第29話 想熱誕生歌
砕氷が蠢くように、寒さが流れる。
晒された心身が削られる錯覚、それほどに激しい感覚。恐ろしく、苦しい、人間のあるべき精神性を否定する極寒の冷気。
きっと誰にも理解されない。私以外にこの世界で生きる者はいないのだから。
ああだけど……それだけじゃない。
「死ねっ!!」
鋭く突き刺さる殺意に、肌が泡立つ。
男の激情が瞳を通して私を貫き、火照りが空気を通して伝わり、単純で強い言葉が私に叩きつけられた。
確かに寒い。だが男から伝わる全てが寒さではなく、私を殺し得るからこその寒さであり、寒さを生む想いは決して寒さではない。
死の気配を生みながら、寒さ支配する世界で浮き上がる情熱。
これまで見向きすらしなかった想いを、私は無視できない。
(恐怖の臭いがするのに、本気で誰かのこと思ってんだな)
突き出されたドスの側面に、私は指を当てて刃先をずらす。近づいてきた男の頭に肘を打ちつけると、血液の小花が咲いた。
それでも、男の瞳から闘志は消えない。目を開けたまま、私を激烈に睨む。
負けてられるか。
男は全身でそう語っていた。私が短刀で刺せば死ぬのに、それがわかっていてなお男は逃げない。
(立派だなぁ。けど、私だって怒ってんだよ……!)
一人押し潰した。二人切った。
それなのに私へと強い感情を向けるこいつらを見て、私も自分の中の感情を理解する。
私は怒っている。全身が痛いほどに、激怒しているんだ。
どんな立派な志があっても、私は界理が拐われたという事実で認められない。
誰かの為、共感できる。邪魔者に怒る、当然だろう。
(だから
鼻から流れる血も気にせず向かってくる男に、私はローキックを喰らわせる。足首から異音を響かせた男が倒れる前に、短刀を突き出し右手の腱を切り裂いた。
そうだよ、殺していない。
足を砕いて手を奪った。以前ならば考えられない、無駄そのものだ。界理を助けるという目的の為には不必要で、致命的破綻を誘いかねない極限の愚行。
“寒さ”は死を確実に遠ざける方法を訴えてくる。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、本能まで、相手を殺せと私に迫ってくるのだ。
敵に近づく毎に殺害衝動が湧き出し——私は歯を食いしばって急所を外す。
「はあああ!!」
「うおおっ!!!」
一手動きが遅れた私に、二人がかりで短槍とパイプが振り下ろされた。
一人の首を切れば、一人の腹を割けば、私は無傷で切り抜けられる……
さあ、ころ——
「さねえよクソッタレッ!」
「くっ!?」
私は崩れた姿勢を筋力と重心を下げることで立て直し、短槍を弾くと同時に相手の腕に短刀を突き刺す。
当然対応できるのは一人だけ。
「おおあっ!!」
背後から鉄パイプが空気を抉る音。私は寒さが示すままに、短槍持ちを押し倒して回避を図る。
ジグ、そんな音と痛み。
寒さが全身に捻じ込まれ、比例して私の肉体認識は研ぎ澄まされる。
(左太もも……! 動きに支障はない!)
皮膚が裂けた。出血はあるが太い血管に異常なし。気にする意味もない軽傷だな。
斜めに倒れた体を地面を蹴ることで調整し、パイプ持ちに抉りこむように接近。そのまま左手でパイプ持ちの顎をかちあげた私は、浮き上がった体に短刀を叩き込む。パイプを持っていた左腕から異音が鳴り、鉄の棒は空に投げ出された。峰打ちだ、関節が外れただけ。
強制的に閉じられた口から漏れる呻き声が、私の耳に入った。
私は全身に力を込めて、持ち上げた相手の体を地面と平行にする。
顎から手を離し、空中にある人体の胸に肘を乗せ——私は自分の体ごと体重を乗せて地面に叩きつけた。
衝突音、カヒュッ!! と空気が吐き出される音。
柔道みたいに畳の上じゃない。レスリングみたいにマットがあるわけでもない。
ピクリとも動かず、相手は意識を失った。だが生きている。
(次は三人ッ!!!)
倒れ込んだ私に自分達の有利を見たか、黒服三人が襲い掛かってくる。
相手の不利を見逃さないとは、よくできた
私がまともに立ち上がるには時間が足りず。三人とも短槍持ちで、普通の動きでは
腰から鞘を抜いた私に、槍先がほぼ同時に突き出される。
腰、胴、首。
三方からの攻撃など、尋常な手段では避けられない。ましてや、ほぼ倒れた状態の私ならばなおのこと。
だから、尋常な手段は捨てる。
「ジッ————ッ!!」
強く息を吐き出し起こした私の行動に、驚愕と理解不能の声が上がった。
鞘を地面に突き立て、左手一本の力で体を跳ね上げる。そんな正気では考えられない曲芸を、私は死なない為に実現させたのだ。
腕一本分では、回避に必要な高さが足りない。鞘は見事に役割を果たした。
肩が悲鳴を上げ、手のひらからは血が流れる。それになんの問題がある!?
苦痛の全ては無視だ。私は地上から切り離された体を捻って、両足を一人の首に絡ませる。崩れ切った体勢を整えながら、私は首を借りたやつの両手首を掻き切った。親指を握れなくなっただけで、致命傷には程遠い。
無力化したやつの上から降りた瞬間、左上腕に痛みが走った。無意識に避けただろうに、突き出された槍によって肉が裂けている。
私は短槍を掴み、引き寄せた相手の顔面に短刀の柄頭を叩きつける。目を瞑り力を抜いた相手、その足の腱を断ち切った。
黒服はまだいる。踏み込みで残った私の足に、短槍が振り下ろされる。
だが結局一対一ならば私のもの。要素が少なくなれば対応など容易い。
前に出した足を軸に体を回し、私は短槍を空振りさせたやつを正面に捉えた。慌てて腕を上げようとした相手に合わせ、短刀を近づけスッと引く。自ら刃に捉えられた相手の右手は、親指から中指までを切断されてしまった。
(ぃ……っ……たい!)
