんな風にされたことがなくて、なんだかむず痒いような気持ちになる。
「君の
先に座ったイスの隣へ腰を下ろす。
視線を合わせるように少し体を前のめりにしながら、枯草色の瞳に私を写したイスは少しいいにくそうにためらってからそんな言葉を口にした。
「ああ、別に許可なんて取らなくても好きにしてくれよ」
何を気にしているのかわからなかったが、私は彼の手を見て納得する。確かに革紐で編み上げられて止められているチュニックの胸元をはだけさせるには不便そうだ。
蝶のような形で結ばれた紐をほどき、胸元をはだけさせると忌々しい模様があらわになった。
赤黒い色をした蜘蛛の巣みたいな模様は、私が失敗作で出来損ないの証だ。だから、あまり好きではない、
「目を閉じて、深く息を吸い込んでくれ」
イスが手の甲で私の頬を撫でながら、ゆっくりとした口調で伝えてくる。特に反抗する理由もないので、言われたとおり両目を閉じて、それから深く息を吸い込んだ。
少しごわごわした温かい毛皮が私の頬を離れて、それから模様の辺りに触れる。
触れられた模様の部分がじわじわと熱を持ち、胸の奥で何かが暴れているような震えているような感覚がする。
少しだけ、息苦しい。それに、わけもわからず叫んだり、喚いたりしたくなる。膝の上に置いた拳を握りしめていると、手の甲に少し硬い肉球が触れた。
「ゆっくりと息を吐き出してごらん」
「わ」
言われるがまま息を吐くと、炎を吐いたんじゃないかってくらい熱い空気が私の体から出ていったことに驚いて目を開いた。
すぐ隣にいるイスの毛皮が焦げてしまわないか心配だったけど、どうやらあいつの毛皮は無事みたいだ。
「やはり、君は炎の魔法が得意なようだな。燃えるような赤い髪と瞳だからそうだろうと思っていたが」
「び、びっくりした。今のはなんなんだ?」
まだ胸の奥が跳ねるように動いている。
手の甲に重なっていたあいつの手を、今度は私が掴みながらそう問い掛けると夜色をした長い睫毛が揺れる。
綺麗だななんて思っていたら、イスが目を細めて、短く息を漏らすように笑った。
「今のは、君にある魔力の通り道に魔力が巡った証だ。慣れないから熱さを感じたんだろう」
「私の……魔力の通り道……」
腕を伸ばしたイスが私の頬を手の甲でゆっくりと撫でた。
昨日から度々されているけれど、ごわごわしてるけど温かい感触はなんだかくすぐったいような気持ちになって口元が緩んでしまう。
それから、あいつの爪を見て普通に撫でると爪が刺さりそうだから気を使ってるのか? なんて考えた。
そんな宝物みたいに私のことを扱わなくても良いのに。だって、私はその恩を返せるのかも、うまく便利な存在になれるかもわからないってのに。イスにたくさん損をさせてしまう気がして、胸がチクリと痛む。
「これから少しずつ、君の内側で留まっている魔力を外に出しながら、こんがらがった魔力回路を整えていく」
私の気も知らずに、イスはゆったりとした口調でこれからのことを話してくれる。
そうだ。私はもう出来損ないじゃなくなるかもしれないんだ。
気持ちを切り替えて明るいことを想像しよう。
「ああ! それで、いつ私は魔法が使えるようになるんだ?」
明日か? それとも明後日か? そうしたら、何をしよう。
肉を焼くのもいいし、木炭を作るのを手伝っても良いな……それに……フロルとペタロになにかしてやれないかイスに聞いてみよう。
「そんなに焦るな。そうだな……一年か、もう少し先か」
「……」
そんなに先なのかよ。
クソ。はしゃぎすぎた。確かに、すぐに魔法を使えるようにしてやると言われたわけじゃない。
勝手に期待して勝手にがっかりしただけだ。文句を言いたいわけでもない。
