第22話 葡萄蔓繋楽
「注文は?」
カウンター席に界理と並んで座れば、アリアが私達に聞いてきた。
「界理は何が食いたい」
「え」
私は特にこだわりがないので、とりあえず界理の要望を求める。どうせ私は、吐き気を堪えるだけだ。
「えーと、アリアさん? メニューは何がありますか?」
「お客様の希望になるべく応えるのが、私の流儀なの。だから、とりあえず何か頼んでみて」
柔らかに微笑むアリアに、界理は目を白黒させている。
まあ、そりゃそうか。今時というか、何処でもこんなシステムの店は少ないだろうからな。少なくとも、私は一切聞いたことがない。
普段からこうなのか、それとも私達に特別なのかは判断がつかなかった。
金を多めに払ったとか理由があるのならば、わかりやすいのだが。私が提示された金額の五倍払おうとしたら、「絶対受け取らないから」と断られたんだよなぁ。経営者のプライドはよくわからない。
「は。遥は……」
「全部任せる」
ここ最近わかったことがある。
私は以前オールインワンを基準より多く摂取していた。普遍的な料理で同じだけの栄養素とエネルギーを取ろうとすると、割と大量に食べなければならないらしい。つまり、私と界理では必要とする食事量も栄養素の種類も異なる。特に水分と亜鉛、タンパク質などが顕著だった。
私が頼んでも、界理に合わせられる自信がない。
それに私にとって、界理以外が用意したものなどどれも同じだ。
味に頓着しない私より、しっかりと味覚を楽しめる界理が頼んだ方が建設的だろう。
「遥に合わせる自信がないよ……!」
「界理以外のものに興味ないぞ」
「そういう問題じゃないの!」
「そういうものか?」
「遥にピッタリのものを選びたいんだもの!」
男としてのプライドうんぬんと、界理が頭を抱えている。
界理を眺めていると、くすくすと笑い声が耳に入ったので、視線を向ける。モノクルをいじりながら、アリアが微笑ましそうな表情をしていた。
「なんだアリア」
「いや〜? ここにいるのが居た堪れなくなったのかも?」
「何言ってんだ? 疑問系の意味がわからない」
「二人はお似合いだってことよ」
「何当たり前のこと言ってんだ」
アリアはますます笑みを深めて、口元に手を当てた。
「ふふ、遥はいつでもそう言いそうね」
「お互いずっと一緒にいるって言い合ったんだから、当然——」
「は、遥……っ!」
裾を引っ張られ、言葉を止める。隣に目を向ければ、界理が顔を赤くしていた。
なんだろうな。界理のこの様子。
「注文決まったのか」
「自覚なし!? もう……恥ずかしいから……」
界理は下を向いてしまい、私は首を傾げるしかなかった。
アリアが大きめに上げた笑い声が、少しの間店内に響いた。
「ははは……ふう……注文は決まった? ふふっ」
「うぅ……決まってないです」
モノクルを外して目元を拭うアリアに、界理は恥ずかしそうに答えた。
アリアが私に目配せをしてくる。まあ界理はダメそうだからな。
「おすすめを頼む。最初は飲み物と軽食を。界理もそれでいいか?」
「うん」
「はい、承知したわ。ついでに聞くけど、二人とも年齢は?」
そういえば歳を伝えていなかった。
酒でも出されたら面倒だったから、アリアの気遣いは助かる。
「私が17。界理は19だな」
「あら、19なの」
アリアが目を丸くして、界理をじっくり見る。
界理はセーラーワンピースのスカートを掴み、しわにならない程度に引っ張っていた。
「あらあら、可愛らしいのね。ちょっと待ってて、ドリンクを出すから」
私達に背を向け酒瓶の並んだ棚へと向いたアリアは、一本だけ真っ赤に塗られたボトルに手を伸ばした。
アリアがボトルを反時計回りに動かした瞬間、ガコンという音が棚から鳴る。そこから起こったのは、少しばかり驚かされるカラクリだ。
棚の一部が回転し、裏にあった
「そうねぇ。遥は白のジュースかしら。界理くんの方は、19歳ならこっちを試してもいいかもね」
アリアが取り出したのは、二本の異なるボトル。
どう見てもワインにしか見えない。キャップシールとかラベルとか、どう見ても本物だし。なんならアリアの手には、ワインオープナーが握られていた。
まじかよこの女。年齢聞いておいて、二十歳未満に酒を飲ませる気か?
