第26話 上級愛行為

「っ…………」


 声を押し殺して、私は歯を食いしばる。

 ベッドにうつ伏せとなって、両手を頭の上にまっすぐ伸ばす。もう10分以上、同じ姿勢だ。

 動いてはいけない。動きたければ動けるが、私は意地でも動くつもりがなかった。


(大丈夫、耐えられる……。変なことじゃない。だからだいじょう——ッ……!)

「ぁ……っ……!」


 するりと背骨を撫でられる感触に、思わず声が漏れてしまう。

 私は声が出たことがどうしようもなく恥ずかしくで、ベッドのシーツに歯を立てた。

 続けて背骨を挟むように、上から下にすすっと滑らかな感触が走る。


「ぅぅっ……」


 ただ軽く肌が擦られるだけなのに、背骨を伝って全身に衝撃が抜けていく。

 悪寒に近く、でも不快なものではない。

 、背中に馬乗りされ、わけのわからない昂りを抑える。

 経験のない、知識のない、理解の及ばない刺激。

 なのに、私はどこか嬉しくすら感じていた。

 熱っぽく、浅い呼吸が聞こえる。それが自分のものであるのが、なんだか信じられない。


「は、遥……大丈夫?」


 背中の上から、確認の言葉が降ってくる。

 いつも通り優しく響く、今は少しだけ熱のこもった、界理の声。

 私はシーツから口を離し、界理に返した。


「大丈夫だ……。満足するまで、いいぞ……」

「でも、つらそうだよ」

「これは。……それに、全然嫌じゃない……」

「そう……。じゃあ、いくよ……!」

「……っ」


 視覚が奪われた分、私の脳が情報収集を別の方法に頼ろうとしている。

 特に、触覚だ。

 界理が近づける指の熱さえ、背中に火が近づけられたようにはっきりと感じた。

 私の右脇腹に近い部分に、三つの指先が這っていく。


「ぁ……くっ……!」


 耐えられる! 界理が求めた『お仕置きイチャイチャ』なるもの! 私は遂行してみせる!

 ムゲンに叱咤され、遥に謝ったのが今朝。

 イチャイチャしようと張り切ったのが朝食後。

 ここで問題が……私は、イチャイチャを知らない。考えてみたがこれっぽっちも知らなかった。知識がないわけではないが、自分に当てはめることが全くできなかったのだ。

 なので大変情けないことに、界理に相談した。


『界理とイチャイチャしたいんだが、なんか申し訳ない気持ちがある。どうすればイチャイチャできるんだ?』


 ポカーンと呆けた界理は、すぐに考え込んだ。

 なんとも優しいことに、私の悩みを真剣に考えてくれたのだ。

 界理は私にいくつか質問し、私が答え終わると、清々しい笑顔で宣言したのだ。


『世の中にはお仕置きイチャイチャっていうのがあるよ! 僕がリードするから遥でも安心だよっ!!』


 なんと頼もしいことだろうか。なんかヤケクソに聞こえたのは、私の耳がおかしかったんだろうな。

 感激する私に界理が渡したのが、長めのタオルと一本の輪ゴム。

 私はタオルを使って目を塞がれ、両手の親指を輪ゴムに通した。

 で、ベッドに寝転んだ私の背中に、界理が跨ってきたのだ。

 するっとシャツが捲られ背中が外気に晒された感触が、まだ頭の中で燻っている。


『輪ゴムが切れたら、僕はやめるよ』


 そう言って界理は、私の背中を優しくなぞった。

 一番初めに漏れた私の声は、ほんっとうに情けないものだったよ!

 

「ふぁ……っ!」


 また、声が出た。めちゃくちゃ恥ずかしい。

 でも、嬉しい。

 お仕置きなのに、気持ちいい。

 私がわかるのは、なにがなんでも耐えなきゃいけないことだけ。なんでかなんて知らない。でも、そうじゃないと大変なことになる気がする。

 界理が満足するまで、私は我慢するんだ。

 全意識を、切らないように握る輪ゴムに向ける。

 そうしないと、自分が自分じゃなくなってしまいそうだから。

 

(界理は、いつまで続けるつもりだよ……!)


 背中と胸と頭の奥が、ムズムズする。

 苦しくない辛さが、私を苛む。

 『やめて』と、声が出そうになる。


(あ……うっ……界理……!)


