第2話 マスターと初恋の人

 悲劇が起きたのは、第一幕の終盤。

 ファウスト青年が、グレートヒェンという少女と駆け落ちをするシーンでのことだった。


 駆け落ちの為の小舟で迎えに来たファウストに、バルコニーから手を振るグレートヒェン。そのあと、魔法使いの用意したロープを使って、ふたりは駆け落ちし、第一幕はハッピーエンドとなるはずだった。


 なのに。今、僕の目の前には、バルコニーから落下したグレートヒェン――ヘイゼルが、頭から血を流して倒れ伏している。


「ヘイゼル……?」


 僕は思わず、舞台上で幼馴染の名を呼んだ。


 今日という日は、僕とヘイゼルが初めて、主人公とヒロインとして共演をする夢のような舞台だった。


 なのに。なぜ。


「マスター!!」


 背後から、僕を心配する魔法使い――マリオネットのメルディアの声がする。


「ご無事ですか、マスター! 気をしっかり、できるだけご遺体から目を背けて、呼吸を深く吸ってください!」


「ご、遺体……?」


 まぁ。見ればわかるか。

 三階建てのバルコニーから、煉瓦作りの端に落下したのだから。

 頭がぐしゃぐしゃになって……


「う。おぇえ……」


「誰か!! ヘイゼルさんに布をかぶせて! 舞台の幕を下ろしてください!!」


 こんなときでも冷静に、的確な指示を出す僕のマリオネット。


「うぐ。はぁ、はぁ……め、メルディア……」


「大丈夫です、メルディアがお傍におります。それにしても、いったい誰がこんなことを……」


 その一言で、マスターの糸は切れてしまったようだった。

 銀の瞳に涙の粒を浮かべて、幼馴染の死に堪えきれず、嗚咽を漏らし始めてしまう。

 本来であれば、舞台の上では決して自分を出さずに役を演じきるマスターだというのに。幼馴染の死は、それほどまでに彼の心を搔き乱していた。


「うぅ……くそっ。許せない……! 誰が! 誰がヘイゼルを!! あいつか!? 最近ヘイゼルにしつこく言い寄っていたストーカー! それとも、ヒロイン役を取られたと悪態をついていたあの女か!? はっ。まさか、僕の演目を台無しにしようとしていた隣町の劇団長……!? それとも、それとも……!」


「落ち着いてください、マスター!! 犯人探しは後です! まずはマスターと我々演者を、安全な場所へ避難させなければ!」


 僕の、生まれて初めての主役の舞台は、三幕構成の第一幕であっさりと幕を閉じた。


 それから舞台に関わっていた者と絡繰り人形たちは、メルディアの指示で各自安全に帰宅することとなった。


 ◇


 それから数日――


 幼馴染を失った悲しみは晴れず、メルディアは、舞台の失敗を覆し劇団の面目をとり戻そうとする者たちによって、代わりの演目に引っ張りだこになってしまった。


 ひとりぼっちになった部屋で、僕は羊皮紙を撒き散らし、舞台の構造、客席、演者、すべての人間に疑いをかけながら、犯行が可能だったものを炙りだしていった。


 だが、ペンをいくら走らせても、あの日、バルコニーにはヘイゼルしかいなかった。背後から突き落とすなんて真似は、誰にもできないのだ。


 密室殺人と向き合う探偵の気分は、こうなのだろうか。次の演技に生きそうだ……


 なんて。


 馬鹿みたいだよ。


 どれだけ精巧な絡繰り人形を生みだし、素晴らしい舞台を演じることができたとしても。もう、ヘイゼルは僕を褒めてはくれないのにさ。


 あの笑顔を見ることは、もうできないのに……


 僕はその日から、芸術家の筆を折り、犯人探しに全てを費やす復讐者となることを決めたのだった。

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