フロルとペタロ2
「渡り廊下の先に浴室があります。下は厨房になっているんですよ」
開かれた鎧窓からは、昨日の夜に通ったはずの庭園を見ながら渡り廊下を通り過ぎる。床が磨かれた暗い色をした木から石に変わって驚いていると、フロルが両開きの重そうな扉に体重を掛けて押し開いた。
扉が開くと同時に花の甘くて爽やかな匂いとムッとする暑い空気が流れてきて思わず体を仰け反らせる。
「大丈夫ですよ。いきましょう」
怖がってると思われたくなくて、私は首を縦に振って頷いてから蒸し暑い部屋の中へ足を踏み入れた。
湿っている床の奥に百合の花を透かし彫りしたついたてが置いてある。もわもわと立ち籠めている白い湯気の向こうには水を張った大きな池みたいなものがあった。普通の池と違って水は大きな白っぽいレンガの中に貯められている。
「服を脱がせますね」
「ひゃ!? なに? なんだよ」
「今から、あの中で奥様の体を清めますので」
そういいながらフロルは手慣れた様子で私の服を脱がせた。服というよりも、大きなずたぶくろに頭と腕を通す穴を空けたようなものだったけれど……。
一糸まとわぬ姿になった私の指先を小さな手がもう一度そっと掴んで、フロルは衝立の向こうに私を連れて行く。
すべりそうでおそるおそる歩きながら、私はやっと池みたいなところまで辿り着いた。それから、湯気の正体はたっぷりと湧かされた湯のせいなんだとようやく気が付いた。
張った湯には白い花がたくさん散らされていて、甘い香りが漂っている。
扉を開いたときにしたのはこの匂いだったのか……。
しゃがんで、お湯を手に掬うと手にある傷に湯が沁みて痛い。
つい昨日、走る馬車から飛び降りて森の中を走ったんだ。それに、普段から畑仕事をしたり家畜の世話もさせられていた。身体中、あちこちに大きくは無いが怪我はある。
「このお花、お肌にいいんですって」
フロルに促されて、ゆっくりと肩までお湯に浸かった。頭を囲いの縁に乗せると、髪の毛にゆっくりとお湯がかけられていく。
花の甘い香りがふわっと広がる中、小さな手が私の頭皮をゆっくりと揉むように洗ってくれる。まるで貴族の令嬢みたいな扱いだな。
「なんだかそわそわするな。何かした方がいいか?」
「奥様は、ただゆっくりしていてくださいませ。今から特別なものを持ってくるので」
そういってフロルが少し離れた棚から持ってきたのは、緑に染められた陶器の箱だった。
箱を開くと、白い石みたいなものが鎮座している。小さな手で白い石を持ち上げたフロルは、お湯に浸した両手をゆっくりと擦り合わせ始めた。
「わ……泡が出る石だ」
「ふふ……石鹸です。ご主人様がしっかりと奥様のことを労るように言っていたので」
ふわふわの泡を髪の毛に押し付けられる。そのままわしわしと洗われて、お湯で髪を流されると、そのまま花の香りがする油を髪に塗りたくられた。
お湯から出て全身を小さな手でくまなく洗われると、同じように体についた泡をお湯で流され、再び油を体中にしっかりと塗り込まれる。
「料理の材料になったみたいだ」
「ふふ……仕上げはこれからです。こちらへどうぞ」
フロルに手を引かれて、裸のまま湯からあがると再び石で出来た床の上を歩く。今度は少し慣れたから怖くなかった。
「温かい風が出ますからね」
顔だけ軽く布で拭われてから、フロルがそう言って小さな石をスカーフの内側から取り出して見せた。
夕焼けを閉じ込めたみたいな色できらきらしている石は樫の実くらいの大きさしかない。
昔、
「それでなにを……」
私の言葉が言い終わる前に、フロルは背中を後ろに仰け反らせ、前に腕を大きく振りかぶって夕焼け色をした石を床へ叩き付けた。
乾いた音が響き、ぶわっと熱い風が私の全身を撫でるように吹き抜けていく。
火傷しそうなほど熱くもなくて、さっきまで入っていたお湯を薄皮一枚で包んだもので撫でられるみたいに気持ちが良かった。
「おおおお……すげえ」
さっきまで濡れていた髪の毛がさらさらと音を立てて肩へ落ちてくる。
体についていた水滴も全て吹き飛んでいる。
魔石なんて、小さなものでも金貨十枚だとか、馬を何頭も買えるくらいの価値はある。それを髪や体を乾かすために?
