太陽の音を忘れない

増田朋美

太陽の音を忘れない

その日も大変暑い日で、なんだかどうも今年の夏は災害レベルの暑さとか言うそうであるが、それでも日常生活は途切れることなく続いているのであった。そしてこういう季節になると、必ずやってくるものが台風とか、大雨とかそういうものである。ちょうどよい夏というのは何処かへ逝ってしまったようだ。

その日も、杉ちゃんとジョチさんは新しく来た利用者と面接をしていた。新しい利用者は、珍しく男性で、何でもカールさんが製鉄所を紹介したという。

「いやあびっくりしました。カールさんがこちらへ利用者を連れてくるとは。一体何があったんですか?」

ジョチさんは驚いた顔で言った。

「あのですね。来週から精神科に入院するそうですが、死ぬ前に一度着物を着たいといって、うちの店に来た子です。着物を買いに来るのであれば、入院する必要もないんじゃないかなと思ったので、連れてきました。」

と、カールさんは状況を説明した。

「日本の精神科は、一度入るとなかなか出てこれないと聞いたから。それでは可哀想だと思いましてね。」

「そうですね。二三年はいっていた程度では、超短期入院だという話も聞いたことがありました。」

ジョチさんはそういった。

「それで、彼はどの様な症状で精神科に行ったのでしょうか?」

「ええ、何でも、ご覧の通り、誰とも口を聞こうとしないのです。特に家族とは、一切言葉を交わしていないと聞きました。一応、首を縦にふるか横にふるかのコミュニケーションはできますからね。それがなぜなのかはわかりませんが、精神科に入院させて、社会的入院になるのもなんだか可哀想だなと思いましてね。」

「そうですか。死ぬ前に一度着物を着たい、ですか。しかし彼はなぜ、周りの人と口を聞こうとしないのでしょうね。そこが分かればこちらも接し方とかつかめるんですが、なにかご存知ないでしょうか?」

ジョチさんがそう言うと、カールさんはそれはわからないといった。一方杉ちゃんの方は、おい、お前さんの名前はなんていうの?なんて彼にちょっかいを出している。確かに彼は何も反応もしない。

「せめてお名前だけでも名乗って貰えないかな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「塩川健作。」

と彼は言った。

「何だあ、言葉は言えるじゃないか。きっと何事もやる気が無くて、それで口が聞けなくなったんだろう。まあな、病院よりこっちのほうがのんびりできてより休養できるってもんよ。保証してやるから。」

杉ちゃんはそう塩川健作さんに言った。

「しっかし、古臭い名前だな。」

「人の名前にそんな事を言ってはいけませんよ。杉ちゃん。それより、この製鉄所にいられる意志はありますか?」

とジョチさんは聞いた。

「はい。もう何処にも居場所がないから、こちらの呉服屋さんの言うことに従おうと思います。」

と、彼は言った。

「居場所がないか。お前さんは何処か勤めていたの?それとも家の中にずっといた?あるいは、学校へ行っていたとかそういうやつか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「いえ、家の中にずっといました。勤めていた経験はありません。いくつか仕事に応募しようともしたんですけど、全く採用されなくて。それでもう自分は世の中から必要ないと思ったので、自殺することにしたんです。」

と、彼は答えた。

「はあ、なるほどねえ。そういう気持ちにもなるわなあ。それで親御さんがお前さんに死なれちゃたまらないってことか、あるいはそういう事を言われ続けても迷惑だから消しちまえっていうことで、お前さんを精神病院に送り込んだんだろう。どっちが優先ってことでもないよな。多分家族だからどっちにもなれないんだよね。そういう曖昧な態度だから、家族に精神関係を解決させることはできないんだよ。」

「そうですね。僕も、たしかにこの製鉄所の利用者の方々の話を聞いて、そう思いました。ご家族だから、できることもあるけれど、できないことのほうが多いんです。それは、たしかにあると思います。」

杉ちゃんとジョチさんはお互いにそういう事を言った。

「まあ、そういうことだからさ、当分はこっちに通ってさ。ちょっと気持ちを和ませてそれから次のことを考えればそれでいいんじゃないかな。少なくとも、死にたいという気持ちには賛同することは出来ないからね。」