イスが何か口を開こうとした瞬間、両開きの扉が大きな音と共に勢い良く開いた。
「あら、噂は本当だったのねぇ」
体のラインがくっきりと分かるようにぴったりとした真っ黒な服を着た女が底に立っていた。
黒いマントと黒のローブだけど、臍は見えているし、胸元も大きく開けて緩やかな曲線を描いた胸の谷間が遠くからでもはっきりと見える。
「人買いからニンゲンの娘を買ったって噂、もうあちこちに広まっているわよ」
赤褐色の髪を腰まで伸ばしているその女の後ろから、ぱたぱたと足音を立ててねずみの姉妹たちが駆けてくる。
「申し訳ありません……わたくしたちも止めたのですが」
申し訳なさそうに耳を下に向けたフロルたちが女の後ろからそう声をかけると、イスが大きく溜め息を吐いて立ち上がる。そこでやっと、この女が今日の来客なのだと気が付いた。
こちらに女の視線がこないうちに、はだけていた胸元を隠す。紐は最初みたいに綺麗な蝶の形に結べなくてぐちゃっとした形になったけど、模様が見えっぱなしの状態よりはマシだろう。
「うふふ……
「元より怒るつもりなどないが……礼儀くらいは守ってもらおうか、寡婦蜘蛛の魔女」
立ち上がったイスは私を隠すように女の前に立ってから、いつもより低い声で彼女に応対する。寡婦蜘蛛の魔女と呼ばれているということは、単なる人間ではないのだろう。
部屋の中へ入ってきたねずみの姉妹たちがいそいそと動き回り、あちこちを片付けている中、寡婦蜘蛛の魔女はゆったりとした仕草で長椅子へ腰を下ろして足を組む。
「こちらも忙しい中で、お前の急な来訪を受け付けたのだ」
「だってぇ……万年暇で森に引きこもっている冥府を覆う氷が忙しいなんておもしろくて興味を持つじゃない」
イスが私の隣に腰を下ろすのを見てから、彼女はこちらへ視線を向けた。
好奇心に満ちた薄緑色の瞳が無遠慮にこちらを見ていることに気まずさを覚えて視線を逸らすと、イスが口を開く。
「からかうことが目的ならば、お引き取りを願おうか」
「いやねぇ。ちょっとした世間話じゃない。ねえ、炎のように綺麗な髪のお嬢さん、あなただってそう思うでしょ?」
「は? いや」
いきなり話を振られて戸惑う。私は、何も知らないんだ。
それに……役立たずの人間を引き取った
「私も、炎の魔法を使うのよ。まあ、魔女の魔法と魔法使いの魔法はちょっとだけちがうのだけれど」
片目を閉じて、紅で彩られた厚い唇の両端を持ち上げた寡婦蜘蛛の魔女はそう言いながら黒い手袋をしたままの右手を差し出してきた。
「仲良くしましょう」
そう言われて、おそるおそる彼女の手を取る。
イスは何も言わないけれど、なんだか未見に皺を寄せながら寡婦蜘蛛の魔女を睨み付けている。
魔女はというと、そんなことお構いなしといった感じで私の手を握ったまま、機嫌が良さそうに話を続ける。
「こいつは凄腕の魔法使いだから基礎を学ぶにはいいかもしれないけれど、炎の魔法を使うなら私の方がいい先生になれるわよ」
そこまで言ってから、寡婦蜘蛛の魔女はすんすんと鼻を鳴らしながらイスと私を見比べる。それからグイッと体を前に近付けてきて、もう一度鼻をすんすんと鳴らした。
「ねえ、あなた、良い匂いがするわね」
「さっき湯浴みをしたからそれじゃ……」
「そんな人間臭い匂いじゃないわ。もっと違う……」
一度体を離した寡婦蜘蛛の魔女は、腕組みをして目を閉じながら首を傾げる。
黒い布と赤褐色の髪が揺れて、
「ああ! そう!
閉じていた目をめいいっぱい開き、嬉しそうに手と手を打ち合わせて「ぱちん」と音をさせながら寡婦蜘蛛の魔女はそう言った。
見た目は娼婦のようなのに、仕草はまるで少女のようでどう対応して良いのかわからなくなる。
「プルクラ?
