第19話 大欲有恋道
「前を隠してよ——————ッッッ!!!!」
そう叫んで、界理は両手で顔を隠す。
放り投げられたシャワーヘッドが、放水したまま床に落ちた。
界理の絶叫と硬質な落下音、水音が浴室にこだまする。
「は、遥には恥じらいとかないの!? 女の子なんだよ!?」
「医者に体見られるのと何が違うんだ?」
「僕はっ! 男の子っ!!」
プンスコっと足をバタバタさせる界理。可愛い。
私を見まいと、顔を必死に隠しているのがなんとも。可愛過ぎる。
こう、なんだろうか。私の中に未知の感情が生まれる。首まで真っ赤にして震える界理を、その……もっといじめたい。何考えてるんだろ私。
自分の思考に戸惑いはある。だが私は、自分からどうしようもない思いを感じているのだ。何がなんでも界理にイタズラしたいという、よくわからない衝動を!
「……ふっ」
私はニヤけと吐息をそのままに、界理へ一歩近づく。
界理の体はびくんっと跳ねた。
体の奥から、私の知らない喜びが湧いてくる。
「ふふっ……。どうしたんだ界理?」
「ひゅっ……」
二歩三歩四歩——あと二歩進めば、私は界理に触れられる。
無駄に広い浴室が煩わしい。だけど、その焦らしも不快ではない。
目の前にはプルプル震える界理。
古びた白樺の彫刻細工にような、細く傷だらけの矮躯。だが貧相とは思わない。尊く、可愛く、いじめたい。
私の脳裏に浮かんだのは、ミケランジェロのピエタ。
腕に抱く我が子より幼く見える、穏やかとも言える顔をした聖母マリア。幼顔の母に抱かれた、老いと責苦を感じさせるキリスト。
初めてピエタを写真で見たときは、別になんとも思わなかった。
ああけど、私は今の界理に一番相応しい例えだと思う。
19歳でありながら、少女の如き見た目。痩せ細った体躯に垣間見る、強い情熱。
そんなアンバランスさに、私はどうしようもないほどに惹かれている。
「あぁ……界理」
なんだろうか、呼吸が乱れる。
自分の視線が、界理の肌に吸い込まれる。
体が、もくもくと熱を持つ。
「かい、り……」
熱っぽい言葉と共に、私は一歩を踏み出す。
界理の体が硬直する。つま先なんてピーンと伸びているではないか。
見たい。
手に隠された界理の顔が、どうしても見たい。
抵抗しても無理やりどかして、その赤くなった容貌を見つめたい。
立っていては、真正面から見れない。私はゆるりと膝を折り、床に手をつけた。
四つん這いになった私は、にじり寄るように界理へ向かう。
焦る気持ちが喉から漏れそうになるが、喉奥を激しく流れる血潮が言葉を抑え込む。口から漏れるのは、熱されて荒くなった呼吸。
「は……はぅ……っ……」
未だ転がるシャワーヘッドが吐き出したお湯が、床を濡らしている。
私は、床に流れるのが本当にお湯なのか、自信が持てなかった。だって、お湯であるはずの水でさえ、私の体温より冷たく感じるのだ。
視界がチカチカと瞬くのは、世界が輝いて見えるのは、界理が浮き上がって見えるのは……何故なのだろう。
どうでも、いいか。
もう手を伸ばせば、界理の腕に触れられる。赤く傷ついた、苺みたいな肌に、私の、手が。
「あぁぅ……かい……り……」
「————ッ!! わああああああっ!!!」
つんっと私の指先が触れた瞬間、界理が声を張り上げて逃げた。
バスチェアを倒し、体を反転させて、私に背を向ける。
ちょっと、ムッとした。
そんなに慌てて嫌がらなくてもいいじゃないか。
「やばい……積極的過ぎる……胸痛い……見ちゃった……薄かった……スラっと……」
何やら界理が俯いてぶつぶつ言っているが、気にすることもないか。
ふふっ、鬼ごっこは終わりだ。
私は濡れた床を滑るように移動し、界理の背中を取った。
「あっ——!」
界理の艶っぽい声に、満足感が込み上がった。
昼間やられたように背中に密着し、顔を覆う手ごと私の腕の中に収めてしまう。
「ほら、捕まえた。もう逃げられないぞ?」
「や、やめっ……!」
頭を抱える腕をずらして、口元を塞ぐ。
耳元に口を近づけると、界理の体が一際強く震えた。
「私の時は、やめなかったくせに……」
ピキーンと固まった界理。もう、逃げることはないだろう。
「ふー……」
「ほんと……! はるか……!」
何を言っても無駄だ。早く顔を見せてくれ。
撫でるように界理の腕を掴み、掬うように動かす。界理からの抵抗は乏しく、私はほとんど力を入れなかった。
さあ、お前はどんな顔をしているんだ?