「そうですね。とりあえず、ここに居るときは何でも好きなことをしてくれて構いませんので、穏やかに過ごせるように頑張ってください。」

杉ちゃんとジョチさんはそう言って、彼を食堂へ案内した。カールさんはよろしくお願いしますと言って、製鉄所を出ていった。

そういうわけで製鉄所にはまた会員が増えた。それはいいことなのかもしれないが、いずれにしても塩川健作という会員は、問題の多い会員なのかもしれなかった。まず初めに、製鉄所に居ることはいてくれるのだけれど、文字通り何もしないで、漫画ばかり読んでいるのである。それに笑おうと言うこともないし、漫画を読んでただ時間を無駄にしているようにしか見えないのだ。最近の漫画というのは、ただのくだらないアクション漫画ばかりではなくて、社会問題を描いたものも存在するのであるが、塩川健作さんが読んでいるのは、いわゆるギャグ漫画みたいなもので、読んでも何もためにならないと思われるものばかりだった。それと同時に周りの人に関心を示すこともなかった。杉ちゃんが和裁を近くでやっていても何も反応をしなかったし、水穂さんがピアノを弾いていても、反応をしなかった。ジョチさんが心配になって、

「あなたは、周りの人が何をしていても、どうしたのかなとか、何をしているのかなとか、そういう興味は無いのですか?」

と聞いても、

「そんなもの、はじめからありませんよ。そんなもの持ってたって無駄になるだけではありませんか。」

と、答えるだけであった。

「では、誰か良くない人がいても、無駄になるということですか?」

ジョチさんが聞くと、

「ええ、無駄なだけです。どうせ、いいことしても褒められるわけでなし。成績のいい人に取り上げられるだけで、何も意味を持たないでしょう。それなら、はじめから、いないほうがずっとマシです。」

と、彼は答えるのだった。

「でも、そうやって他人に関心を持たなくても、なにか困ったことがあったときとか、誰かに助けて貰わなければだめなときもありますよね。」

ジョチさんが聞くと、

「ああ、人に聞く必要なんて無いんですよ。知りたいことは、スマートフォンで調べればみんな聞けるでしょ。それで大丈夫ですよ。」

と、健作さんは答える。

「それでは、あなたは、この世界一人で生きていけるとお考えですか?」

ジョチさんが聞くと、

「ええ、成績が良ければ十分に生きていけます。でも、成績が良くないと支援を受けられなくても何もされませんで、ほっぽらかしにされるだけです。だから僕ももう消えてしまいたいんですけど、それはいけないと止められる。なんででしょうかね?子供のときは、あんなに、なんでこんなに成績が悪いんだ、こんな子うちの子じゃない、出て行けって怒鳴られたんですよ。実際に出ていこうとしたら、つまりこの世から消えようとしたら、そんな事しないでってまるで頼み込むように、言うんです。嫌だって言ったら、精神科に入れっていうんですよ。全くおかしな人達ですよね。まあ、僕も、いずれは、電車にでも飛び込もうと思ってますけどね。それが僕が出す答えですよ。成績のことしか言わないで僕が何かしたくてもさせてくれなかった、人たちへの。」

と、彼は言った。ある意味、これを解決するのは非常に難しい事かもしれなかった。少なくとも、家から出て、製鉄所に来ているということだけでも、救いかもしれなかった。

「そうなんですね。わかりました。そんな思いしかしてこなかったら、誰だって世の中嫌になりますよね。」

不意に、水穂さんが現れてそういう事を言った。

「無理しないでいいですよ。それがあなたの出した答えなら、そうなっても仕方ないと思います。あなたはおそらく、新しい生きがいが見つからないと立ち直ることはできないでしょう。ですが、今の家庭環境では、見つけられないと思いますよ。そういうことなら、はっきりと親御さんに死にたいと言ってもいいのではないでしょうか。そうでもしないと、変わってくださらないんじゃないかな。」

水穂さんは優しくそういう事を言った。

「それはご冗談でしょう?あなただって、本当は、死んでは行けないといいたいんだ。だけど、それを言うのは、恥ずかしいから、そういう綺麗事を口にされるんだ。それなら、そうおっしゃって、カッコつけないでもらえますか?変に善人ぶって、かっこいいことを言う人間が一番嫌いです。」

健作さんがそう言うと、

「いえ、僕は、そういうことが言える立場ではありませんが、あなたは違います。」

と、水穂さんは言った。

「それはどういうことですかな?」

健作さんがわざとらしくそう言うと、

「ええ。僕は、あなたよりも低い身分の人間だからです。」

と水穂さんはきっぱりと言った。

「何を言っているんです。そんな事あるわけないじゃありませんか。あなたは、あれだけピアノが弾けて、それに周りの人からも慕われている。それなのに身分が低いなんてあり得ることじゃないじゃありませんか。身分が低いだなんて、あり得ない話をしないでください。自分のやることをやれる人間は成績が良くて、僕たち悪い人間の犠牲の上で好きなことができるという事を知らないから、そうして生活できるのでしょう。それを、低い身分の人間がやっているなんてありえない話です。」

