第18話 白肌水之前

 家事も終わって、僕もやることがなくなった。

 遥が握りつぶしたシャツ、アイロンでもなかなかシワが取れなかったなぁ。どれだけの握力があればシャツをボールにできるのか、僕はちょっとだけ怖くなった。ちょっとだから、本当にちょっと。

 実際、絶対僕に向けられない暴力なんて全く怖くない。

 まあ、そんなことはどうでもいいんだ。


(うわぁ、遥って胸がないから、下からでも顔が見えるや。口にしたら叩かれ……いや、遥なら気にしない?)


 暇になった僕がしているのは読書……のふりをして戦争だ。

 バカにぶカッコかわいい遥に気付きを与える為の、プライドを捨てた戦争なのだ。

 

(ちょっと頭を動かすんだっけ……遥の太腿、引き締まってるなぁ)


 戦場はソファ。

 遥は背もたれに体重を預けながら、犯罪心理学の本を読んでいる。

 僕はそんな遥の太腿を枕にしながら仰向けになって、読書の格好を作っていた。

 勿論、僕は本の内容など一切気にしていない。重要なのはさりげなく遥にアピールを繰り返し、僕を意識させ続けること。僕はそれだけの為に、思考の全てを使っている。

 これだけ可愛くて魅力的な女の子に膝枕をされて、ただ幸福を享受するだけで良いだろうか。いや、そんなはずはない。反語である。

 今こそ、恋愛小説より授かった叡智を使うときだ。


(あれだけ好き好きアピールしてくるんだったら、早く自分の気持ちに気付け!)


 僕の理性がどこまで持つかわからないぞ!

 そんな気持ちを込めて、僕は頭を遥の腿にぐりぐりする。あくまでさりげなく、頭の位置を直そうというていで。

 反応は……ない。

 不味い。さっきやりすぎたせいで、遥の感覚が麻痺したのかもしれない。

 首や耳周りが弱いのはわかっているのでそこを攻めたのだが、刺激が強すぎてドキドキするレベルが上がってしまったようだ。塩味の効いたものを食べた後、味の薄いものが物足りなく感じるあれと同じ。

 こうなってはニブニブ遥が難敵。攻略の難易度は爆上がりである。


(好感度は高いんだ。あとは本人が自覚さえすれば……!)


 いや、気のせいでなければ、遥も半ば自覚している風に見える。あと一歩というところ。でも恋愛弱者どころではない遥では、その一歩が果てしなく遠い。

 書庫に恋愛ものがあれだけあるんだから、知識は沢山あるはずなのに。


(なーんか、壁を感じる。距離も近い、好き好きオーラも十分……なのに変なところで怯えてる)


 遥は僕の頬をよく撫でる。でもそれ以上のスキンシップは、あまりすることがない。

 だから僕から近づいていたけど、なかなか進展しないんだよなぁ。

 これからは、遥からアピールしるように仕向けた方が良いかもしれない。


「どうすればいいかなぁ……」

「何がだ?」


 零れた独り言に、遥が反応した。

 視線を動かせば、目が合う僕と遥。

 遥の美貌は、相変わらずかっこいい。この顔が笑ったり恥ずかしがったりで可愛くなると思うと、なんだか頬が緩んでしまう。


「ちょっとね。難攻不落の城塞をもう一歩で崩せそうなんだけど、なかなか決め手がなくて。何が現状に足りないのか考えてた」


 僕の話を聞いた遥は、少しの間視線をずらした。

 瞬きが多くなっているから、僕の言葉を理解しようとしているのだろう。

 こうして考えてくれるのは嬉しいけど、それが悩みの種その人だと思うと変な気分だ。遥は僕の言葉を素直に受け取るから、こんな戯言にも付き合ってくれる。優しい。惚れる。もう惚れてるか。

 

「そうだな……」


 考えがまとまったのか、遥は視線を合わせて言葉を続ける。


「待てば良いんじゃないか?」

「待つ?」


 聞き返す僕に、遥は頷く。


「解決案がすぐに出るのなら、問題はないだろう。だが難攻不落の城塞なんて、簡単に糸口が見つかるもんじゃない。だったら、せめてマイナスを生まないように現状維持に努めればいい」