恥ずかしがっているだろうか。
泣いているだろうか。
それとも、熟れた果実みたいだったり?
「いいなぁお前」
恥ずかしいなら、もっといじめる。
泣いてるなら、涙を舐め取ってやる。
「見せてくれよ……お前の——」
「にゃああぁぁあああああっっ!!!!!!」
「なっ!?!?!?」
聞いたこともない叫声を上げた界理が、矮躯からは考えられない力で暴れる。
不意を突かれた私は、咄嗟に反応することができなかった。
ゴロンと二人して転がり、暴れる界理が私の拘束を逃れる。
「……………っ」
「……………ぁ」
気付いたときには私が仰向けになり、界理は私の上に覆い被さっていた。
界理の顔が、至近距離に存在する。表情が、頭に叩き込まれる。
真っ赤な顔は歪んでいて、泣きそうなのかと思った。でも目は爛々と輝き、何処か猛獣を思い起こさせる。荒い息遣いが大きく繰り返され、私の肌に当たって霧散した。
私は何もできない。することが許されない。
縛られている。界理か、それとも自分に。
呼吸が止まり、心音が遠くなり、血潮だけが沸騰したように流れる。
時間が止まった錯覚が、私の思考の活動を妨げる。
「はる……か……」
願い通り界理の顔は見れた。でも満たされなかった。
名前を呼ばれた。やっと私の体にナニカが積もる。
私の唇が、勝手に動いていた。
「ああ、私だよ界理。お前に……」
よくわからない。自分がどんな状況か、理解することができない。
ああでも、きっと——
「どうされても……」
——界理に何をされても嫌がれない。
「は……は……はっ……! うあああああああっ!!!!」
急に泣き出した界理が、跳ね起きて浴室から出て行った。
呆然と目で追うことしかできず、私は動けない。
しばらくして立ち上がった私は、鏡で自分の姿を確認する。
ぼうっとした、初めて見る私の顔。
なんとか、正常な思考が戻ってくる。
先ほどまでの、わけのわからない状況。自分を失った熱っぽさ。界理に身を任せようとした、理解できない感触。
「あ、あぁ……。〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!!!!!」
気付けば、鏡の横を殴っている自分がいた。
ドガンッ!! という音が浴室に響く。
(な、なななッ!? 何をしようとしていたんだ私はッッ!?!?)
悶える。転げ回る。頭を抱える。
結局私が冷静さを取り戻したのは、15分後だった。
「私はッ! 界理の体を拭こうとしただけなのにぃッ!!」
入る時持っていたタオル。界理の肌を傷つけないように、一番柔らかいものだ。いつの間にか床でしんなりしていた。
地団駄を行いたい心を宥めつつ、界理の後を追う。
「謝る……謝れば大丈夫……そうであってくれ……!」
希望観測を呟きつつ、浴室の扉を開ける。
なんとなく振り返った私の目に、凹みが映った。
鏡の横にある、ちょうど私の拳ぐらいの凹み。誰があんなことを……。
「すまん」
凹みから目を逸らした私が正面を向くと、ばさりと何かを投げつけられる。
「それでかくしてね。じゃなきゃ嫌いになる」
振り払おうとした私は、静かな声に動きを止めた。
よく見れば大きなタオル。
言われた通りに体を隠し、前を見る。
そこには、シャツだけを身に纏った閻魔が仁王立ちをしていた。
「か、かい」
「正座」
「あの、あやま」
「せ・い・ざ」
「はい」
にっこりと笑う界理は、これまでで最も恐ろしかった。
正座をした私に界理の雷が落とされるまで——一秒もかからなかった。
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