健作さんは、驚きを隠せない様子で言った。

「いえ、身分の低い人間もこの世にはいます。成績が良くても悪くても、低い身分の人間は一生そのままです。それを飛び越えようとするから、人生がおかしくなるんです。あなたは、それに気がついているからいいじゃありませんか。僕は、あなたぐらいの年で、そういう事は気が付きませんでした。今思えば、あなたのように成績が悪かったら、こんなふうに生活していることも無いかもしれませんね。」

水穂さんは、そういったのであった。健作さんは変な顔をする。今までの人間がしでかしてきた反応と全く違うということを表したかったのだろう。

「そのうち、あなたもわかると思いますよ。成績も学校も社会的身分のようなものだけど、それを違う解釈で通せる人と、通せない人がいるってことをね。そして、身分の低い人間は誰からも愛されないし、必要とされることも無いんですよ。愛されるには、条件があるってことは、よく知っていると思うけど、それさえもクリアできない人間も中にはいます。」

水穂さんは優しく彼に言った。彼のことを叱ろうとか、なんとかしようとかそんな事はない様子だった。健作さんは一体どういうことだという顔をしながら、漫画の続きを読み始めたが、先ほど水穂さんに言われたことが気になって、漫画の内容は頭に入ってこない様子だった。

それから数時間して、お昼の時間になった。お昼ごはんを作るのは杉ちゃんの担当だ。杉ちゃんという人は、食事を作るのが一切苦痛にならない人のようで、いつも楽しそうに料理をしている。健作さんはそれがなんだか不思議だった。自分が自宅にいたときは、家族はみんな料理が嫌だとかそう言っていたのに。

「よし!ご飯ができたぜ。みんなで食べよ。」

杉ちゃんがそう言うと、利用者たちも食堂に集まってきた。今日のお昼ごはんはひじきご飯と焼き魚定食であった。みんな暑い暑いと言っていながらもご飯をよく食べるのは、若くて元気だからというせいでも無い。中には薬が強すぎて食欲が増してしまうという人も居る。そういう人は、ご飯をろくに噛みもせず飲み込んでしまうのですぐわかる。

「ほら、そんなふうに食べちゃだめよ。ちゃんとご飯は味わって食べなさいよ。」

世話好きな利用者が、彼女にそう言うが、彼女はその時はごめんなさいというのであるが、それでもやはり丸呑みにするように食べてしまうのだった。健作さんは、水穂さんが、皆と一緒に御飯を食べない事に気がついた。そこには杉ちゃんもいない。利用者の一人が、水穂さんに食べさせて居るのよ、なんて言うのだが、それもなんだか他人事みたいで、水穂さんの事を心配しているわけではなさそうだった。

それと同時に、食堂の隣の部屋から激しく咳き込む声がした。利用者たちは、ああ、水穂さん、またやってるんだと言った。それと同時に、馬鹿な真似はよせと言う杉ちゃんの声も聞こえてきた。奥では一体何が行われているのやら、健作さんはちょっと気になって、四畳半のふすまに手をかけてしまった。

「あ!」

思わず健作さんが叫んだのと、水穂さんが咳き込んで内容物を出したのはほぼ同時であった。内容物というのは朱肉のような真っ赤な液体で、それは、畳を偉く汚した。

「もう勘弁してよ。畳代がたまんないよ。せめて、もうちょっと食べるとかしてさ、なにか体力つけようよ。全くこんなに汚してどうするの。」

杉ちゃんの声がそう言っているが、車椅子の杉ちゃんには畳を拭くことはできないのだった。健作さんは、すぐに四畳半に飛び込んで、枕元にあった雑巾を見つけ出して、汚れた畳をふこうとしたが、フローリングではないので、雑巾の水分が、畳に染み込んでしまい、余計に汚してしまった。健作さんは、杉ちゃんに思わず、

