第28話 荊一縷千鈞
ブレーキをかけ、私は車体をエンジンを切る。排気量にしてはそれなりに小さななバイクが、その唸りを止めた。
本体は持っていなかったが、普通二輪の免許を取っていてよかったな。おかげで法を犯さずに無茶ができる。
『界理君がいるのは、そこから約2キロの廃工場だよ。しかしだいぶ無茶をしたね。時間から考えて平均速度は100キロ弱、ヘルメットもしてないだろう? まあ面倒はこっちでなんとか』
「黙ってろ龍善」
楽しそうに話す龍善を、通話越しに黙らせる。
街中ですれ違った人間の会話すら耳奥にズキズキ刺さるのに、龍善の声なんか聞いていると脳みその重みが消えていく。
“寒さ”に身を任せたからこそよくわかる。こいつは人間性を捨て去った狂人だ。あるいは、人間すら捨てた化け物かもしれない。
そんな龍善が、私の言葉に従うはずもない。
『スズキのGSX250Rはいいものだろう。250ccだから即席で私が買えるぐらい安いのも……』
「スズキ? カワサキだぞ」
『……黒のかい?』
「NINJA ZX-4って描かれてるな」
『400ccに限りなく近い……値段は軽く2倍から3倍なんじゃ……!』
「じゃあな」
いきなりぶつぶつ言い出した龍善が気持ち悪かったので、私は即座に通話をぶち切った。ついでに耳から外したワイヤレスイヤフォンを踏み潰し、側溝に蹴り落とす。
ここまでやっても全く心は消えない。そもそも神経が苛立ち過ぎて、自分の精神状態すら曖昧に刺々しい。
今はとにかく、界理のもとへと足を進める。
「ふー……」
吐いた息は空気に溶ける。そんな常識を、今の私は認識できない。
吐いた息が口周りに広がり、巻物でも作るかのように渦巻き、起こった流れが肌を突き刺し……私を殺す何百というイメージに繋がる。一度積み上げられた死の気配は、消えることがなかった。
今や私の認識する全てが、同質のものに成り下がる。
世界から死を感じるのではない。世界そのものが死。そして死は“寒さ”。私自身でさえも、ただの“寒さ”。
熱がないのだから、凍えるという無駄もない。
ただ生きている。寒さしかない認知の中を、ひたすらに彷徨い続ける。自分が人間である証明もなく、寒さを感じる
「寒い、な」
氷の骨、雪の肉、液体ヘリウムの血液、思考は極低温アモルファス、感じるのは寒さだけ。
そんな私に刻まれているのは、たった一つの呪い。
『死ぬな』、と。
たったそれだけの、シンプルな原則。
それ以外の思考が凍りつき、細胞の一つ一つまでが逆らおうとしない。誰がそんな呪縛を私に与えたのか、その疑問すら探ることを許されない。
まるで、絶対の神が私をそうあれと創ったようだ。死神に違いないな。
まあだから…………従わない私は辛いわけだ。
「バカみたいに痛いじゃねえか。クソッタレ」
寒さが世界を支配し、呪縛は“死ぬな”と囁き続ける。
私はそれに逆らっている。寒さにを受け入れながら死に近づき、
だから、
逆らい無視し利用しようとする私は、諌め罰せられていた。
全身を砕かれる。神経を刺される。思考にヒビを入れられる。記憶の価値を削られる。生命として私に不要なものが、死神の冷たい鎌で痛めつけられ続ける。
それ以上足を踏み出すなと、何もかもから責め立てられ——
「それでも……!」
——なおも私は一歩を踏みしめた。
ああ苦しいさ。寒さと苦痛で狂えないのに狂ってしまいそうだ。
一歩進む毎に、凍りついた“私”にヒビが走り砕ける。
(界理……忘れない、界理!)
砕けた体を、想いの
温かさなど感じない。だが私は、温かさを覚えているのだ。
あの日々を、肌を、匂いを、体温を——心に刻み込んでいる。冬馬界理というヨスガを、私は絶対に忘れなどしない……!
「ああ、捉えた……」
寒さの密度が上がり、私を止めようと痛みが酷くなる。
目的の廃工場まで、あと60メートルはあるだろう。
しかしわかる。その中にある
近づく毎に精度は高まり、徐々に輪郭が削り出されていった。
壁の前に立ち目を閉じれば、さまざまな
数は……26から29。
武装……刃物鈍器。
警戒……やや高め。
見張り……いない。
「…………っ」
壁面に、そっと手と耳を張り付ける。
中の音が聞こえるはずがない。もし聞こえたとしても、正確に把握できないだろう。できる人間がいたら、そいつはもう人じゃない。
私だって聞こえはしないさ。聴覚で知覚できるもんじゃない。
でも、“寒さ”ならば話は別だ。
“いつ移動させるんだ”
“昼間と言ったろ。その時間に買収した奴が穴をあける”
“クソッ、この瞬間にも
“落ち着けアホウ。気持ちはわかるわ。んでもこいつは失敗できんのや”
“……すまん、その通りだ。けど、本当にこの餓鬼の血で?”
