第25話 夢者伝幸福

 遥の自室で、僕は本を読んでいた。

 いや、読んでいないのかもしれない。

 文字の一つ一つがとる形は認識できるし、最後の行に目を通せばページを捲っている。会話が多いこともなんとなく頭に入ってきている。


(これ……何が書いてあるんだろ……)


 ページと目の上を、それぞれの手で覆う。僕の口からは、長いため息が漏れた。

 集中できていないなんてレベルじゃない。本の中身が抽象画にしか見えないではないか。

 ぐるぐると気持ち悪い熱が、頭の中で蠢いている。

 目を押さえたまま、深呼吸。自分の呼吸音だけが、気導音と骨導音両方で聴覚を刺激してきた。

 冷たい気流の音、頭の熱は一向に晴れない。


(……遥)


 僕の思考を占めているのは、一人の女の子。

 誰よりも大切にしたい、誰よりも幸せにしたい、誰よりも近くにいて欲しい……


(遥は……何を悩んでるの……)


 そんな遥が、最近苦しそうにしている。

 何が原因かはわからない。本当に唐突だった。

 家の中では和らぐことの多かった遥の顔が強張り、カップの持ち手を握り折ったのだ。

 遥はすぐに笑っていたし、僕の頬を撫でてくれた。

 ああでも、僕は忘れていない。敵意と殺意……そして怯えの滲んだ遥の表情を。

 その時から、遥は変わっていった。

 小さな音にも反応し、食事の時も顔を顰める。家の中では僕から離れなくなって、なのに深夜の外出が増えていった。

 普段顔に浮かべる色は暗く鋭く、僕が抱きつくときは強い恐怖が色濃くなる。

 僕達の間にある空気も、だんだんと重くなって。

 会話が減り、なのに一人の時間も短くなって、目を合わせる機会も少なくなる。

 まるで、二人で怯え隠れているのかのような——


「あ!」


 手を目の上から退かすと、壁のパネルに反応があるのが見えた。

 遥の自室にあるパネルはマンションの中にある一部センサーに繋がり、人影なんかがあれば一目でわかる。部屋の中ならば詳細にわかるのだが、マンション全体は管理しきれないのだろう。

 今回の反応は一つ。

 見慣れた迷いのない動きは、僕の同居人のもので間違いない。

 僕は急いで玄関に移動し、開かれるのを待つ。

 頬を引っ張って、僕は笑顔を作った。


「おかえりなさい……!」


 開かれると同時に言えば、扉の向こうから期待通りに顔が出てくる。

 ああ、遥だ。


「……ああ、ただいま」


 遥の声は、掠れたように弱々しかった。

 今日の遥は一段と痛々しい。僕の為の笑みも、口元が歪んでいるだけだ。冷たく鋭い雰囲気も隠せていない。

 目も、僕達は一瞬しか合わせなかった。

 ジュグリと、胸が痛む。


「お、お風呂は……」

「悪い、今日はもう寝る」

「うん……僕も歯は磨いたから、一緒に行こ?」


 ぎこちなく、辛い。

 なのに手だけは強く握り合って、言葉なく歩く。

 ベッドに腰掛け遥が着替える姿を見ても、ただ胸が苦しくなる。

 二人で布団を被り電気を消しても、ドキドキしない。

 遥は自分から触れようとしないから、僕から手を伸ばす。そうすればやっと、遥も近づいてくれる。

 前は手を繋ぐだけでも体が火照った。

 今は、抱きしめ合っているのに体が震えそうになる。


「おやすみ、遥」

「おやすみ、界理」


 冷たい風に耐えるように、僕達は体を寄せ合う。

 目を閉じれば、闇。ひたすらに暗く深い、闇。


(寝よう。早く寝よう。遥もすぐ寝るし……)


 息を潜めて、冷たい微睡みに沈む。

 目が覚めたとき、全部元通り温かい日常が戻ってくる。

 そんな幻想を抱きながら。





     †††††





「なにしてるの?」


 開口一番、そいつは言い放った。

 呆れと、侮蔑と————強い怒り。

 幼い私の姿を取りながら、私が絶対に浮かべない表情に顔を歪めている。


「なにしてるの?」


 再度同じ言葉が、小さな口から放たれる。

 幼さによる弱さはなく、静かながら強い威圧感を感じる。

 私は喉が詰まり、言い返すことができなかった。


「…………」


 夢。これは夢だ。

 見覚えのある光景に、かつてありし私の姿をしたナニカ。

 場所は何処かの図書館。確か、龍善と待ち合わせしたときだったか。

 龍善が一時間も遅刻し、私は司書のおすすめの本を読もうとしていた。棚の間を歩き見つけた本に、私は寒さ感じる。慎重に開いた本の中には、沢山のカミソリの刃が挟まれていた……