「どうしてわざわざ、汚れるような事をされるのですか?お医者さんに見てもらって、ちゃんと見てもらうべきではありませんか!」

と、言ってしまった。

「いやあね、そういうことができる人では、無いからね。」

杉ちゃんは、ボソリと言った。

「でも、今の時代であれば、抗生物質とかそういうもので、すぐになんとかできるんじゃありませんか。」

健作さんがそう言うと、

「いやあ、そいつは無理だ。水穂さんを病院に連れて行っても、銘仙の着物着ているやつはお断りって、追い出されるだけだよ。僕らは、それを何回も経験した。それで、水穂さんを同じ目にあわせたくないんだ。だから、ここで面倒を見てやっているんじゃないか。」

と、杉ちゃんが言った。

「医者なんてさ、自分の実績になったり、自分の名を挙げられるような患者さんだったら、喜んで見てくれるんだけどさ。こいつみたいなひとは、見てくれないの。偉い医者ほどそういう態度取るから、僕らは、そういう事はさせたくないんだよね。お前さんもそれはわかるんじゃない?だから、病院に行けって言われちゃうくらい。」

「はい、たしかにそれはそうですね。」

健作さんは、自分が診察を受けたことを思い出していった。

「僕も精神に障害のある人の話は聞くなと言われたことがあります。だから、それでつらい思いをしたこともありました。それは僕だけじゃありません。他にも、そういう思いをしている人はたくさん居るんじゃないでしょうか?」

「なんでそう思うんだ?」

と、杉ちゃんは彼に聞いた。

「だって、僕も成績が悪くて、冷たく扱われた事があるから、水穂さんにそれを伝えたかったんです。そして、水穂さんが一人ぼっちでは無いって伝えたかったんですよ。」

「ふふふ。心のやさしい男だねえ。」

杉ちゃんは彼の顔を見て言った。

「そういうところが、お前さんの一番の長所なんじゃないの?そこを伸ばして、頑張って生きる手段にしてみたらどうなんだ?」

「そう、、、でしょうか?」

健作さんは困った顔で言った。

「ああ、僕はそう思うよ。それができるやつはそうはいないぜ。それに、成績で差別された経験のないやつにアドバイスされるより、当事者からアドバイスされたほうがよほど良いって知ってるのも、お前さん自身じゃないの?」

杉ちゃんに言われて、健作さんは、

「そうですか。人生で無駄な事は無いって本に書いてありましたけど、本当なんですね。」

と言ったのだった。

「本っていうより言葉だよねえ。なんていうのかな、人間、無駄なやつは何処にもいないと胸張って言える国家が本当に幸せな国家だと思うよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。一方、水穂さんの方は、杉ちゃんに飲まされた薬で眠ってしまっていた。健作さんは、水穂さんの口元を、ティッシュペーパーでそっと拭いてやった。その間、杉ちゃんも何も言わなかった。ただ静かに、水穂さんが眠っている声が聞こえてくるだけである。

「あの、塩川健作の母ですが、健作がこちらでお世話になっていると聞いたものですから、連れ戻しに来ました。健作は、来週精神科に入院することになっていまして。」

と、玄関先に中年の女性が現れた。それに応答したジョチさんは、

「いいえ、健作さんは、きっと、ここで新しい何かを見つけるはずです。入院すると、それを発見できないまま、一生を終えてしまう可能性もあります。医学的に援助が必要というわけではなくて、健作さんが、安心して世の中の一員だと言える居場所を作ってやってください。」

と、彼女に言った。彼女はそれはどういうことだという顔をしてジョチさんを見たが、

「ええ。きっと社会的に居場所が見つかれば、現実世界は漫画の世界より面白いんだってことがわかるんじゃないかと思います。だから、精神科に隔離してしまわずに、ここにしばらく通うようにさせてやってくれますか。もし、トラブルが起きたとしても、彼自信がなんとかできるようになれると思いますよ。彼は、きっとそういうことができる人間ではないかと思います。」

と、ジョチさんは、そういったのだった。

「そうですか。でも私達、いつまでこんな生活をしなければならないのでしょうか?」

お母さんが嫌そうにそう言うと、

「いやあ、やまない雨は無いと言います。いつかは太陽が輝く日も来るんじゃないですかね。それは、遅い人と早い人といるんでしょうけど、僕はこの製鉄所という福祉施設の管理人をやらせてもらって、そういう日が来ない人はいないなと思いました。」

ジョチさんは、そうにこやかに笑っていった。お母さんは、嫌そうなでもそうありたいと言いたげな複雑な顔をして居るが、とりあえずジョチさんの言うことを聞いて、

「わかりました。」

とだけ答えたのだった。





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太陽の音を忘れない 増田朋美 @masubuchi4996

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