私は顔を顰める。
今更、痛みや苦しさに動きを鈍らせる私ではない。しかし疲労は別だ。
休む間もなく全力の運動と集中が求められるなど、もはや地獄だ。しかも私は、
何故か仕掛けてくる敵がいない————
「みごと」
「ッッ!!!!」
左斜め後ろ。
最大限の警戒と寒さの強制がありながら、私は接近を許してしまっていた。
視覚での確認を優先させた私は、その選択を大きく後悔する。振り返らずに、避けるべきだったのに。
迫ってくる、信じられないほど巨大な拳。刀と腕をクッションにしてなお、衝撃は鳩尾を抉り貫いた。
「ぅ、カッ————!?!?」
どれだけ飛んだ?
1メートルか、まさか2メートル?
視界が定まらない。お腹の中で不快感が暴れ回っている。“寒さ”が戦うことを拒絶しようとしている。
でも、だけど、私はにいっと……
「カタナ、折れたな」
「ぃッ……。あ? あぁ、そうだな」
ああ本当だ。短刀の刀身が三分の一ほどになってしまっている。これじゃあ使い物にならないな。
残骸を投げ捨てる私に、殴ってきた大男が拳を見せてくる。
巨大な拳には、小指がなかった。血の滴る断面が、先ほどまで存在した小指の名残だ。
「折れたとき、きったな」
あれは私がやったのか。無意識だろうが、よくやったもんだよ。
にしても、この大男だけ他のやつと違うな。情熱も思考も上手く感じ取れない。まるで、自分にとってどうでもいいと考えているみたいだ。
戦いの練度も、周囲から頭三つは抜けている。
「オマエ」
「こいよ、何話してんだよ。周りのやつもビビってんのか? 私達がやってんのはお遊びじゃねえぞ」
にいっと、私は周囲を見渡す。
どいつもこいつも覚悟決めた顔だ。目の前の大男だけは、感情を見せない表情だが。
でも、なんでこいつら怯えたり腰引けてたりするんだろう。
私の中ではぐつぐつと……
「オマエ、なんで笑う」
ボソボソと問いを投げる大男に、私は
「熱いんだよ。心の底から熱い……!」
そいうだよ熱いんだ!
体が溶けそうなんてもんじゃない。蒸発しそうなほどに昂っている。
痛い苦しい辛い寒い寒い寒い……!
だけど熱い!!
「わかるか? 生まれて初めての“熱”だ。私の中で感じた、私の生命の“熱”だ!!」
憧れていた
けど今は、私という器に満ち満ちて、溢れかえりそうになっている。
この感動が私以外に理解できるか!?
この歓喜が私以外に感じられるか!?
万感の想いで身体が燃え尽きてしまうのではないかと、“寒さ”の中でさえ考えてしまう。
そして私に“熱”をくれたのは——
「界理の為に全てを懸けている! 私に与えられたもの、私が積み上げたもの、全部だッ!! はははっ、さいっこうの気分だ!!」
冬馬界理。私の唯一大切な人。
苦痛があるごとに、死への恐怖が膨れ上がっていく。
だけども界理を想えば、細胞からですら決意が湧き上がる。
界理の為に戦うというだけで、死の“寒さ”にも負けない生命の“熱”が全身を奮い立たせるんだ。
「そこまで、たいせつか」
「当たり前だ。私の心だ、私の魂だ、私の全てだぞ。何もかもを捧げても、まだまだ足りない!」
「なぜ、ころさない」
私が致命傷を与えないのが、そんなに不思議か。まあ不思議だな。
いいよ答えてやるよ。今の私は最高に気分がいい。
「私が界理を好きだからだ。もう一度だけでも触れて欲しいからだ!」
蹴り、刺し、腱を切り、それでも決して致命傷は与えない。死の“寒さ”をこれ以上ないほどに感じても、どうしようもないほど殺したくなっても、殺しだけは絶対に犯さない。
自分が汚れてしまったら、界理に二度と触れられる気がしなかった。私の身体がとっくの昔に血塗れでも、どうしても譲れない我が儘。
これは自分の為の排除ではないのだから。どれだけ自分勝手でも、界理の為というエゴを貫くのならば一線を越えてはいけないのだ。
なあ、そうだろう?
「そうか」
「ああそうだ。わかったか?」
口に出したのは意味不明な文字列だというのに、大男はゆっくりと頷く。
そして見た目にそぐわない小さな口から、忠告じみた言葉を放ってきた。
「まけるぞ」
私は返しをせず、懐から出したナイフを構える。
男も黙って、拳を顔の前に上げた。
そりゃそうだ。私が口にしなくたって、私の思いは伝わっている。
負けるはずがないだろう。私が界理の為に戦って、それで負けるなんて考えられない。
現実逃避でも関係ない。私の内から“熱”が噴き出す限り、首が取れたって私は立ち向かい続ける。
だから、お前らに勝つ。
「殺さないから殺す気でこいよッ!」
全部捻り潰してやる。
私の界理が、また笑って過ごせるように。
“寒さ”によって最善を知り、全身を巡る“熱”を原動力として、私は今一度戦いに突っ込んでいく。
私が、界理の邪魔するやつ全部引き受けてやる。
だから界理——
——逃げてくれよ。
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