第12話 カティシアさんはやはり姉だった

「いえいえ。違いますよ~。わたしはお姉……カティシアの妹のエリーゼ・テシュと申します。よろしくお願いしますねー」

「あ、これはご丁寧に。わざわざありがとうございます。自分は東鬼……修一東鬼と言います」



 初対面の俺に対して、穏やかな口調で自己紹介してくれた女性――エリーゼ・テシュさんにつられて、俺も会釈をして返答する。


 カリナさんから聞いたのだが、この世界では海外のように名前・苗字らしいので、それに倣って自己紹介した。


 それにしても警戒心がまったくない。所作が丁寧でゆっくりな様は、物腰が柔らかい印象を受ける。



 性格もツンツンしてるテシュさんとは正反対かもしれない。体格も相まって栄養のほとんどが、妹のために温存されていたかもしれないな。

 とまあそんな訳ないのだが。



 そんなおつむが弱そうな感想を察知してか、俺の横でテシュさんの頬がひくひくと震えだす。その震えは、すぐにぷるぷると起伏の乏しい体へと伝達し、バネ仕掛けのように拳が突き出された。



 シュっっっ!!


 見ることはできても、避けることはできず、えぐるような鋭い打撃が俺のわき腹へとクリーンヒットする。



「ぐえっ」

「ふんっ。アンタが悪いのよ」



 俺の口から潰れた蛙のような声が出た。手加減してないのではないか? と悶絶するほど痛くて、俺はわき腹を押さえてその場にうずくまる。



「どう見たってあたしが姉で、エリーが妹でしょうが!」



 テシュさん。それは無理がありますって。


 身長は言わずもがな。

 顔立ちも妹さんの方は大人びているが、肝心の姉の方はロリが……童顔だ。


 もちろん、口が裂けても反論しなかった。というか激痛でそれどころではなかった。

 変な脂汗が出ている俺を気にも留めず、テシュさんが自分の妹を見上げると、不愉快そうに眉を寄せて、



「ただいま、エリー。今日からこいつもここで暮らすことになったから」

「ほえっ? そうなんですの?」

「ぐえっ」

「たく、大げさね」

「ぐぇっ、ぐえっぐえっぐえ?(結構、本気で殴りましたよね?)」

「あたしがアンタみたいな雑魚に本気出すわけないじゃない。もし仮にあたしが本気出したら、アンタの貧弱な骨なんて粉砕よ、粉砕。なんなら試してみる? あたしは一向に構わないわよ」


 シュッ、シュッとその場でパンチを繰り出すテシュさん。

 鋭いパンチだ。風を切るような音がしている。



「…………むしろこの先のことを考えたら、しといた方がいい気がしてきたわ」

「ぐえ!?(ひぃ!?)」


 絶対零度並みのジト目が突き刺さる。

 割と本気で考えていそうな仕草に俺の冷や汗は止まらない。




「粉砕した骨、庭にでもまいといてあげる。カラスか鳩が食べてくれるんじゃない? 肉はご近所におすそ分けね」

「ぐぇぐぇぇぇぇぐぇ!(猟奇的すぎる!)」




 そんな俺たちのやりとりに、しきりに目をまばたきさせていたテシュさんの妹。

 ややあって、慈愛に満ちたような表情を浮かべて笑い出す。



「うふふ、そうなんですの。それはそれは……ふふ」

「ちょっと、エリー。なぁによ。いきなりニコニコしちゃって。どうしちゃったのよ」

「ぐえっ?」



 テシュさんと多少痛みが引いてきた俺が、不思議そうな顔をする。妹に対してだからだろう。姉の声音は、気持ち悪いくらい優しいものだった。

 淑やかに笑うエリーゼ・テシュさんは、両手を合わせて目をキラキラさせた。



 嫌な予感がする。そして案の定、俺の予感は当たった。



「お姉の恋仲ですよね? わたし、嬉しいんですの。お姉ってとっても優しいのに、それをわかってくださる殿方が中々いなくて……。このままず~っと一人なんじゃないか、って心配してたんですの。修一さん、お姉は素直じゃありませんが、とっても可愛い人なので大切にしてくださいね。じゃないと、わたし怒っちゃいますよー」