“餓鬼ゆうても19やけどな。何度も確認したやろ、黄金の血っちゅうやつや”
声は聞こえない。私の全身に入り込み蹂躙する寒さから、こうした会話を抽出しているだけ。
どういった原理かなんて、私にわかるはずもない。知らなくても良いのだから。
“
“わけわかんねえ……! なんで
“明日の夕方には金血を届けられる。それまでの辛抱だ”
“ま、きぃ抜かんようしとけっちゅうこっちゃ。あんたも不憫やなぁ。けどすまん、
“けっ、気味悪い笑顔の餓鬼が。お前が楽しんでるときも、
“落ち着けバカ。明日までの我慢だ。いいな、殴ったらお前ハラキリだかんな”
“……わかってる”
ゴミみたいな会話。聞くに値しない、負の価値しかない愚物だ。
だから私は、全く別のものに意識を向けていた。正確には、意識を奪われていた。
寒さのそばに感じる、世界でただ一つの気配。
私がいくら寒さに身を任せようと、忘れることのない眩しさ。
「ああ、見つけたぞ……!」
温かい気配。
寒さの中で浮かび上がる異物は、私にとって何よりも尊い。
私がどれだけ変わっても、この灯火だけは変わらないんだ。
「界理……っ!」
痛みが、和らぐ。
けどそれを気にする余裕はない。私は担いでいたバッグを下ろし、中身を露わにする。
中に入っていたのは、私のコレクションのとっておき。私が蒐集した刃物の中でも、特に私へ寒さを伝える凶器達だ。
今の私にできる最大効率で、刃物を身に纏っていく。全ては持っていけない、界理を救う為に必要となるだろう六本だけを選ぶ。
そして最後に、底にあった業物を手に取る。
普通より長めの柄、ジュラルミン製の鍔、超軽量金属の鞘。隠された、刀匠が極限まで鍛え上げた鋼。
刃渡りは30センチピッタリなので、一般的に短刀と呼ばれる刀剣。私はベルトに差し込み、準備を終えた。
「二階は窓が閉まっていない……」
侵入経路を、選んでいる暇はない。
私は迷いなく壁に指を掛け、体重を持ち上げた。
どう動くべきか、どこが最適解か、今ならば寒さが全てを教えてくれる。
極力音を立てない。4分ほどで二階へ辿り着き、窓から侵入を果たす。
だだっ広い室内のおよそ中央に人間が集まっていたが、侵入した窓の下には鉄骨が張り巡らされて私は見えにくいようだ。これは二階ではなく、ただ窓があるだけか。なんにせよ好都合。
私は鉄骨の上を移動し、28人のクソッタレとその中心にいる界理を観察する。
(————ッッ!! クソッ!)
集団の外輪上空に着いたとき、寒さが生存本能に訴えかけた。
私は迷うことなく、鉄骨から飛び降りる。
真下にいる一人が、何気ない動作で私を見上げる。その顔が驚きに歪むのを確認する前に、私は落下速度そのままに人体を絡めとった。
「なぁッッッ!!!!」
相手の首の後ろと肩に足と手を掛け、強制的に前転させる。
下にある足を蹴り上げた私は相手の腹の上に丸まり、相手は私を包み込むように体を曲げた。
くるりと、究極なまでに衝撃を逃す人間団子。
背中から臀部が床についた瞬間、私は体を広げる。曲線を失った相手の足が、ダン! と音を立てて床に叩きつけられた。
約5メートルから落ちた人間一人分の衝撃、当然相手の足が無事なはずはない。左足は膝が外れ、右足は股関節から異様な方向を向いていた。だがまあ、死んではいない。
「ぎ——ッ!!!! ガぁハッ————ッッッ!!!!!!」
「死なないように動かないことだ」
ゆるりと立ち上がった私に、驚愕を込めた視線が突き刺さる。
「なッ、なんだテメェッッ!!!!」
そんな叫びが耳朶を打つ。
「私か? 私はそうだな……ハッ、お前らの死神だよ。そんでお前らを丁寧にすり潰す、怒れる女だ」
一瞬『恋人』や『花嫁』なんて言葉が思い浮かんだのは、自分でもわけわかんないな。
と、呆然とこちらを見つめる天使がいた。
椅子に座らされ、両手は背もたれに縛り付けられている。
「は……る……」
「言ってなかったな。私の『ずっと』は、嘘じゃないんだ」
クシャリ、界理の顔が歪んだ。
喜びと悲しみ、罪悪感がないまぜになった、泣きそうな顔。
「待ってろよ。こいつら全員、叩きのめして迎えにいく」
ガーネットみたいな瞳から涙が流れるのを見てから、視線をヤクザどもに向ける。どいつもこいつも臨戦体制。凶器を手に持ち、私を睨んでいた。
私は短刀を抜き放ち、頬を釣り上げる。
私は冷えているが、体に血が巡る。思考が凍ると同時に泡立ち、感情が沈みながら煮え滾った。
何より、温かさがすぐそこにあった。
だから笑う。
死を前にして、空前の理不尽を前にして、私は傲慢にも笑ってみせる。
「ハッ! さっさと終わらせてやるよッ!!」
地を蹴り突き進む私。
敵が、雄叫びを上げながら迎え撃つ。
わかる。私も塵共も、信念と覚悟を持っている。大切なものを守らんと、足掻いている。
どちらが正しいでもない。正義や大義なんて、とっくにドブへと捨てているんだ。
殺し合おうぜ、譲れないものの為によおッ!!
(死んだら失う。死んでいい奴だけが私の前に立って見せろ! クソッタレな運動会を始めるぞッ!)
一人目の肩に、私は刃を突き立てた。
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