ユーフォリア・ドリーム・シンドローム

有智子

君は幸せな夢をみて眠ることを選ぶのか

「後から思うよね、ああ、あの時が転機だった。あの時どうにかしてれば未来が変わっただろうにって」

 そういうのって、どうして真っ只中にいる時はわからないんだろう。彼女が呟く。

「現在って、どうしても主観的だから、無理なんじゃない。未来がどう転ぶかなんて、その時点でわかるほうがすごくない?」

「でもなんとなく、この選択って間違ってるかもしれないなーって予感する時ない?でもその時にはもう自分の中で、後戻りできないと思っちゃってるの。結婚式の前日みたいに。式場にいくら払ったかとか、キャンセルの手続きとか考えたら、もう決行するしかないって、悲愴に覚悟決めちゃうやつ。知らんけど」

 グラスに入った氷がからんと音を立てる。

 賑やかな店内で、肴を味わいながら、酔った客がさまざまに思いの丈を吐露している。彼女はまだ皿に残っている枝豆を手すさびに口に放り込んだ。枝豆って、絶対食べ終わらない気がする。そのためのおつまみなのかもしれないけど。

「で、終わってしまってから気づくんだよね。あそこで引き返しておけば、まだ間に合ったのかもって」

 結婚を控えた女友達が、幸せだけど、本当に彼でいいのか不安になる時があるの、と言っていたのを思い出す。安全だと思って選んだ道の方に不安を感じるなんて、人間って矛盾に満ちた生き物だ。外野から言わせれば、その時点で100%の確証のある選択なんてないと思うけど。ただその時最善と思う選択肢を選ぶだけだ。

「それがエイリアン・イヤー?」

「そうだよ。人類はあの年に、間違ったと思うね」

 彼女がはあとため息をつく。


 そのウイルスが最初に発見された時のニュースを覚えている。勤め先の会社のエレベーターホールに設置された液晶パネルの時事一覧の中。とんでもない速報として、ゴシック体がひときわ大きく太字になっていた。もし戦時中にテレビがあったら、多分あんな感じで、ミサイル発射とか、報道されるに違いない。わたしはそれを見るまで、こんな風に世界がまるっきり変わってしまうことになるなんて思ってもみなかった。ただ予感がした。これから自分が、得体のしれない未来に吹っ飛ばされる予感が。


 エイリアン・イヤー。

 ひとりの地球外生命体が発見された。

 たった一体。いわゆる未確認飛行物体を以て地球に着陸した。ものすごく高度な知的生命体で、人間の言葉を解し、自らの姿を人間に近づけられるという。事実は小説より奇なりというが、まるでよくできたSF小説のような事実に、人々は熱狂した。ニュース番組は連日この話を報道していたし、国家が動いた。総理大臣は宇宙開発事業への投資を倍にするといって、国際宇宙開発機構へは連日インタビューが行われていた。地球外生命体に関する本が瞬く間に出版されてどんどん売れ、誰もが人の到達しえない高度な文明に対する恐れと好奇心に沸き立っていたように思う。

 わたしたちが彼の姿をテレビで見たのも間もなくだ。

 ご丁寧に「人類との見分けがつくよう」なぬめっとした緑色の肌をしていて、ちょっと映画の「アバター」っぽいぬるっとした骨格だったが、ちゃんと頭と体と四肢があり、二足歩行していた。造形は欧米人に似ていて、スーツを着用し、一瞬女性かと錯覚するような肩までの長いブロンドの髪もあり、もっと異星人っぽい感じだったらきっともっと説得力があったのに、と拍子抜けするくらい、あっけないほど人類に似せていた。ハリウッド映画の特殊メイクなんかで、やろうと思えばできるんじゃないかと思えるような。彼いわく、彼が地球に到達して最初に遭遇した人類である、ハリー・アンダーソン氏の容貌を参考にしているらしい。たしかにワイプで出てきたどこぞのハリー・アンダーソン氏に似ていた。ただ目のつくりが人類とは違うらしく、ずっとサングラスのようなものをかけていた。見える世界が違うからだと説明されていた。

 彼は若干機械音声にも似た、流暢な英語を喋った。人類に対して非常に好意的で、インタビュアーに対し、このような知的生命体が存在する惑星を見つけたことに非常に感銘を受けていると答えた。我々は、目の前で本当に異星人が存在して人語を喋っているという歴史的瞬間に立ち会えたことに沸いた。地球人として生まれて、こんなことがあるなんて、多分何十億年昔の存在たちには、思い及びもしなかったに違いない。


