例えば明日、この世にさよならを言うとして

明松 夏

第1話 満カフェ

また、ダメだった。


そんなことを嘆きながら、学校のすぐ隣の下り坂をとぼとぼと降りる。辺りは木々で覆われていて多少の涼しさは感じられたが、先ほどまでいた音楽室に比べれば暑いも同然だった。



「じゃ、今回のペット担当者は以上です! このあと呼ばれた人たちは集まってね。それじゃ解散!」


冷房の効きすぎた部屋で、先生の明るい声がよく響く。

また有紗ありさ入ってんじゃん、凄いね! 頑張って! そう言われて嬉しそうに先生の元へ向かう彼女のように、私も胸を張ってあの場に立てていたらどれだけ幸せなことだったろうか。

キュッと握りしめた学校指定の真っ黒なリュックの紐は、悔しさが染み付いて少しシワになってしまった。


そのまま逃げるように音楽室から出てきてしまったけど、そういえばトランペット、出したままだ。

坂の途中で足を止め、スッと降りてきた道を振り返る。戻ろうかと思った。けれど、笑顔で先生の話を聞く彼女らが頭をよぎり、進めようとした足は結局もとに戻る。


どうせこれからコンクールに向けての練習が始まるのだから、邪魔しないほうがいいと思ったのが半分。

――もう半分は、あのメンバーの誰かが少し困ればいいと、ほんのちょっとの嫌がらせのつもりだった。


我ながらなんて幼稚な行動なのだろうと坂道を駆け下りながら心のなかで盛大なため息をつく。


しかし、ところでなぜ私は走っているのか。今日は特に早く帰ってこいと言われたわけでもないし、このあと急ぐ用事があるわけでもない。なのに私は走っている。

意味が分からなくて自分自身に問うてみたが、もちろん返事は返ってこなかった。


それでも、何かから逃げているような感覚があることだけは、はっきり脳が理解していた。



炎天下の中走り続けたからか、ひどく喉の渇きを覚える。

膝に手をついて息を整えようとするが、汗で滑りの良くなった手のひらのせいでさながら芸人のようにズルっと体が傾く。その拍子に、太陽に照りつけられて鮮やかに輝く灰色のアスファルトへ二滴、三滴染みが作られた。


私の汗だ。あるいは──悔し涙かもしれない。


そういえば、さっき泣きながら走っていたような。そんな気がしなくもないけれど、足の疲労感とカラカラに干からびた喉のせいで、汗が涙かよく分からないものが落ちなければ、思い出すことも無く頭の隅に追いやられていたことだろう。まあ、思い出したとて何かある訳でもないが。


そんなことよりも、今は水分を摂らなければ。このまま太陽に晒され続けていれば、いずれ脱水症状か熱射病で死んでしまう。

私は最後の力をふりしぼり、目を開けて額の汗を拭い、周りに何か日陰か自販機が無いか視線だけで探し始める。

……いや、正確にはそれらではなくとある場所を探して、なのだが。


目玉をキョロキョロ動かして数秒、目的地はすぐに見つかった。

今度こそ、と膝に思いっきり手を付き、その反動で体をシャキッと伸ばす。そのまま迷うことなくお店に向かって歩いて、また垂れてきた汗は拭わずに扉はカランコロンと鈴を鳴らした。


「いらっしゃい……って、また来たの、優香ゆうかちゃん。お昼ご飯うちで食べなくていいの?」

「いいのー。今日は特別」

「って言って、昨日も来たじゃない。連絡だけは入れときなさいよー」

「はあい」


親しげに店主の氷室ひむろさんと話しながら、お馴染みのカウンター椅子にドカっと腰を下ろす。私以外にお客さんはおらず、ほとんど貸し切り状態でBGMのクラシックな音楽がひっそりと流れているだけだった。


この「みちるカフェ」は、郊外から少し逸れた田舎に近い土地で経営されている。ケーキやコーヒー、その他にも軽食なんかを提供しており、特にここの抹茶ケーキは美味しいと名高いのだが、私以外で訪れる人を見た事がない。母に連れられ、一度二人で入ったきり、店内には氷室さんと、私の二人だけの空間になっていた。

ところが失礼だとは十分承知の上で、経営は大丈夫なのと心配して聞いてみたところ、笑ってこう言われてしまった。


「なんか優香ちゃんが来る時間帯は、お客さん全然入ってこないんだよねぇ」


と。

私はムスッと眉間に皺を寄せた。それではまるで私が疫病神みたいではないか。こちらは心配して聞いてみたというのに。あんまりなその扱いに私が不貞腐れると、氷室さんは「じょーだん、じょーだん!」とケラケラ笑うのだった。


今思えば、あれは私の子供心を上手く操って質問を軽く躱されたような気がしてならない。


しかし、それを聞いて早二年。今でもこうして変わらずカフェを続けている彼女を見ると、要らぬお節介だったのかもしれない。

せっせと棚の整理をする氷室さんを見ながら、私は出された水をグイッと飲みきった。


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