「でもそれじゃあ、勝てないかもしれないんだよ」

「短期的に見るな。長期的に見ればいい」


 『長期的』という言葉が、胸に沁みた。

 僕の為の言葉が、遥から続く。


「相手は陥落寸前。なら圧力だけ掛けて、時間をおいてみろ。城なら何もできずに、いずれ白旗を上げるさ。待つ間に名案が浮かぶかもしれないしな」


 だろ? と、遥はかっこよく笑う。

 遥の言葉を咀嚼し終わった僕の思考は、晴れやかに澄み渡っていた。


「……そうだね。うん、ありがとう」

「どういたしましてだ」


 悩みが薄らぐ。焦りが溶けていく。

 そうだよ、遥は逃げたりしないんだ。

 だったら、じっくり狙えば良いんだよ。

 じっくりゆっくり、音を上げるまで。

 僕という存在に身を委ねるまで。


(ふふっ、覚悟してよね、遥?)


 再び読書に戻った僕達。今回は、僕も本に意識を向ける。

 晴れやかな心に、紙の感触と整然とした文字が染み込んでいく。

 遥の体温を感じながらの、静かな時間。

 ああ勿体無い。さっきまでの僕は、こんな幸せに気付かなかったのか。


「………………」

「………………」


 ゆらるゆらる、時間が過ぎていく。

 ページが捲られ、息遣いが響く。

 時間が、後悔のない消費で消えていった。


「……ん? もうこんな時間?」


 部屋に流れるメロディで、意識が本の世界から呼び戻される。

 それはお風呂が沸いた合図。

 窓の外はもう薄暗くなっている。時間を確認すれば、6時30分を示していた。

 視線を上に向けて確認すれば、遥も少し驚いた表情をしていた。


「しまった。ご飯の準備してないや」

「なら先に風呂に入れ」

「そうだね。遅くなると、お風呂で着替えるのが面倒に感じちゃう」


 名残惜しいが、遥の太腿から頭を起こす。

 

「じゃあ、先に入らせてもらうよ」

「ああ、ゆっくり入れよな」


 遥はそう言って、僕の頬を撫でる。

 この行動にはどういう意味があるのか、今度聞いてみよう。

 着替えを持って、脱衣所に入る。

 脱いだ服はカゴへ。

 浴室へ入って、まずは鏡の前に立つ。


「うん、貧弱」


 細い四肢。浮き出た肋骨、水が溜まりそうな鎖骨。身体中の擦り傷。

 まあ、これが今の僕。

 まだまだ鍛えられる体力はついていないが、いずれは標準体型に戻りたい。

 バスチェアに座り、シャワーを出す。

 まずは肌を軽く洗い流す。傷に染みて少し痛いけど、仕方がない。

 と、僕が右足を流し始めたとき、脱衣所から音が聞こえた気がした。シャワーの音でよく聞こえなかったが、ドアが閉められるような音だ。


(遥? どうしたんだろ)


 少し疑問に思ったが、水が染みる痛みであまり考えることができなかった。

 なんとか痛みを我慢して、足を洗い終える。ちょっと時間がかかってしまった。

 さて次は腕、というところで、いきなり後ろの扉が開かれた。


「……え?」


 理解ができない。だが確認しなければいけない。

 ギギギっと、僕はぎこちなく後ろを振り返る。


「………………えっ??」


 引き締まった四肢。くびれているのに逞しく見えるウェスト。大理石のように滑らかで白い肌。女の子にしてはしっかりした肩。何より、その精悍な顔立ち。

 僕が振り向かせたいと思っている女の子——


「ま、ままままっ!!!」

「なんだ、どうした?」


 ——伽藍遥が真っ裸で立っていた。

 いっぱいいっぱいの僕は、混乱と混沌の中でただ一つを伝える。


「前を隠してよ——————ッッッ!!!!」


 ほんとなんで仁王立ちしてるのッッッ!?!?

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