第27.5話 偽善憐憫猫
「——ええ、ええ、ごめんなさい。界理くんの居場所はわからないの。……わかったわ、気をつけてね。また店にいらっしゃい」
受話器を置いて、通話を切る。
通話相手は、少し前に常連になった少女。まあ、私が勝手に常連判定しているだけだが。
界理くんと二人で楽しそうに笑っている姿を、私は鮮明に覚えている。
「……うぅ、遥、元に戻れるかしら?」
私は体を抱き、ブルリを震わす。
電話越しの声。本物とは程遠い、作られた電子音。
それだけ離れていながら、私の思考は恐怖を訴えていた。被食者である自分が捕食者を前にしたかのように、強烈な畏れの感情だ。
彼女の声からは配慮を感じた。
それでも、人間が出す音だと思えない。
極寒の中で凍りついた死体が、目的を持って動き出した。そう言われても納得できる。
氷の脈動と寒風の吐息が、こちらにまで伝わってきていた。
もはや、人類であることにすら疑問が浮かんで——
「いやはや、バックヤードを借りてすまないね。どうだった遥君は。人類を超越した領域にいただろう?」
店のバックヤードから、一人の男が出てくる。
細身のハイグレードスーツに身を包み、髪をオールバックにした精悍な中年。本心を見せない笑みだけが、私にとってマイナスポイントだ。
「そうねぇ。別に、まだ普通の女の子よ。龍善が何を見出そうとね」
龍善。遥の保護者兼代理人であり……“アリア”ではない私との古い知人。
久々に私の店に顔を出したかと思えば面倒事を持ってきた、友人への気遣いのないロクデナシ。
「おや、君にならば感じられるだろうに。
わざわざ私の捨てた名を出してくるあたり、まだ私に執着があるようだ。私が関わりを絶ってから、どれだけ時間が経ったと思っているのやら。
「それで、わざわざバックヤードに隠れたのは何故かしら?」
露骨に話を逸らせば、龍善はあっさり答えを返してくる。
この素直さが、いつもあれば良いのに。
「今の遥君は常識では測れない。世界から死を感じるだけではなく、世界を死という理で把握している。……まあ簡単に言えば、電話越しでも呼吸音、
信じられるかい、と龍善が笑う。
私は笑えない。先ほど遥から聞いた極寒の声を思えば、おかしくないと思ってしまった。
「ミャー」
「……ええ、トレミー。私は大丈夫よ」
震えそうになる手の上に、ふさふさとした尻尾が乗せられる。スッと指を差し出せば、トレミーがクルクルと頭を擦り付けてきた。
指先に感じる温かさに、幾分か心が落ち着く。
「実に賢いね、トレミー君は。しかし、“プトレマイオス”か。かつて育てた子供と同じ名前じゃ——」
「黙らないと、貴方の終わりを美しく綴ってしまうかも」
余計なことを口にする龍善に、にっこり笑ってみせる。
在りし日の私を真似た、華やかな笑みだ。
「——これはすまない。年をとると口が軽くなってしまって困るね。しかし……
「あら、ありがとう。全く嬉しくないわね」
「これは失礼。謝罪は————」
龍善の言葉を遮って、通知音が鳴り響く。
懐から携帯端末を取り出した龍善は、笑みを深めて私を見る。
「遥君からだ。すまないが、これをつけてくれないかい? トレミー君の近くにはこれを置いて」
渡されたのは厚みのある布のようなものと、円筒形の小型装置。
「なにかしら」
「音波で空気を乱し、周囲の気配を消してくれる。遥君に繋がりを悟られるのは本意じゃないだろう?」
龍善の言うことは、私の意思とも合致する。
渋々口元を布で覆い、トレミーの前に装置を置いた。
それを確認した龍善は、携帯スピーカーのような装置を起動させ、通話を開始した。
「遥君じゃないか、どうしたんだい。…………界理君が? ……ヤクザ、あるいはマフィアかい。うん、僕の方でも調べてみるよ。すぐに連絡を返す。……なに、私はこう見えて優秀なんだ。それじゃあ、またすぐに——」
話を終えようとした龍善が、動きを止めて私の方を向く。
「……スピーカーにだね。うん、わかったよ」
机に置かれた端末から、こちらにまで電話向こうの息遣いが聞こえてくる。単純に音量を上げたのではなく、スピーカー機能というものだ。
「それで、どうしたんだい?」
『龍善。お前の仕事は疑っていない、だから何を言うこともない。黙ってろ』
冷たく重い深海のような声が、龍善を黙らせた。そして遥の発言は、龍善以外の存在を確信してのものだ。
私は息を潜め、端末に集中する。
『あんたには感謝してる、また行くから美味いもん食わせてくれ。だけどあんたがいるはずがない。だから……この言葉は独り言だ』
深く、息を吸う音が耳に入る。
『あんたが何者でも、私への助言は嬉しかった。だからもう、無理して関わろうとすんな。辛そうな顔見せんな。以上だ…………いや、もう一つ。おいにゃんこ。またゆで卵食わせてやる』
「ニャーン」
遥の言葉に、トレミーが鳴き声を返す。
少しの無言を挟んで、通話は切れてしまった。
音のなくなった端末から伝播したように、店の中にも沈黙が満ちる。
「素晴らしい……」
ポツリと、龍善が零す。
「聞いたかい
感激に震える龍善を、私は見ていなかった。
私はただ悲しみを胸に、端末を見る。
「…………美しくなんて、ないわ。こんなの、女の子にやらせるものじゃないわ」
苦しいぐらい痛々しいだけじゃない……
だって遥の心は、苦しんで軋み音を上げている。
それなのに他者を気遣う気持ちを忘れられないのは、拷問と何も変わらない。
(遥……また笑顔で、
心の呟きを胸に秘めて、私は龍善を店から叩き出した。
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