マリオネットの紅い糸

南川 佐久

第1話 マリオネットは夢を見る

 明日は、大役を務める大舞台が控えている。

 戯曲『ファウスト』の、見目麗しい魔法使いの役だ。

 本当は悪魔の役なのだけれど、美しい私の見た目にふさわしくないからと、魔法使いに変更された主役級の大抜擢だった。


「だから、早く寝なさい」


 絡繰り人形マリオネットに休息は必要ないのに、マスターは優しい声音で扉を閉めた。

 人形の工房でもない、ただの少女に与えられるような、普通の寝室の扉を。


 自分はマリオネットだというのに、生みの親であるマスターは、私のことを人間扱いする。そうすることで、いつかきっと私に『心』が芽生えるのではないかと信じて。


 世界最高の人形技師にして、戯曲の演者すら務める天才芸術家のハインリヒ。

 それが私のマスターだ。


 私の髪は、湖面を反射したような、薄水色の銀糸をしている。

 この色は、マスターが冬の湖でスケッチをしているときに胸を撃たれた色なのだとか。


『私の一番のお気に入りなんだ』


 そう言って、髪を梳かしてもらう時間が好きだった。

 柔らかな手つき。それでいて、私と違ってあたたかい。

 優しいマスター。大好き。大好き……


 ずっと、一緒にいたい。

 そう私が望めば、きっとマスターはずっと一緒にいてくれる。私を傍に置いてくれるのだろう。


 私が世界一の戯曲女優絡繰りになって、富も名声も、マスターのものではなく私のものになってしまった。それでも、彼は私のことを『家族』と呼んでくれる。


 それが嬉しい。とても嬉しい……


「ああ。マスター……愛しています」


 沢山本を読んだから、これが恋だということくらい、知識として脳内メモリに刻んであります。そもそも、このメモリなる代物も、今の世には過ぎた代物。

 マスターがどこからかもってきた、謎のマテリアルの集合体なのです。


 その『脳内メモリ』なるものが、私の思考を複雑化して、私を至高の人形たらしめているのです。ですから、この耳から手を突っ込んで、そのメモリを取ってしまえば、この胸の苦しさを忘れてしまうことができるのでしょうか。


 だって、いくら私がマスターを『想って』も、それはメモリが学習した情報の帰結だと、マスターは考えているから。

 伝わらない。どうしても、伝えることができないのです。


 でも、明日は人生で初めての、マスターとの共演の舞台。


 マスターは、私の演じる魔法使いに願いを叶えてもらう『ファウスト博士』の役を演じるのです。

 熱く眩しい舞台の上で、共に喝采を浴びるのはどれほど気持ちが良いのでしょうか。今から胸の高鳴りが止まりません。


 そう言うと、マスターは。


『胸が高揚する、か。きみもだいぶ人間に近づいて来たねメルディア』


 と、嬉しそうに笑いました。


 ただ、それを嬉しそうに報告する視線の先には、いつもがいるのです。


 明日、『ファウスト』のヒロインである『グレートヒェン』を演じる、幼馴染の舞台女優――ヘイゼル。


 私は絡繰り人形だから。ヘイゼルのように、マスターを幸せにすることはできません。


「ああ……明日は大事な舞台だというのに」


 人形のくせに。

 頭のメモリがもやもやします。


 いっそのこと、今すぐにでもマスターの寝室を叩いて、想いを告げてしまおうかしら?


 でも、以前『愛しています』と伝えたときは、『迫真の演技だね! 次の舞台の演目かい?』と言われてしまって。

 それ以来、自信がなくて……


 こういう、『自信がない』っていうのも、人間の感情の一部なのかしら?

 本で読んだ知識ではそうみたいだけれど、如何せん人間ではないので、正解がわかりません。


 果たして私は、『世界で唯一、心を持った人形』として、完成されているのでしょうか? 胸を張って「イエス」と言えないようでは、私もまだまだなのでしょうか、マスター。


 ああ、マスター。


 まだ寝室の窓に明かりが灯っています。

 ときおり揺れる銀糸の髪――明日の演目の最終確認をなさっているのですか?


『時よ止まれ! お前はいかにも美しい!!』


 相変わらず、いつ聞いても澄んだ麗しいお声です。

 私には、「早く寝なさい」と言っておきながら。どこまでも努力家なあなたが、私は誇らしい。


「好きです。マスター。愛しています……」


 目を閉じて、私はベッドで眠りました。

 そう。まるで夢をみる、人間の少女のように。


 だから、信じられませんでした。

 まさか、私の待ち望んだ最高の舞台で。


 ――人が殺されてしまうだなんて。

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