界理の横顔を確認すると、驚きで呆然としていた。そりゃそうなるよな。
「将来使うかもしれないから覚えておいて損はないわよ。コルクを抜くにはね……」
なんか急に解説しだしたぞ。
「キャップシールを剥がす時はナイフと親指は並行に。かなり力が必要よ。まあ後は、慣れね」
ペロリと舌を出しながらも、アリアは流れるような仕草でキャップシールを切っていく。
半円を描くように刃を滑らし、次は手首を返して反対方向に刃を走らせる。最後に手をを戻してもう一閃。一周分切られた場所から縦に切れ込みを入れ、刃をヒョイっと動かす。
手品のように綺麗な状態で剥がれたキャップに、界理が感嘆の声を漏らした。刃物には一家言ある私も、見事と認めざるを得ない。
「コルクの抜き方は、有名だから知ってるかしら?」
スクリューをくるくる回して刺しながら、アリアが聞いてくる。
私と界理は答えられない。目の前で起こる芸術に、意識を奪われていた。
「オープナーにフックがあれば、テコの原理で楽に抜けるんだけどね。私のオープナーにはついてないから腕力で引き抜くの」
スクリューを刺し終えたアリアが、左手一本でボトルを固定する。
そのまま右手でスクリューを引っ張れば、コルクが徐々に浮かんできた。
「これ、結構力がいるのよねぇ」
最後は大胆にも繊細に、力強くも巧妙に、コルクがぽんっと引き抜かれる。
私と界理は、小さく拍手を送る。アリアはウィンクを返してきた。
アリアはグラスを用意すると、ボトルから液体を注ぎ入れる。その姿すら、彫刻芸術のように完成されている。
半分も行かないまでに満たされたグラスが、界理の前に置かれた。
血のように赤く、ビーフシチューのように濃厚な香り。ゆらめく光は、まるでルビーの如き輝きだ。
美しい。私の感じる寒さの中でも、とろりと雫が光っているような——
と、そこまで考えて、私はツッコミを入れるために声を上げた。
「おい待て、界理は二十歳じゃないぞ」
「僕お酒はまだダメですってっ!?」
私達の重なった主張を受けたアリアは、楽しげに笑い出した。
笑い事じゃないぞ。二十歳未満に酒を出すな。営業停止にされるぞ。
「あははははっ、大丈夫よ。これはノンアルコールワインで、アルコール度は0.00%なの。分類としては清涼飲料水ね」
「ノンアルコールワイン? なんだそりゃ」
「ノンアルコールビールのワイン版。私が二十歳未満にアルコール出すわけないでしょう? あははっ、あーおかしい。二人とも可愛い反応しちゃって」
なんだろう。寒さとは別の原因で、殺意が湧いた。
てか、本当だろうな。
私は界理の前に置かれたグラスに指を入れ、液体をつける。指先についた液体は、反対の手の甲に塗りつけた。
そのまま目を閉じて、私は肌の感覚に集中する。
「遥、何やってるの……」
「アルコールが入ってるか調べてる」
「えぇ……そんなんでわかるの」
目を閉じて十秒、私は目を開ける。そして一言。
「これは、マジでノンアルコールだ。0.01%も入ってないぞ」
「遥って、たまに人類か疑わしいよね」
「あらまあ、女の子にそんなこと言っちゃダメよ。でも、怖いくらいかっこいいのは認めるわ」
好き勝手言ってくれる。
でもまあ、界理に飲ませられると確信できただけいいか。
アリアは界理のとは別のボトルを掴むと、先ほどと同じ要領で封を開けた。
界理よりも少し大きめなグラスに注がれたのは、淡い黄色味を帯びた液体。
月明かりにも似た色合い。向こう側が透けて見える透明度。だがワインというには甘い香りが強い。
「こっちは白のノンアルコールワイン。って言っても、界理くんのとは別物。早い話、ブドウジュースよ」
ああなるほど。だから甘い香りが強いのか。
「なんで私はジュースなんだ」
「だって遥、酸味とか苦味とか嫌いでしょ?」
当たりだよソムリエ。なんでほぼ初対面だってのに、嗜好がわかるんだよ。
相手の思考に潜れるわけじゃないよな?
