第二章 過去ヲ許殺 血よりも囚われる絆
第33話 薬中ノ侍女
左腕にグルグルと巻かれた包帯の下からは、薬の濃い匂いが発せられている。そんな腕を、ローテーブルの上へと伸ばす。カップを取ろうとして、腕に走る激痛が握ることも許さなかった。
苦悶の声が漏れそうになるのを押し殺し、私は平気な顔をしてもう一度チャレンジと敢行する。
「ほーら、遥は無理しちゃだめ」
ヒョイっとカップを奪ったのは、呆れた顔をした界理。
「持たないと飲めないだろ」
「僕が飲ませるからいいの」
出会ったときより肉のついた腕が私の首を支え、私の唇に添えられたカップから液体が注がれる。飲み込むだけで首回りが、背中が、腹筋が痛む。切られ殴られ蹴られ刺され、全身ボロボロだもんな。
とはいえ自分でカップも持てないほどかといえば、そうでもない。ローソファに寝かされた私が言うのもなんだが、痛みを我慢すれば大抵のことはこなせるだろう。
ならばどうして弱々しいフリをしているのかなんて。簡単な話。
(界理に構ってもらうのは……なんだろう、いい気分だ)
優遇され、独占している。優越感と独占欲が満たされる。
とどのつまり、私はめんどくさい奴になっているのだ。自覚しても止められないのは、心身ともに弱っているからなのか。界理がそばにいて笑ってくれている、ただそれだけのことで私は気が緩んでいた。
どうやら界理は、私の心に気付いていないようだし。私がもうずっと最低限の行動しかしないので、界理からはかなり気遣う色が濃く見える。
だから、私はこうして甘えられるのだ。
「あらあら、悪い子になっちゃって」
問題は、この場に騙し通せない人間がいること。
少しだけ鋭く睨めば、その女は肩をすくめてみせた。
「浪川の店はどうした」
「なんだか物騒になっちゃったから、こっちに引っ越してきたの。あっちはウリアちゃんに任せたから、安心して」
私の強めの口調にも、そいつは悠々と対応した。
ジーパンにレディースシャツ、その上から上着を一枚というラフな格好の中に、トレードマークとも言えるモノクルが不思議と馴染んでいる。
アリア。本名はわからないが、そう名乗る女だ。
浪川区のバー『タナトス・イリニ』を二週間で引き払ってこっちへ来たって、フットワーク軽過ぎだろ。
「ウリアさんってあの凛とした人ですよね。向こうで大丈夫かな」
「本人が希望したのよ。それにウリアちゃんは用心深いから、自分でどうにでもするわ」
「そうなんだ。ウリアさんにも、ありがとう、って言ってましたって伝えてください」
界理の言葉にも、アリアは柔らかく了承を返した。
その間も私は、界理に頭を撫でられていた。
アリアが私に向けて生温かい目を向けてくるのが、絶妙に腹が立つ。
「ふふ、すっかり甘えちゃって」
「ころ……叩くぞ」
「遥に叩かれたら死んじゃうわよ」
今の私が叩いて死ぬわけがないだろ。私の姿が見えるだろうが、死ぬように叩くと私の命も危ない。
「界理くんも、あんまり遥に楽させ過ぎちゃだめよ」
「でも……こんな遥を助けないなんて……」
「んー、まあ、常人なら死んでもおかしくないけど」
二人の視線が、私の体を端から端へと移動する。
確かに、ここで横たわる私の姿は酷いものだ。全身に渡る傷は、とてもではないが街を出歩けるものではなく……というか普通なら歩けもしない。
包帯やシートに隠された肌は、赤紫に変色したり切り裂かれたり抉れたり、見る角度によっては白く綺麗な場所の方が少ない。特に酷いのが左腕の打撲、左太ももの
左腕は一部筋肉にまでダメージが与えられており、外傷が少ないのに力が入らない。太ももは縦に大きく切られた最も深い傷だが、治れば傷跡にはならない可能性が高いらしい。背中は大きく抉れてしまったため、一部切除して縫合してもらっている。最後が一番傷跡になる可能性が高いらしい。
他にも刺し傷やらなんやら多くあるが、まあ大丈夫だろ。
最終的に何百針縫ったのやら、界理は教えてくれなかった。
「遥なら死なないわ。界理くんのためなら地獄の底からでも這い上がってくるものね」
「そもそも死なないんだよ」
私がそう言えば、アリアはまたもや生温かい視線を向けてくる。
ああだけど、その視線の中に……
(なんで、悲しそうな色があるんだよ)
心当たりは、なくはないんだが。
「そうね……」
「なあ、アリア」
ふと聞いた私の言葉に、アリアは言葉を切った。
「あの通話の時、お前なんで怯えてたんだ?」
あのクソッタレな保護者兼代理人といたとき、アリアは私の声を聞いて恐れを抱いていた。“寒さ”に身を任せたからこそ、隠された恐怖の色に気付けたのだ。