 でも……終わって欲しくないという気持ちが、心に渦巻いていた。





     †††††





「ぅ……ゃっ……!」


 遥の口から、艶かしい抑え声が漏れ出た。

 僕が背中に指を這わせる毎に走る震えが、僕の太ももと臀部を通し伝わって頭を痺れさせる。

 服越し、指先越しにさえ、遥のねっとりとした熱が染み込んできた。

 見える横顔は上気して、呼吸は熱くて色っぽい。


(遥! えっち過ぎじゃない!?)


 これが無自覚だというのだから、もう恐ろしいまである。

 そして、遥をこんなんにしているのは、他ならぬ僕なのだ。

 頭の中に、罪悪感が湧く。


(僕、遥にとんでもないこと言っちゃった……)


 『お仕置きイチャイチャ』なんて、ノーマルなはずがないだろっ! むしろアブノーマルに頭のてっぺんまでどっぷりだわっ!

 まさか遥が何も知らずに受け入れるなんて、僕は考えていなかった。

 ……いや嘘。半分、なんなら八割くらいの勝利を確信して、こうなることを期待してた。


(いやいや何が勝利なの!? 騙しちゃダメでしょ!?)


 自分の思考にツッコミを入れる。

 ああでも、質問された時にはこれしか思いつかなかった。

 僕は遥に質問して、その罪悪感と不安を知ってしまった。


“僕に何して欲しい?”————“なんでもして欲しい”

“遥は何をしたい?”————“怖くて何もできない”

“自分から僕に抱き着ける?”————“…………”


 悟ったよ。

 遥は、僕に対して怯えている。正確には僕にじゃなくて、むしろ僕と接する遥自身を。

 イチャイチャしたいなら、いつだかのお風呂みたいに迫ってくればいい。

 でも、遥は昨日までの変化を引きずっている。

 恐怖して、怯えて、震えて——それなのに強迫観念みたいに僕を求める。

 まるで、『幸せにならなくてはいけない』という呪いを掛けられたみたいに。

 自分からは動けないだろう遥に、僕は咄嗟に思い浮かんだ考えを話した。


「…………」

「かい……り……?」

「っ……あ、ごめんね」


 思考に集中して、手が動いていなかった。

 謝罪の声を僕が発したのは、遥の声があんまりにも物欲しそうだったから。


(そんなに僕が好きなら、もっと求めてよ。自覚してよ……! “好き”って言ってよ……!)


 考えてみれば、僕は遥に『好き』と言われた覚えがない。

 覚えていないだけか、本当に言われていないのか……

 僕は首を振って現場に集中する。

 遥を責めることなんて僕はできない。だって、僕だって遥に“好き”と言った覚えがない。

 結局、僕達は怯えているんだ。


(遥……)

「……ぁぅっ……」


 背骨に沿って、指を流す。くびれ下部まで指を動かすと、遥の腰が震えた。

 背中の真ん中を、横断するように撫でる。


「……ゅ……っ」


 両手を使って、脇腹近くに指を這わせる。


「ひ……っ……ぁ……」


 しなやかな筋肉の筋に合わせて、迷路を解くみたいに指を遊ばせる。


「うぅ……ゃ……っ」


 艶っぽい声に、胸の内でぐるぐると熱が巡る。


(もっと乱れれば……好きって言ってくれるかな……?)


 僕は右手を持ち上げて、自分の唇に近づける。

 ちょっと躊躇ってから、指を口に含んだ。

 過剰なまでに分泌されていた唾液に、汗の味が混じった。

 ちゅぱっ、じゅるっ、水音が響く。


「かいり……? どうしたんだ……? なにか……ひっ……!」


 ああしまった。

 口から右手を離したときに、唾液がこぼれちゃった。冷たかったかな?

 ねっとりと糸を引く体液が、僕の手にまとわりついている。

 心臓がドキドキして苦しい。視界が狭くなって、血潮が沸騰している。

 

「ほんと大丈夫なのか……? なあ、タオル外しても——ひゃうっ!?」


 ペトリと、僕は手を遥の背中に当てる。

 まるで初めに背中を撫でたときみたいな、可愛い声が響いた。


「あう……!? かい、り!? なに……!」

「タオル外しちゃだめ。輪ゴムが千切れたら、すぐにやめる」


 激しく、素早く、でもゆっくり、滑りの良くなった右手を這いずり回させる。

 刺々しい円を描くように、遥の背中を蹂躙する。


「ふあぁ! ぁ……あ……っ……! ひぅっ!」


 やめて、と……遥は口にした。

 でもやめない。

 遥が親指を通している輪ゴムは、まだ切れていないから。

 自由に切れる輪っかを保持しているのは、他ならぬ遥だ。僕を求めているのは、遥だ。

 部屋に響く声は高まって、僕には嬌声にしか聞こえなかった。

 