 異変はそれからほどなくして起こった。

 著名な宇宙飛行士や、国家元首、物理学者などが高熱を出して倒れ始めた。コロナウイルスのパンデミックが記憶に新しい人々は、またも新たな変異体が現れて猛威を振るい始めたのではないかと恐々とした。

 その頃は日本でももうマスクは不要になっていて、インフルエンザと同じような扱いになっていたものだから、わたしも居酒屋でその話を耳にして、また飲めなくなるの嫌だなあ、と愚痴ったのを覚えている。今は一箱数百円払えばドラッグストアで買えるマスクが、供給が足りなくなった時のあの恐慌はすごかった。わたし自身も海外から一箱三千円くらい出して取り寄せたことがある。経済が回らなくなり、人々が疲弊し、隔離され、ぽっかりと穴が開いたようなあの数年間がまた訪れるのかと思うと、うんざりした。それでもまだ、医療の発展のおかげで、いつかはそれも終わるに違いないとどこか楽観的に考えていたくらいだ。

 ところが高熱に倒れた人々は一向に目覚める気配がなかった。生きてはいる。生命活動を脅かすような、重篤な症状は出ていない。ただ、高熱が出て、目を覚まさないという。大国では副大統領が臨時を務め、大会社の社長は姿を現さなくなった。宇宙開発の話はまったくニュースにならなくなり、同様に異星人の話も報道されなくなる。不安に怯える人々の街頭インタビュー。目を覚まさなくなった配偶者について語る主婦の映像が連日流れるが、その人もまた入院したと報道される。

 異様だった。

 あんな風に情報が少しずつ無くなっていくと、不安は増大するのに、でもニュースにはなっていないというだけで、人々は少しずつ関心を失っていく。身近な人が感染したらしいというまことしやかな噂だけが流れ、だんだんバラエティに顔を出さない芸能人が増えていく。この人、誰の代わりだったっけ?と聞いても、誰もがすぐに名前が出てこない。ニュースキャスターが入れ替わる。多分みんな、高熱で眠っているんだ、と暗黙のうちに了解する。それを、受け入れるようになる。


 運命の日は、残酷なほど実にあっけなく来た。

 高熱が出て、目を覚まさなくなる、風邪に似たウイルスが発見された。感染力が強く、このままでは世界中で病床が不足する可能性があり、国家レベルでの対応が必要となる。世界的機関の声明。

 そのウイルスは、例の異星人からもたらされたものだった。

 異星人の彼にとっては別段何の支障もない常在のウイルスが、一切の抵抗力を持たない人間に対して牙を剥いたのだ。


 それからは雪崩のようにすさまじく、SNSではアンチ異星人の人々が、一刻も早く地球から追放すべき、殺してしまえと過激な言葉を並べ立て、しかしながら異星人に直接言葉を向けることのできない人々の悪意は、その矛先を探しまわり、ニュースの報道ひとつにさえ罵詈雑言が寄せられた。

 この件に関して異星人は会見など開くことはなく、今どこで何をしているのかさえ一般人には知らされなかった。蔓延させてしまったことに対する責任を取って実験されているのだとか、とっとと地球を抜け出して故郷の星へ帰ったのだとか、研究施設の目をかいくぐって人々に紛れ込んでいるに違いないとかの憶測が飛び交った。なにしろ姿形は変幻自在だと聞いているので、人々の疑心暗鬼も相当なものだ。飼い犬に緑の斑点が現れたと思い込んで撲殺したとか、頭がおかしくなった男が異星人が学校に忍び込んだといって銃を乱射したとか、そういう物騒なニュースも流れ始めた。

 どうしようもない。マスクと手洗い、うがいをしましょうと再び世の中でさかんに叫ばれるようになったが、一度かかってしまえば目覚めないという事実により、絶望的なムードが高まった。直接彼とかかわった人々から、感染者、感染者を診た医療関係者、そして一般の人々へまで、病は伝染していく。人々は大陸から逃げ出し、なるべく人のいない僻地を目指した。