「へえ、ニンゲン共は
ふんと鼻を鳴らして、馬鹿にするように笑った後に寡婦蜘蛛の魔女は隣でずっと押し黙っているイスへ目を向けた。
「ねえ、冥府を覆う氷、代わりのニンゲンをやるからこの子をちょうだいな」
「……断る。もう契約は済んだ」
ギョッとして私もイスを見る。でも、あいつは即座に断ってくれた。
私の手に肉球の感触がして、あいつが手が重ねらてくれたのがわかる。
イスに睨み付けられた寡婦蜘蛛の魔女は、厚い唇の先端をすぼめながら目を細めた。
「契約の上書きや書き換えなんてどうとでもなるでしょ! 炎魔法の素質がある
「話はおしまいだ。お引き取り願おう」
私に手を伸ばそうとしてきた寡婦蜘蛛の魔女の手を軽く叩き落として、イスは彼女の話を最後まで聞かずにそう言い切った。
立ち上がったイスが手の甲で二度、払うような素振りを見せると小さな雪を含んだ竜巻のようなものが巻き起こり、寡婦蜘蛛の魔女を扉の方へ押しやり始める。
「あ! 待ちなさいよ! 本題は終わってないって! 森にある薬草を採らせてもらいたくて」
「勝手に採るといい。では、用件は済んだな。帰れ」
いつもの丁寧で落ち着いた様子とは少し違った口調のイスに驚く暇もなく、小さな雪の竜巻が、寡婦蜘蛛の魔女をどんどん出口の方へ追いやっていく。それに合わせてねずみの姉妹達はタイミング良く扉を開いて雪の竜巻を手伝っていた。
あっというまに寡婦蜘蛛の魔女は屋敷から追い出され、物音一つ聞こえなくなった。
きょとんとしたまま座っていると、立ち上がっていたイスがもう一度私の隣へ座る。
「……」
「あ? どうした?」
いつもはピンと天を向いているイスの耳は、力なく折れ曲がっている。
何も言わないまま、イスは黙って私の胸元に手を伸ばすとぐちゃぐちゃに結ばれた紐を解き、綺麗な蝶の形に結び直していく。
人間と違う手なのに器用だな……と見ていると、手元を見ていたイスの枯草色をした瞳がこちらへ向けられて視線がぶつかりあった。
「これを」
「なんだよ」
「昨日渡しそびれていた。君と私を繋げておくための大切なものなんだ」
イスの胸元から取り出されたのは、白銀の指輪だった。左手を持ち上げられて、指輪を薬指にそっと嵌められる。
指輪の頂点には小さな花の台座があって、深い青色をした宝石が嵌められていた。夜、月に照らされているイスの毛皮みたいで綺麗だ。
「俺は用事を済ませる。君は夕食までは好きに過ごすといい」
お礼を言おうとしたけれど、イスがスッと立ち上がって私に背を向けてしまったので、何も言えなかった。
元気がないように見えたけど、こういうときにかける言葉を私は知らない。お礼の言葉も……うまく言えない。指輪をやった代わりに何かをしろって言われるのかと思って身構えていた自分は嫌なやつだなって思いながら、離れていくイスの背中を見ていることしか出来ないでいた。
「どうしますか、奥様」
「んー。部屋に戻るか。疲れたし」
ペタロはイスと共に部屋を出て行った。私も、フロルと共に部屋を出て自室へ向かう。
朝から慣れないことの連続で、肉体労働をしたわけでもないのにどっと疲れた気がする。
それに、フロルは緩く締めているいっているけれど、コルセットで締められていて背筋をずっと伸ばしているからか体が妙に怠い。
清潔で、虫もいなくて、家畜の糞尿臭くもなくて温かい部屋へ戻り、靴を脱いでコルセットを緩めてもらってから寝具に横たわる。
柔らかくて温かくて花の香りがする。まだ夢なんじゃないかって、この状況が信じられないでいる。
目が覚めたらいつもの納屋で、そばに豚と鶏がいて虫が体の上を這い回ってるんじゃないかって少しだけ不安になりながら、私は目を閉じた。
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