「さあ、服を着ますからね。もう少し待っていてください」
私が言葉も出せずに驚いている間も、フロルはよく動いてくれる。ベージュ色の毛皮がフワフワと揺れる様子を見ている間に、私は胸当てを巻かれて、それからコルセットを着けられる。
「コルセットなんて、私には縁のないもんだと思ってた」
「キツくないですか? 少しゆるめにしておきますね」
気を利かせてゆるめにしてくれたらしいコルセットは少し窮屈で、普段は曲げている背中を伸ばさなきゃいけなくて変な感じだ。
腰布を巻かれて、下着を身につけていく。それから、毛皮が裏打ちされている濃い褐色のチュニックを頭から被せられ、その上からもう一枚、濃い紅色のサーコートを着せられてから革製のベルトをフロルが巻いてくれる。
それから膝下くらいの長さはある刺繍付きの靴下を履かされて柔らかく締め付けてくるレースの輪で留められた。
「こんなに布を身に付けたのは初めてだ……。体が重い」
「ふふ……。奥様はとってもお似合いですよ。最後にこれを」
最後に赤褐色の革靴を履かせてもらって、私はフロルと部屋を出た。
庭園がよく見える渡り廊下を再び戻ってから、今度は部屋の前を通りすぐて階段を降りていく。
広い廊下を歩いていると、パンの焼けた良い匂いが漂ってきた。
「早く食事にしましょう」
お腹がきゅるきゅると情けない音を立てたのが聞こえていたらしい。フロルはそう言いながら微笑むと、私の手を離して明るい色の扉を押し開く。
「好きなだけ食べなさい」
席に座ると、磨かれた木皿の上に白パンが置いてあった。一度だけ村の領主が祭りで焼いたものを盗んで食べた事があったけど、また食べられるとは思わなかった。
あの時は、
引かれた椅子に座るなり、私はパンを両手で持って食いついた。
青く塗られた陶器製のゴブレットも掴んで中身を飲み干す。果実の汁を水で薄めたものが入っていて甘くて驚いた。
それから、鶏肉も出たし、パンも食べてもすぐにおかわりをフロルとペタロが持ってきてくれた。
手や口を腕で拭おうとして、自分の腕が布で覆われていることに気が付く。
「これで拭えば良い」
イスに言われて、テーブルを覆っている布に気が付いた。遠慮なくそれで手と口を拭い、お腹がはちきれそうになるまで食べ続けた。
一息吐いて、ゴブレットにある果実の汁をもう一度飲み干してから、私は目の前でこちらをずっと見ているイスにようやく視線を向けた。
「あんたの分の飯、もしかして私が食っちまったか?」
鋭い鉤爪と毛皮に包まれた手で器用にパンをちぎって口に入れていたイスが、咀嚼を終えるのを見てから急に不安になって口を開いた。
「元々、俺は朝食を取らないだけだ」
「なんだよ。私が悪いのかよ」
つい、責められたような気がしたから変な言い方になっちまった。こいつがそんなやつじゃないってなんとなくわかるのに。
「違う」
イスはそんなこと気にしていないみたいに静かに口元へゴブレットを運び、一息吐くと枯草色の瞳をこちらへ向けて短くそう言った。
「ユルベル、俺が君と食卓に着きたかっただけだ。気にするな」
「お、おう」
名前を呼ばれて、少しだけ照れくさくなる。
どうしていいのかわからず、かといって腹も満たされていて、これ以上何かを飲み食いしたら吐き戻しそうだ。
部屋に戻るかと立ち上がったところで、イスが口を開いた。
「食事が終わったら、少しだが、魔法を使うための調整をしよう」