 そんな光景を見せられるはずが、全部すっ飛ばして質問されている。

 いつだかの夢でただ過去を再現しただけでないのはわかっていたが、今回はもう再現しようという意思すら感じない。


「……何に対しての質問だよ」


 やっと私の口から出たのは、そんな言葉。

 私は少し驚きを感じた。

 今やっと自覚した。いつもの夢とは違い、私には口も喉もある。だから喋れている。

 意識だけが存在するときとは、何もかもが違う。

 自分の体を確認しようとして——視線が動かせないことに気付く。


「むだ。あなたは必要最低限のことしかできない。しゃべらせてあげてるだけでも、感謝して」


 なんだよそれ。意味わかんねえよ。


「何に対してか、だっけ? あなたが不幸なこと。あなたが大切なことをほったらかしにしてること。あなたがをないがしろにしてること……あなたの我が儘でそばに置いてる彼を……」


 喋る毎に、ナニカの怒りが伝わってくる。

 『カイ』ってのは、たぶん界理のことだろう。


「界理のこと」


 思考に割り込むように、ナニカは言った。


「考えてることは、全部お見通しか……」

「そんなことはどうでもいい。なに? あなたはなにをしてるの? 辛くて、苦しくて、痛くて……寒い……。だからって、何もかも道連れにしていいわけじゃ」

「うるせぇよッッ!!!」


 頭を抱えたい。私には腕がない。

 目を閉じたい。私には目がない。

 視線を下ろしたい。私には自由がない。

 だから叫ぶ。それでも吠える。崩れそうになる心を繋ぎ止める為に、声を張り上げる。


「わかってるよ! 界理を悲しませてるってことッ! 苦しませて辛い思いさせてるってことッ!!」


 私が自覚してないわけないだろ。

 界理が大切だと言っておきながら、私はあいつに重過ぎる負担を押し付けてる。


「私だってなぁッ! 安心させたいよ! あいつには笑っていて欲しいんだ! 前みたいにくだらないことして触れ合って胸ドキドキさせて抱きしめて見つめ合って……ッ!!! それを邪魔してんのが私だってのは痛いぐらい自覚してんだよッッッ!!!!!!」


 界理の無理矢理な笑みが、胸を締め付ける。

 あいつのストレスで低くなった体温が、私の体にまで這い上る。

 目を合わせないと、界理が離れていく気がする。

 小さな体で無理をする界理に、私は身体が引き裂かれる悲しさを感じていた。


「でもッ! 寒いんだよッ! 笑えないし楽しめない! あれだけ強かった界理の熱も霞んじまう! 身体中が寒さに犯されて、呼吸だってもうわかんないんだッ! 自分が寒さをッ! “死”の気配を感じる機械みたいになってッッ!!!! 考えるのも動くのも寒さ寒さ寒さばっかりッ!! 寒さ以外何にも感じられなくなっていってるんだよッッ!!!! なんでだよ!? なんで私はこんなんなってんだよっ!? 私はただ……ッ! ……ただ、界理と笑い合えれば……それで……それ、だけで……」


 泣けない。

 でも、心の辛さは変わらない。

 ここ最近は、寒さ以外の記憶が曖昧だ。

 思い出そうとすればすれ違った人間の顔さえ思い出せるが……結局、それも“寒さ”でしかない。

 あれだけ大切な界理さえ、朧げになっている。


「…………もう……前みたいに、なれない……。ぅ……ぅく……ぁ……なん、で……」


 もう嫌だ。寒さなんて感じたくない。

 楽になりたい。死にたい。自分も界理も失うなんて嫌なんだ。

 でも、

 私の本能が、寒さが、どう足掻いても私を死から遠ざける。

 それは、ひたすらに地獄だ。


「…………ばか」


 ナニカの口から、幼なげな声が零れる。

 聞き逃してしまいそうな小声が、私は何故か気になった。


「……え」

「ばか。何にもわかってない。じゃあなんで、あなたは今もカイと抱き合ってるの? なんでカイから離れないの? カイのこと考えなよ。あなたから離れない理由」


 そんなの、私が界理に執着してるから……


「だからばか。私が言ってあげる。あなたは……あなたたちは、今でも幸せを感じてる。ろうそくみたいな小さなものでも、幸せなの。それが、二人を人間にしてるの……!」


 人間に、してる?

 何を言っているんだ。


「あなたが寒さに身をまかせないのは、なんで? カイがあなたを捨てて楽にならないのは、なんで?」


 熱ある口調で、ナニカは口を動かす。


「お互いがいるからでしょ? 人間辞めないのは、それだけが理由でしょ? 楽になりたいなら、あなたは全てを寒さに任せればいい。ただ寒さで動く機械になればいい。でもできない。カイがいる世界に、あなたは全力でしがみついてる」


 ああ、そうか。私は界理を理由にしてたのか。

 そして界理を苦しめている。

 なら、離れてしまえば界理に負担は……


「話を聞けおたんこなす……! あなたはなんでカイといたいのか忘れてる。からなんだよ……!」

 

