第2話 抹茶ケーキ

「……で、今日も抹茶ケーキ?」

「うん。いつもの」

「はいはい」


片付けがひと段落した氷室さんは、腰をさすりながら注文の確認をとる。

実は彼女、今年で四十代になるらしいのだが、見た目が若々しいせいで全くそうは見えない。

が、やはり体は年齢と合っているようで、最近よく「腰が痛い」とか「ちっちゃい文字見えない」とか、うちの父親と大して変わらない言葉が氷室さんの口から聞こえてくる。

歳を重ねるとみんな大変になるんだなぁなんてぼんやり考えながら、ふと窓の外を見やる。


──あ、猫だ。


何か白いものがいるような気がして、目を皿のように細め塀の上を観察していると、白猫、いや三毛猫が気持ちよさそうに毛繕いしていた。あそこはよく日が当たるから、日向ぼっこのついでにしているのかもしれない。


「いいなあ、猫は呑気で」

「なぁに? またなんかあったの」

「……べつにー。なんもないよ」


カチャカチャと食器の音が静かな空間に音をもたらす。

穏やかにくつろぐ猫を見ていると、コンクールのために必死こいて練習を頑張っていた私が馬鹿みたいに思えてくる。夏休み中、太陽が殺す気で照らす道を汗だくになりながら歩いて毎日部活に参加して、楽器のお手入れだって欠かさずやっていたが、最終的に選ばれたのは才能ある者たちだけだ。結局、平凡な私の努力なんてたかが知れてる。どう足掻いたって生まれながらの天才には勝てない。

それを先ほど嫌というほど思い知って、私は今まさに人生のどん底に突き落とされた気分だというのに、同じ地球で暮らしているはずのあの猫はお気楽にしっぽを揺らしてリラックスしている。

それに無性に腹が立って、恨めしげにひと睨みだけしてすぐ目をそらす。

さっきからやっていることが子どもっぽいのは、もちろん承知の上で。



しばらく氷室さんとくだらない雑談に花を咲かせていると、ふんわりと甘苦い香りが漂ってきた。ケーキ生地が焼けたのだろう。完成はもう間近だ。


焼きたての緑色の生地に、優しく甘さ控えめの生クリームを少量乗せ、その上にちょこんとミントを座らせてあげたら。


「はい、お待ちどおさま」


満カフェの看板メニュー、抹茶ケーキの出来上がりだ。

待ってましたと言わんばかりに体を勢いよく起こし、目の前に出された大好物に目を輝かせる。

おそるおそる柔らかいそれにフォークを入れ、深緑に真っ白なクリームをトッピング。それを躊躇いなく口に放り込むと、抹茶の苦味と生クリームの甘味の見事なコラボレーションが口内中に広がり、私は思わず舌鼓を打つ。


頬を押さえながら体をくねらせる私を見て、氷室さんは呆れたように、でも少し嬉しそうに息を吐く。


「ほんっとに好きねぇ、うちの抹茶ケーキ」

「だって美味しいんだもん」

「他のとこのはてんでダメなのに?」

「うん」


なんだそれ、と笑う氷室さんと話す間も、口に運ぶ手は忙しない。


彼女の言う通り、私は生粋の抹茶嫌いだ。どんなに甘いスイーツでも抹茶が入っているだけで食べられないし、本場のお抹茶なんてもってのほか。おそらく、苦いものが無理なんだろうなと朧気に理解はしているつもりだが、それだとここの抹茶ケーキだけは食べられる理由がつかない。

満カフェの抹茶ケーキだって、生クリームで緩和されつつも苦味ははっきりとある。なのに、苦いのが無理な私でも進んで食べたいと思うのは、ただ単に好みの話ではなくてもっと違う、特別な理由があるのだと心の奥底で謎の確信を得ている。


まあ、美味しいから理由なんてどうでもいいのだ。

結局そこに行き着く能天気な私は、最後の一口を満足気に頬張る。


窓の外では、生垣の上で寝そべる猫が大きなあくびをこぼしていた。


***


机に向かって夏休みの宿題を進めることはや三時間。数学のプリントがちょうどキリのいいところまで済んだ瞬間、玄関のドアが開く音がした。


「あ、おかえり」


疲れた表情を浮かべるお父さんが、片手に買い物袋を提げてリビングに入ってくる。


「ただいま。それ宿題?」

「うん。数学のやつ」

「へえ、父さん数学苦手なんだよなぁ」

「質問しないから大丈夫」

「ははっ」


たわいのない会話はそこで途切れ、ネクタイを取ってラフな格好に着替えたお父さんは、たちまち台所に立って夕飯の支度をし始めた。ちらっと見えた袋の中身はじゃがいもや豚肉や人参なんかが入っていたので、おそらく肉じゃがを作るのだろう。うちのは具材が大きく、あっさりとした味付けなのが特徴で、私は小さい頃から父の作る肉じゃがが大好きだった。

私は鼻歌を歌いながら人参を切るお父さんを横目に、宿題の数学プリントを解いていく。


私が小学三年生の時、母は持病の悪化でこの世を去ってしまった。どうやら心臓の病だったらしく、私を産んだ次の年からは既に状態は危うかったのだそうだ。

お父さんとお母さんは私の記憶の限りとても仲が良く、一人っ子の私を厳しくも優しく大事に育ててくれた。お母さんが死んだ後も、お父さんは男手一つで愛情を注いでくれて、私はここまで大きな病気も怪我もなく元気に育つことが出来た。


本当に二人には頭が上がらない。親孝行をしてもしてもし足りないくらい、私はたくさんのものに恵まれた。


──だからこそ、なのだろう。


私は音楽の道に進んで、両親に感謝の気持ちを精一杯伝えたい。そのためにわざわざ吹奏楽部が有名な中学校を受験したのだ。そのためだけに、私は夏休みだろうがなんだろうが、必死にコンクールの練習をした。

しかしその結果があれだ。先生に名前は呼ばれず、挙句腹いせに大事なトランペットまでも片付けずに出ていって。


数式を書く手が止まる。その代わりに、シャーペンを握る力は昼の出来事を思い出してだんだん強くなる。


情けない、不甲斐ない。

爪痕すら残せないくせに、選ばれた人たちを素直に応援できない自分が、抹茶よりも何よりも大嫌いだった。


こんな自分が音楽の道を歩んだとして、何を残せるだろう。何になれるだろう。本当に、感謝を伝えることはできるのだろうか。


次々と己を責める言葉が溢れ出てきて、同時に熱い何かが喉の奥を通る。キッチンに立つ父親に泣いている姿は見られたくないというくだらないプライドの元、込み上げる涙を唇を痛みが感じなくなるまでかみ続けた。

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