「なんで少しなんだ? 一気に魔法を使えるようになった方がいいのに」
「一気に魔力を流すと、君の魔力路が焼き切れて死ぬかもしれない。それに」
ペタロが私の食べた食器を台車に乗せて奥の扉へ運んでいくのを見送ってから、イスは少しだけ空中へ視線を泳がせる。
それから小さな溜め息を吐きながら言葉を続けた。
「今日は昼過ぎから少し面倒な来客があるんだ」
「ってことは……さっそくお役目ってやつをしなきゃならねーのかよ」
「悪いな。少しのんびりさせたかったんだが」
軽口のつもりだったのに、謝らせちまった。
「まあ、いいぜ。飯もたくさん食べたし、湯浴みも初めて出来たしな」
お礼をキチンと言えればいいのに、私ってやつはこうして照れ隠しをしてしまう。素直にありがとうと言えるおしとやかなお嬢さんの方が、ここの暮しには合ってるんじゃないかとも思う。
どこぞの令嬢みたいに扱われて、気遣われて、着飾らされて……私は、そんなに価値のある存在なのか? 役立たずの
「奥様、一度お部屋へ戻りましょう」
フロルにそう言われて我に返る。
握りしめて指先まで真っ白になっていた拳から力を抜いて、前を向く。
「わかった。後であんたのところへ行く」
何故だか、イスの私を見る真っ直ぐな目を見つめる勇気が出なくて、顔を背けたまま私は自室へ向かった。
部屋へ戻ってから、フロルに口の周りを拭かれたり、髪を頭の上の方で結い上げられて、丸めてまとめられた。
首筋がスースーして落ち着かないが、こっちの方が頭を動かしたときに髪の毛が邪魔じゃなくていいかもしれない。
それからすぐに扉が控えめにノックされる。
返事を返すと、ペタロがちょろちょろと素早い動きで部屋へ入ってきた。
「奥様、本日は談話室で魔法の調整をするみたい! お姉ちゃんと一緒に来てちょうだいね」
「ああ、わかったよ」
くりくりとした目をぱちぱちさせて、小さな鼻をせわしなく動かしている様は見た目が一緒とはいえフロルとは正反対で可愛らしい。
「二人のこと、見分けられないと思ってたけどこうしてみると全然違うんだな」
長い尻尾を揺らしながら、すぐに部屋を出ていったペタロを見てそういうと、フロルは機嫌がよさそうに耳をぷるぷると震わせながら「そうですか?」と笑った。
「そんなことを言うのは奥様で二人目ですよ」
「一人目は?」
「もちろん、旦那様です」
まあ、私とあいつ以外がここにいる様子はないしそれはそうだろう。なんて思いながらフロルの後に続いて歩く。
この屋敷は、本当に人の気配がない。小動物の足音がするのは、ここが森の中にあるからなのか、私の知らない何かが潜んでいるのかはわからないけれど。
「案外、ここのお手伝いはみんなねずみだったりしてな」
「そうですよ? 驚くかと思っていてみんなの紹介は後にしようとしていましたが」
目を細めてそんなことを言ったフロルの言葉で、まさか自分の適当な予想が当たっているとは思わなくて、どう返事をしようか迷っている間に、彼女はイスが待っているらしい部屋の扉を開いた。
部屋にはよく磨かれた黒い木製の長机と、それを挟むようにして向かい合わせに置かれた革張りの長椅子、その奥には煙突付きの立派な暖炉が置いてあった。
手前側にある長椅子に腰掛けていたイスが、細長い
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