第4話 ノスタルジック
先生から楽譜を受け取ったあと、ぞろぞろと集まり始めたコンクールメンバーの間を縫うように通り、「またね」と言った有紗には返事をせず走って学校から出た。
呼吸の速度が上がる、上がる。
今度こそは大粒の涙を流していることをしっかり理解しながら、熱されたアスファルトの坂道を駆け下りる。
じわじわと出てきた汗と涙が混じって、ポタポタと地面を濡らした。
悔しかった。最初はコンクールメンバーに選ばれなかったことが。
次に有紗の実力が私の遥か上だとはっきりわかってしまったことが。
そして最後に――つい先ほど敵わないかもしれないと諦めかけた自分が、決意が一瞬でも揺らいでしまった心の弱さが、一番の悔しさの原因を作り出していた。
諦めたくない。私だって、広いステージの上でスポットライトを浴びて、堂々と胸を張りながら演奏を披露したい。
けれど、いつだってあの子は私の上を行く。
追いついても追いついても、あの子は、有紗は、簡単に私を引き離す。
そんなの、もう――。
いつもは軽やかな音をたてる鈴が、勢いよく開けたせいで木製のドアに当たって鈍い音を鳴らす。
中にいた店主は、突然の来客とその様子のおかしさに、驚いてコップを拭いた体勢のまま固まっている。
中学に入ってからずっと使っているヨレヨレの白いスニーカーが、加工が施された床板の上を軋ませながら進んでいく。
「えっ、優香ちゃん? なんかあっ……」
「氷室さん」
いつもなら心を弾ませながら座るカウンター椅子には座らず、立ち止まってうつむきながら息を整える。
自分の名前を呼ばれた彼女は、目の前にいる来訪者の口から出る言葉を予想してか、眉間にしわが寄っていた。
「私、私ね」
嗚咽混じりに声を発する。
ちゃんと喋れてるかなんて、今の私にわかるはずもない。
「私ね、音楽好きじゃなくなっちゃった……っ」
カバンの中には、ファイルにも何にも入れられずに突っ込まれた楽譜が、くしゃくしゃになって仕舞ってあった。
***
コトッと静かに中身を揺らしながらやってきたカフェラテは、カウンターにうつ伏せる私の横に置かれた。
あれ、こんなの頼んだっけ。
泣き腫らした顔をゆっくり上げると、その視線に気がついた氷室さんが柔らかく笑う。
「特別サービスよ」
そう言って子どもみたいに白い歯を見せる彼女へふっと口角を上げながらお礼を言って、乾ききった喉を潤すべく一口含んだ。
甘くて美味しい。
普段ここでは抹茶ケーキしか頼んだことがないのだが、今度から他のメニューも頼んでみようか。鼻をすすりながらそっと考えた。
温かいカフェラテを飲んで、落ち着いていたはずの涙がじわっと目尻に溜まる。
鼻水とそれに加えて汗までもが私をひどい顔にしているので、見かねた氷室さんが笑いながらティッシュを取ってくれた。
箱から一枚引っ張って取り出し、勢いよく鼻をかんで涙を引っ込める。
「……で、何があったの? ほら、話してごらん」
いつもより優しめな声で小さな子どもをなだめるように話す氷室さんに頷き、今日と昨日で起きた出来事を隅から隅までぽつりぽつりと話し始めた。
まずはコンクールのメンバーに選ばれなかったことと、その腹いせによく分からないちょっとした嫌がらせをしてしまったことを話した。
次にそれに反省して、またイチから頑張ろうと意気込みながら今朝学校に行ってみると、そのメンバーの中の一人の子が越えられない、あまりにも大きな壁だと感じて、もっと頑張らなくてはいけないと焦燥に駆られていることを途中口ごもりながら告げる。
そして、今の私は音楽が本当に好きなのか疑ってしまっていること。
それらすべてを話して一通り心と頭の整理ができたからか、私は入ってきたときよりも落ち着いた心にゆっくりと温かいカフェラテを染み渡らせる。
「なるほどねぇ。それで昨日も様子が変だったのね」
納得、納得と腕組みをしながら頷く冷静な氷室さんを見て、顔をぐちゃぐちゃにしながら取り乱していた私が恥ずかしくなってきた。その気まずさをごまかすようにカフェラテを口に含む。
顎に指を当てて考え込んだ素振りを見せる彼女は、突然フッと左に目を移しそれから数秒経って私の方を見る。
「じゃあ、聞きたいんだけど。優香ちゃんがそこまでして音楽を続けようと思ってた理由は何だったの?」
「えっ……」
そんなの、音楽の道に進んでお母さんとお父さんに喜んでもらいたいからに決まって……、ああ、そうか。
氷室さんは一回訪れただけの母がその後どうなったかまでは知らないのか。
「うちの母……って言っても、もう死んじゃったんだけど。お母さん、本当にピアノが上手くて、私を産む前までは海外のコンサートに出てたりしてたの」
「へえ。それは凄い」
「……でも、私を産んでから持病が悪化しちゃったらしくて。それまでは何ともなかったのに、私が産まれてから、そう……なっちゃって」
口調がだんだん歯切れ悪くなる。収まっていた涙が、また溢れ出してくる。本当、今日は何回泣けば気が済むのだろう。
昔から変わらない、泣き虫な自分に呆れていると、突然昔母が弾いていたピアノの音色が頭の中で再生された。
――いや、これは。
うつむかせていた顔をバッと上げ、カフェの中に流れる音の元を辿っていくと、そこには古めかしい蓄音機がひっそりと佇んでいた。
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