 ヒュッと、私の喉が鳴った。

 肩を怒らせ、ナニカは私に近づく。


「あなただけじゃダメ。カイだけでもダメ。二人じゃなきゃいけない。二人じゃなきゃあなたたちは人間を捨てる」


 ナニカの顔が、はっきりと見えた。

 その顔はどうしてか、泣きそうに見えて。


「死だけしか基準がない女。心では自分のこと諦めてる男。気付いてよ。どっちも壊れてる。どっちも狂ってる。二人が揃わなきゃ、どこにもいけないんだよ」


 薄い緑眼から、一筋の雫が流れる。


「一人で狂った女は、もう知ってるでしょ? 一人じゃどこにもいけないし、幸せになれない。二人で、幸せになってよ……!」


 私の胸が、キュッと締め付けられる。

 悲しみと、苦しさと、ほんのちょっとの期待。


「私は、幸せになっていいのか?」

「うん」

「界理を傷つけてる、私が?」

「うん……!」

「嫌われるかも知れないのに? 絶望するかも知れないのに?」

「カイなら噛まれても、むしろ喜ぶ」


 ふっと、私の口から息が漏れた。


「なんだよそれ……」

「試してみれば」


 ふふっと、笑いが出る。

 心が、軽い。

 ナニカの言葉が胸に反響し、私の苦しみを解きほぐしていく。


「なんで、お前の言葉に寒さを感じないんだ?」

「秘密」


 そうなんだ。ナニカからは、寒さを感じない。その代わり、温かさも感じない。

 だけど……そうだな……懐かしさ、みたいな。


「余計なこと考えないで」


 ブツリと、思考が断ち切られた。

 だからわかった。ここでは、私の思考すらこいつの影響を受けるんだ。

 素直に感情を吐いてしまうし、願望を出してしまう。こいつの言う通りに考えがイジくられる。


「それで、起きたら何すべきだ?」


 それでいい。

 わかるんだ。ナニカが、本気で私のことを考えてくれているって。


「カイとイチャイチャして」


 言うことはぶっ飛んでるが。


「だが……寒さが……」

「私がなんとかする。感じる寒さの方向性を変える」

「なんでそんなこと」

「深く考えないで。考えるのは、幸せになること。カイに謝ること。だけ……」


 ナニカが上に目を向ける。

 同時に、私の思考が重くなっていく。

 これは、意識が覚醒する前兆か?


「瞬きの間だけでも、幸せを全力して。偽る者も害する者もあるけど、必ず幸せになれる——」

「なあ、なんでお前はそこまでしてくれるんだ?」


 ナニカの動きが止まり、表情が凍りついた。

 聞かない方がいいことは、感じていた。

 しかし、どうしても聞いておかなければならない気がした。


「…………あたしが、あなたを不幸にした一因だから」


 淡々と、ナニカは言った。


「ほんとは、関わっちゃいけない。望まれた通り、苦しめる。私はただの『秤』だから。歪んだら、殺すから」


 何を言われているのか、私は理解できない。

 ああだが、ナニカの覚悟だけは伝わってくる。

 どのみち今は、何かを問う時間はない。覚醒がどんどん進んでいる。

 

「最後にいいか?」

「なに」

「身体が欲しい。不格好でも」


 ナニカは少し悩んだが、決意を固めたようで腕を振るう。

 私に、重みが生まれた。

 動ける。でもじっくり確認している時間は残されていない。

 飛びつき、ナニカを腕に収める。


「な……!」

「お前の名前は」


 抱きしめたナニカは、早口に答える。


「ない……!」


 私の意識が飛ぶ。もう時間がない!


「じゃあやる! お前はムゲン! 夢幻で無限だ! ありがとうムゲン!!」


 答えを聞く前に、私の夢は白く消え去った。





     †††††





 目が覚める。

 抱き合っていたはずの遥は、ベッドにいなかった。

 僕はのそのそと起き上がり、ぼーっと部屋を見渡す。


(今日も……遥は苦しんで——)

「ん、起きたか。朝食作ったから食べようぜ」


 ガチャリと開いたドアから、遥が顔を出した。


「え?」


 僕の目に映る遥は、昨日までの重苦しい空気を纏っていない。

 苦しそうでも、辛そうでもない。

 遥は困ったように笑って、僕に手を差し出した。


「言いたいことはわかる。ごめんな、お前に負担かけて。だからさ、今日はお前の望むように過ごそう」


 上目遣いでこちらを見つめる遥。可愛い。

 じわじわと、僕の頬が熱を帯びる。

 しゅぱっと遥の手を取って、僕は久しぶりに浮かべる満面の笑みで言った。


「うん! 困らされたからね。遥〜、覚悟してよ〜?」


 遥は柔らかに笑って返してくる。


「ああ、お手柔らか……いや、思いっきりきてくれ」


 笑い合う。笑い合う。

 手を繋ぐのすら、恥ずかしい。

 感じるのは温かさ。

 これは——



 ——幸せの温度だ。

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