「結局、彼はどこに行ってしまったんだろう」

「さあね。今頃ほくそえんでるんじゃない?人類が滅亡しかかって」

「でも、人間だって悪気なく農薬散布して、生態系ぶっ壊したりするでしょ」

「じゃあ、エイリアンも、悪気なく地球環境ぶっ壊して、やっちゃったーって思ってるかもね」

 にこやかに人類に語り掛けたあの歴史的なスピーチを思い出す。

「もしくは、こうなることを望んでやってきたのかもよ」

「えっ?」

「人類を使った壮大な実験とか」

「それにしては、短慮な気もするけどなあ」

 何十億年もかかって進化を遂げたせっかくの環境を、一瞬で消滅させることはないだろう。

「わかんないよ。エイリアンにとってはこれが、人類のための望ましい終わりなのかも」


 かかった人間が目覚めなくなるというその特性のため、対策は遅々として進まなかった。何事にも後手の対処しかできないこの国では、トップさえ右往左往するうちに感染してしまえばいいと思っているかのようだ。責任を逃れるために。

 そして感染した患者を収容できる場所は圧倒的に足りなくなった。目覚めないのだから、当然放置すれば死んでしまう。24時間体制で患者の健康状態をチェックできる医療機関はそうなく、そうした環境を整えることは急務となった。看護師も医師も、エッセンシャルワーカーと呼ばれた人々はゾンビのように働くことになった。AIによる管理病棟という構想が練られ始めたのもこの頃だ。


 それがいつから囁かれはじめた噂なのか定かではない。

 あるいは、あまりにつらい現実から目を背けるために、神や仏に縋るようなものだったかもしれない。

 感染者が目覚めないのは、幸福な夢を見ているからなのだと聞いた、という人が、ちらほら現れはじめた。現に感染者たちは、毎日眠っているだけのような穏やかな顔をしている。奇跡的に回復し眠りから覚めた人が、いつまでも眠っていたいほどの幸福な夢の中にいた、と証言したというネットニュースが出回った。

 どうせ陰謀論の類だと思っていたが、昏々と眠り続けているはずの大統領と総理大臣とが、ハワイの海岸から笑顔で手を振っている映像が飛び出した。アメリカの有名大の研究室で、かねてより取り組んできた夢を解析する実験に成功し、眠っている人々の意識にアクセスできるようになったのだ。奇妙なことに、まるで仮想現実にトリップしたかのように、人々は同じ夢の中に生きていて、認識を共有しているらしい。彼らは陽気で、一切の負の感情から解放され、世界は平和で満ちていた。夢の中の世界は。

 現実は戦争みたいに日々、満員の病床から阿鼻叫喚の報道が続いている。


「わたし、明日から僻地班なんだ。だからこうやって飲めるのも最後だと思う」

 彼女はそれまでのトーンから一転した暗い声でそう言った。

「いつまでも生身でいたかったけどねえ。酒がうまいし」

「え、そうなの?」

「そう。わたしたちはウイルス汚染への対抗策で、真っ先に義体化がすすめられたじゃない?義体だけ先に運んでおけばどこでも行けて便利だけど、義体の間は酒とか飲めないから渋ってたんだよね」

「じゃあ本体は置いていくんだ」

「そうそう。なんか地下にね、本体だけコールドスリープみたいにして、意識だけ飛ばすんだって。義体もさ、何体も用意されてるらしくて、もう損傷するとか考えるだけで嫌なんだけど。なんだっけ、テセウスの船みたいだよね。元に戻った時のわたしは……本当に元のわたしなんだろうか?」

 すみませーん、と店員に声をかけて、同じグラスをもう一杯頼む。

 この居酒屋は、ほとんどが義体化済の人間ばかりだからか、幸福な夢ウイルスにかかる心配もなく、誰もかれもが安心して接触していた。店自体もそういう売り文句で営業していたように思う。品揃えも豊富で、いわゆる我々界隈の御用達だ。

「ねえ、いっそ、ウイルスにかかって、死ぬ側になった方がよかったかもね。こういうのなんていうんだっけ?自分もそっち側にいきたいみたいなやつ。幸福な夢の中で、未来のことなにも心配せずに」

 彼女がとろりとした目でわたしを見た後、運ばれてきたグラスの中の濃い液体をうっとりと眺めた。

「結局現実を直視することのできる人だけが取り残されるんだろうね」

「君やわたしみたいな?」

 結局、ただその時最善と思う選択肢を選ぶだけしかできなかった。

 多分いまも。どうして真っ只中にいる時は、わからないんだろう?

「つらい現実の中で生きられる人だけが取り残されるんだよ。エイリアンはきっと、そういう人だけを探したんだ」

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