第5話 初心忘るべからず

優雅に流れるその音に手繰り寄せられるようにして、私の体は自然と蓄音機の元へ移動する。

私は愛しい何かと再会できたときにする表情を浮かべながら、鈍く金色に輝くそれにそっと触れる。


「……この曲の名前って何ですか」


か細く震える声で、目線は蓄音機に向けたまま氷室さんに質問をする。

すると、なぜか私が聞いてくるのが分かりきっていたかのように彼女からの答えはすぐに返ってきた。


「それはバッハの『メヌエット ト長調』だよ」


――メヌエット。そうだ、メヌエットだ。


一語一句、今の氷室さんの言葉が頭の中を駆け巡る。

そうだった。昔から音だけは知っていたこの曲の名前は、たしかメヌエットだったのだ。



私がいつも泣いていると、母は決まってピアノを弾いてくれた。

あの実力ならもっと凄い、例えば子犬のワルツや花のワルツなんかでも簡単に弾いてみせたのだろうが、数ある名曲の中で母はこの曲を選んだ。きっと私が気に入ると思って、喜んでくれると思って選んでくれたのだ。母の一番好きな曲がメヌエットだったから。


「お母さんは何でこんな簡単な曲が好きなの? この前弾いてたあの曲のが凄かったのに」


小学校に入る前だったか。私は母にそう聞いたことがあった。

その頃は病状の進行が緩やかで、退院して自宅療養をしていたのだ。さすがにもう海外へ行くことは叶わなかったけれど、母は娘の私に聞かせることで十分満足していたのか、毎日ピアノ椅子に座っては鍵盤をたたいていた。


そんな母は、私の純粋な質問に小さく笑いながらメヌエットを弾く。


「お父さんがねぇ、私に弾いてくれたの。自分の好きな曲なんだって。不器用でピアノなんか弾いたことないくせに、私の前ではカッコつけたかったのね。ところどころ音が外れたりリズムが合ってなかったりしてそれはもうひどい出来だったんだけど、耳を赤くしながら弾いてるの見たら何か可愛いなって思っちゃって」


その後プロポーズを受けて結婚したのよね、懐かしい。


だんだんと惚気話になっていく母の話を、私は途中から適当に聞き流していた。聞きたいのはそれじゃないとでもいうふうに。

そんな私に気がついたのか、また母はクスクス笑ってそっと頭に手を乗せる。急に慣れた手つきで頭を撫でられ、驚いた私は上目遣いで母の顔を見る。


「いつかきっと分かるわよ。優香にも好きな人ができて、その人が自分のために頑張ってくれたら」

「好きな人? そんなのいないよ」

「そっかぁ。まだいないか」


当時はまだ母の気持ちが理解できない様子の私を見て面白がっているのだと思っていた。

しかし、今振り返ってみれば、眉尻を下げて笑うあの顔はどこか寂しさを帯びていて、私の成長を最後まで見届けられないことを悔いているような表情だった。きっとそうだったのだと、今ははっきりと分かる。


母がメヌエットを好きだった理由は、父がその曲が好きだったから。そして、大好きな父に不器用ながらも弾いてもらったから。


私が音楽を続ける理由は、ここまで立派に育ててくれた父と母に金銭的な援助をしたいから。そして、母のように海外で活躍したいから、だった。――この曲名を思い出すまでは。


もちろんそれらも含まれているが、きっとそうじゃない、私が本当に音楽の道を進もうと決めた理由は。


日々競争の世界に揉まれて、初めて楽器に触れたあの日の気持ちを、音楽家を目指したきっかけを――初心を、私は見失いかけていた。


あの日聞いた、母がメヌエットを好きな理由こそが間違いなく私の原点であったのだ。


私が本当になりたいと思ったのは母ではなく、父なのだ。

母を喜ばせたいと想いながら弾いたメヌエット。その中に込められたたくさんの愛と思いやりの気持ち。それらで母を笑顔にした魔法使いのように、私もそう成りたかったのだ。



ジジ、とレコードが音を立てて、別の曲に移り変わる。

ピクリとも動かなくなった私を心配した氷室さんがカウンターから出て駆け寄ってきた。

パタパタと忙しないそんな彼女に私は涙ながらに告げる。


「音楽、やっぱり大好きです。さっきの言葉取り消してもいい?」


決して聞こえやすい音量とは言えないそれは無事に耳へ届いたらしく、氷室さんは小さく口を開け、次第にフッと呆れたような顔になる。


「好きにしなさいな」


腰に手を当てて笑う氷室さんに、私は肺に空気をめいっぱい吸い込んだ。

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