「長く店をしてると、なんとなくわかるものなの」
本当に心読んでいるんじゃないかって思える。
「まあ、飲み物は来たな。それじゃあ界理、乾杯を——」
「あ、ちょっと待って」
私が界理とグラスを合わせようとするのを、アリアが止めた。
アリアは慌てたようにセラーを漁り、一本のボトルを引っ張り出す。
形状からワインボトルなのだろうが、一点だけ不自然な場所がある。注ぎ口にあるのがコルクではなく、金属製の部品なのだ。
「あったわ! あ、これは一度開けてあるから、保存の為にこのキャップを付けてるの」
こんな時でも解説を忘れない、サービス精神に感服だ。皮肉だよ。
キャップを外したアリアは、グラスを取り出して液体を注ぎ入れる。
界理に出されたものより、さらに濃い真紅。もはや血のようなではなく、鮮血そのものに見える。
誰が飲むのかと思えば、アリアは自分の前にグラスを保持した。
「何かしら。私だって乾杯したいのよ」
店がそれでいいのか。貸切だから別に文句はないが。
てかこの匂い。
「アリアさん……それってもしかして……」
界理も気付いたのだろう。私と界理のグラスにはない、鼻の奥に刺さる特徴的な刺激に。
アリアはふわりと笑って、当然のように言ってのけた。
「ええ、私のは本物のワイン。シャンボール・ミュジニーの2009年。グレートヴィンテージ。二人が可愛いから開けちゃったわ」
ワインの銘柄なんぞ知らん。グレートなんとかなんじゃそりゃ。開けた理由も意味不明だ。可愛いのは界理だろうが。私がコーディネートした天使の界理だろうが!
「ほら、乾杯しましょ。遥と界理くんのアツアツの未来に。私のお店の新常連さんに。乾杯よ」
「「乾杯」」
チリンと、私達三人はグラスをぶつける。
私が澄んだイエローを口に含めば、舌に滑らかな甘みが流れ込んだ。ジュースとは言っていたが、絡みつくようなしつこさが全くない。
吐き気は相変わらず込み上げてくるが、普段より苦労せずに飲み込むことができた。
一口目を味わった三人で、視線が絡み合う。
私達はなんとなく頷き合って、笑みを浮かべた。
「軽食は、オリーブを用意するわね」
「アリアさんありがとう。このワイン、美味しい。大人って感じがする」
「ふふっ、アルコールはきついから、二十歳になってからよ。遥はどう?」
「ああ、驚くほど吐き気がない。喉を滑るみたいだ」
「ちょっと、遥!」
「いいのよ。褒め言葉だって伝わるもの。気に入ってくれて嬉しいわ」
私は、今の時間を悪くないと思っている。
アリアから、寒さを感じている。死の気配が私を見つめている。私を害するイメージが脳裏に浮かんで、不快感が神経を苛立てる。
でも今の私は、アリアと普通の会話を交わせていた。
以前までなら、相手をすることもなかっただろう。
私とアリアの関係が良好なのは、界理がいるからだ。
私が凍えても、温めてくれる灯火が感覚を戻してくれる。そして界理が信じる人間なら、私も信じようと思うことができる。
だから私は、この状況を楽しんでいた。
変な気分になるくらい、楽しいを理解できていた。
(界理。
少し離れたテーブルの上で、トレミーが小さく鳴く。
そよぐような小さな鳴き声は、まるで私に肯定を知らせるかのようだった。
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