「あうぁ……! ……かい、り……!」


 ハッとして、僕は遥の背中から手を離す。

 

「う……ぐす……ぁぅ……」


 泣いて、遥が、泣いている。

 目隠しで瞳は見えない。でも、か細い声は僕の耳に入って。

 頭の中が、冷水を浴びせられたように冷えていく。

 僕は……なにを……


「——ッ! ごめんっ!」


 背中から跳ね降りて、距離を取ろうとする。

 激しい自己嫌悪が、身体中を刺し貫く。遥に、嫌われたんじゃないか?


「待て! 界理!」


 ベッドから降りようとしたのを、遥に止められる。

 タオルで隠されているはずの遥の目は、迷いなく僕へと向けられていた。


「動くなよ。見失う」


 這うように、ぎこちなく、遥が僕に近づいてくる。

 両手を一つの足のように使うのは、まだ輪ゴムを気にしているからか。

 僕は動けずに、立ったまま遥が来るのを待った。

 探るような動きで、遥の手が僕の膝に触れる。それだけでなく、顎ですりすりと甘えてくる。

 見えない視線が、僕を見上げた。


「もう、終わりか?」


 ドキリと、胸が熱くなる。

 自然と伸びた僕の手が、不意打ち気味に遥の顎を撫でた。


「わふっ!?」

「ふふふっ、なに今の」


 笑う僕に、遥は抗議を込めて口をへの字に曲げる。

 そして、手を広げて僕に差し出してきた。

 遥の両手親指が、輪ゴムで繋がっている。


「ん」

「……うん、わかった」


 するりと、僕は輪ゴムを外す。

 遥は、まだ動かない。

 僕は遥の目を覆うタオルに触れて、ゆっくりとずらした。

 色の濃い綺麗な緑眼が、徐々に現れる。

 音もなく、タオルがシーツに落ちた。


「遥、僕は——」


 謝ろうとした僕の言葉を遮って、遥が手を伸ばしてきた。

 僕は反射的に目を閉じる。

 

「イチャイチャするって、一つだけ思い出したよ」


 僕の顔が、少し硬い肌に包まれる。

 それが手だと理解した瞬間————僕の鼻先に、柔らかな感触が押し当てられた。


「え……」


 目を開けると、ドアップだった遥の顔が離れていくところだった。

 頬を赤らめながら、イタズラ気に笑う遥。


「キスってこんなんだっけ。どうだ、イチャイチャできてたか?」


 その破壊力は、ツングースカ大爆発を超えた。僕の思考は木っ端微塵だ。

 ギュルンギュルン血が暴れ昇ってくる。

 あれ? 体が軽くなり、視界に黒い点が浮かび始めた。


「遥……天使」

「は?」


 鼻下に生暖かい温度を感じ、舌先に鉄の味を感じる。

 ふわふわと、意識が遠のいていく。


「おい! 界理!!」

「ふふふ……幸せ」

「界理っ!?」


 多幸福感に包まれたまま、僕は意識を手放した。





     †††††





 叫ぶ遥と、幸せそうに気を失う界理。

 遥の中で見ているだけのあたしも、呆れざるを得ない。


「……流石のあたしも、これは予想外」


 焚き付けた側が言うのもなんだが、やっぱり遥と界理は壊れている。

 ニッチなプレイで互いに喜んだかと思えば、恋愛初心者王道の照れキスで倒れる男。

 上級者なんだか初心者なんだかはっきりして欲しい。


「まあ、でも、及第点、かな?」


 歪ではあるが、イチャイチャではあっただろう。

 遥から流れ込む幸せを思えば、それは確かだ。


「……ムゲン。ふふ……ムゲン……。名前、私だけの……」


 あたしも、ちょっと張り切った。

 途中から極限まで寒さを削ったのだ。

 ……ここまでして、あたしは罪悪感に襲われる。


「これから、死が近づく。幸せが、絶望になる」


 きっとその墜落は、果てしなく深い。

 絶望から這い上がる手助けを、あたしはする気がない。


「……がんばって」


 だから祈る。

 祈ることなど、神などカケラも信じていなかった私は、それでも願いを届けようとする。


「名前には、力がある」


 あたしの名前は『ムゲン』。

 だから、無限の可能性を信じると決めたのだ。

 

「どうか、壊れた二人に幸せを」


 形のない精神の中で、あたしは確かに手を合わせた。

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