真っ直ぐに、私とアリアは視線を合わせる。界理は空気を読んで黙っている。
先ほどと変わらないようで、薄氷のように薄い笑み。アリアは顔に、仮面を被った。
「…………あら、なんのことかしら。それより、二人はここでの生活はどうかしら?」
アリアは露骨に話題を逸らした。
だからまあ、それに乗ってやる。
「かなり楽させてもらってるよ。前まで来てた三人にも助けられたしな」
「うん、広過ぎないし、遥の世話には楽だね。……ただ、外が見えないのが」
最後に界理が、唯一の欠点を挙げた。
アリアは頷いて、どうしたものかね〜とカップを傾ける。
「窓がないのはねー、ここは地下だからね」
言葉通り、私達がいるのは地下なのだ。
横浜の一角にあるバー、その地下にある居住区域。私と界理はそこを借りて二週間生活をしている。ここはアリア系列の店らしいが、真新しい構造と壁の地下室が倉庫とは別にある時点で怪しい。住ませてもらっている手前、文句は言わないが。
当然、私と界理はいきなり与えられて生活できる状態ではなかった。
生活の手助けをしてくれたのは、この店に縁があるという三人。さっき出た『ウリア』もその一人。
んで、今日急にアリアが飛び込んで来たわけだ。今日からここに住むと。
ちなみに賢い猫ことトレミーは、キャットケースに籠城して出てくる気配はない。初めての環境は苦手なようだ。
「お前が住むのは構わないが、私の治療は誰がするんだ。お前、深い技能ないだろ」
さっき言った三人がしてくれたレベルの治療は、アリアでは無理だろう。特有の癖がない。
「そこまでわかるのね。心配しないで、そこもちゃんと対応した——」
アリアの言葉を遮るように、誰も来ないはずの地下室入り口の扉が音を立てた。
「へへ……うへへ……お邪魔します。えーと、患者さんは……ぁ、そこです」
姿を見せたのは、メイド。
もう一度言おう。メイドであった。
かなりシンプルなクラシカルなメイド服に、大きめのキャップを頭に被っている。手に持った焦茶のトランクも、本物の皮で出来た古めかしいものだ。
界理に着せるために調べなければ、私の知る由もなかった世界がそこにはあった。
なんかふらっと私に近づいたメイドは、トランクを置いて私をねっとりと見る。
「うわぅ……す、すごい怪我です。今日は交換しましたです、か?」
「包帯とシートは、してない」
雰囲気に気圧されて答える私。
気弱そうでオドオドとしているメイドは、よく見れば顔色……いや、全身の血色がすこぶる悪かった。怪我人である私よりも遥かに心配になるほど、死にひんした患者みたいに真っ青だ。
そんなメイドはアリアに目を向けて一言。
「やっちゃっていいです? へへ、ふへ」
アリアは満面の笑みで返す。
「遠慮はいらないわ、やってちょうだい」
コクコク頷いたメイドは、私の包帯に手を伸ばす。ふるふると震える手でだ。見ているこっちが不安になる。
「あ、あれがなきゃ」と私から手を離したメイドは、トランクを開いて中身を改めた。取り出したのは……何種類もの薬瓶と、よくわからない小型シートの入ったガラス箱。
メイドは薬瓶からカプセルや錠剤を取り出して、私達の使っていなかったコップに入れていく。ころころ、ころころ、何粒も。
最終的にコップの三分の一を埋めた薬を、メイドはうっとりと持ち上げた。赤、白、オレンジ、紫……実に色彩豊かだ。
(まさか、私に飲ませるのか? それを?)
冷や汗を流す私の前で、予想外の珍事が起こった。
薬がざらざらと流し込まれる。メイドの口の中へと。
唖然とする私と界理は、バリボリと噛み砕かれる音を聴いているしかなかった。
「ふあへへ、ふへへ、ぁあへへへへへ」
明らかにテンションがおかしくなったメイドは、さらに持ってきたシートの一枚を舌に乗せ、一枚を首の後ろに貼った。
マジックのように、メイドの肌が色づいていく。
赤らんで火照って、僅かばかりの汗がメイドの額に滲んだ。
「ぁへあふふふふふひうっ! はぁじめまぁしょお?」
ギラギラと目を光らせるメイドが、荒い息を吐き出しながらにじり寄ってくる。
界理は完全に怯えて私の手を握る。かなり痛いがそれはいい。
もうすぐ手の届く場所へメイドが。私は寒さが脳天に突き抜けた。
「ふひひっ! あふくぁ! やりま————にゅぐんッ!!!!」
私は血が吹き出すのも構わず、メイドの顎を掠らせるようにフックを喰らわせた。
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