第6話 成就
カンカンに照りつける日差しが少し弱まってきた夏休み明けの九月。
部活を終えて音楽室から立ち去ろうとすると、突然先生に呼び止められた。
「あのね、鈴木さんにこれ渡しておきたいんだけど……」
「え、楽譜? 私、文化祭のやつならもう受け取ってますよ」
「ううん、文化祭のじゃなくて」
夏休み中一回だけ来なかった日があったでしょう? その時に渡す人には渡したんだけど。
そう言ってぺらりと渡された楽譜の右上には「浜江市農業祭での発表用」と書かれており、私は小首を傾げた。
去年こんなのやったっけ? それとも私が忘れているだけだろうか。
そんな私の心の中の疑問を読んだかのように、先生が自信満々で仰け反りながら話し始める。
「部員数が減ってきてるからね。地域のお祭りなんかでもどんどん発表してって、これからはなるべく多くの人の目にとまるようにしていきたいなって思ったのよ」
それを聞いて、私はああ、あのことかとすぐに納得した。
先生は前々から部員の少なさに悩んでいたこともあり、新入部員獲得のために影で何やらやっていたという噂がたっていたのだ。私が聞いた限りでは、賄賂を渡すだとか、宿題の量を減らしてくれるだとか勝手なことを言われていた気がする。それがまさか、なかなかの規模のお祭りで演奏を披露することになるとは。
かなり頑張ってくれたらしい先生に、心の中で変な噂を面白がって聞いていた私は目を合わせられず慌てて楽譜に視線を落とす。
まあ、うちの顧問は抜けているところがあるので、本人は噂されていたことすら気づいていないだろうが。
しばらくすると先生の会場の説明や時間についての長い説明が終わり、帰り支度をし始める。話が長くて最初の方はもう覚えていないのだが、きっと当日が近づいてくればもう一度説明があるだろう。
時刻は六時を指している。もうこの時間帯になれば音楽室に残っている生徒は当然おらず、楽器の音で溢れていた部屋はしんと静まり返っていた。
数枚の楽譜を専用のファイルへ丁寧に収めていると、そういえば先ほど先生が言った言葉の中で、一つ引っかかったものがあったのだと思い出した。
「先生。渡す人には渡すって、これ全員で出るんじゃないんですか?」
用が済んだ先生が立ち去ろうとするその背中に、そんな疑問をぶつけた。もしかして、と高ぶる心には蓋をして、冷静を装いながら返答を待つ。
先生は一瞬キョトンとした顔を浮かべると、ああ、と右の手のひらで左手を打ち、わざわざ体をこちらに向けて話し始めた。
「これ、先生が選んだ人しか出てないのよ。全員出したかったんだけど、ステージがそんな広くなくてね。もうちょっとデカかったらみんな入れたと思うんだけど……ってヤバい、この後会議あるんだった。じゃあ、気をつけて帰ってね!」
「あ、はい」
いつもは廊下は走らないと注意する側の先生が、それだけ言うと猛ダッシュで駆け抜けていく。その様子を突っ立ったままぽかんと見つめていると、じわじわと実感が湧いてきた。
私はあの天才たちが集う中で、先生に選ばれたのだと。コンクールほど規模は大きくないものの、平凡な私はようやく人前で演奏できるようになったのだと。
一人音楽室に取り残された中で、私は小さくガッツポーズをする。
地面を赤く染める夕日に優しく照らされながら。
気づけば私は走っていた。走って、坂を下っていた。
一刻も早くこの事を伝えたくて堪らない気持ちを足に込めると、走る速度は加速する。途中で何度も息がきれたが、それでも構わず私は急いだ。
膝に手を付きながら息を整え、ようやく着いた目的地の扉をゆっくり押し開ける。ふんわりとコーヒーの良い香りが鼻孔をくすぐった。
「えっ!? 優香ちゃん、何でこの時間帯に……ってか、何でそんな汗だくなの!?」
「ちょっと走ってきた」
「はぁ? 何でまたこのあっつい中を……」
笑いながら答える私に、氷室さんは呆れて腰に手を当てる。私のあまりの汗のかきように、心配してタオルを持ってきてくれようとした氷室さんを引き止め、今はそんなことよりも何よりも大事なことがあるのだと私は深呼吸を二回繰り返して、眉をひそめる彼女にようやく告げた。
「浜江市の農業祭で演奏するメンバーに選ばれました!」
私の言葉に氷室さんの目がみるみるうちに大きくなっていく。次第にその目からは一粒、また一粒と涙が頬を伝っては床へシミを作る。
さっきまで眼球は乾ききっていたのに、突然泣き始めた氷室さんに私がうろたえていると、後ろから高らかな笑い声が聞こえてきた。
どうやら私たち以外にも人がいたらしい。入ってすぐに氷室さんの元へ一直線に向かったから気が付かなかった。
ドッと広がった笑いの波に恐る恐る振り返ると、そこには何人かのお客さんがコーヒー片手にこちらを微笑ましく見つめていた。
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