 すらすらと。甘い声でよどみなく紡がれる。

 彼女は、喜怒哀楽が豊かな方かもしれない。最後にぷぅーっとふくれっ面して、未だにうずくまっている俺を見下ろしてきた。



 それだけで、彼女はテシュさんのことが大好きなんだろう、ということが伝わってきた。



 というか、あんなやりとりでも、はたからみたら痴話喧嘩に見えるのだろうか? だったとしても勘違いするのはやめていただきたい。俺はいいんだ。だがそれを聞いたテシュさ——あっ。


 テシュさんがボウリング球を持つように俺の頭をむんずと掴んだ。


 ほら言わんこっちゃない。どうやら遅かったようだ。……って、ちょっとテシュさん……? 痛い、痛いです……。


 俺の心の声なんて届くはずもなく、


「はぁ? はあ? はああああああ!!? エリー、何を勘違いしてるか知らないけど、あたしがこんな幸薄そうな男と恋仲のはずあるわけないじゃないっ! エリー、あなた目が悪くなったんじゃないの!?」

「すごい勢いで頭を揺らさないでください。気持ち悪くなりそうです、あ、あああああっっっ!!!」

「お姉、もしかして照れてるんですのー?」

「そうじゃないわよ! もう何度…………はぁ。ご領代といい、どうして色恋沙汰にしたがるのよ。エリー、よく聞きなさい。こいつはシュテルベンの隠し子なのよ。それで世話することになったわけ。ていっても、ただ適当に家に置いておくだけでいいわ。漬け物石とでも思ってなさい」

「んー……、まことに付き合ってないんですの?」

「ええ」



 そう言って、ゴミ袋を捨てるように俺を解放した。



 俺はというと、バーテンダーがカクテルを作るときみたいに脳がシェイクされた。ひどすぎる扱いだ。俺はこの先、無事に生きていけるのだろうか。



 どうでもいいくせに、ふと心配になってしまった。


「……そうでしたか。ごめんなさい、お姉。修一さんも。嬉しくて早とちりしちゃいました……」


 しゅんとしょげるエリーゼ・テシュさん。

 テシュさんが、そんな彼女の肩を軽く押して屈ませる。それから絹に触れるように優しく頭を撫ではじめた。

 お団子の髪をつぶさないように気を付けながら。



 この光景を見ていると姉だった。テシュさんは正真正銘の姉であった。



「あなたの期待に添えなくてすまなかったわね。だけど心配しなくて大丈夫よ。あたしを誰だと思ってるの? 昔からそうでしょ。誰の手も要らない。一人で充分なのよ。だからエリーは、あたしのことなんていいから自分のことだけを考えていなさい」

「ですけど、お姉。家事もできなければ、料理も壊滅的じゃありませんか」

「…………うっ。だ、大丈夫よ! きちんとエリーが嫁に行くまでにできるようにするわよ! あ、言っとくけど無論あたしが認めた男以外と結婚なんて認めないわよ? 変な男でも連れてきてみなさい。八つ裂きにして追い返してやるわ!」

「ふふっ。まだまだそんな予定はありませんよ~。ですけど、お姉のお眼鏡にかなう方がこの世にいるんですの?」



 頭上にヒヨコが舞う状態から復帰した俺は、静かに立ち上がり、そんな二人のやり取りを眺めていた。

 テシュさんの歪んだ愛が垣間見えるが、そこに目を瞑れば家族そのものである。



『家族』


 その単語にずきりとしたかすかな痛みが伴う。


 夕方の淡くにじむような秋の長ったらしい日差しが、俺とテシュさんの影を細く伸ばしていく。暮れに沈む色彩のなかで、立ち止まったその二つの影は交わることなく夕闇に溶けていった。数羽のカラスが、カーカーと鳴きながら木立から飛び立つ。枯れ始めた葉っぱを舞い落とし、枝々を大きく揺らしていった。


 なぜか。何故だかわからないけど。小学生の頃、公園で友だちと遊んでいたときに、この時間の終わりを告げる夕焼けチャイムが鳴った。その時を思い出す。


 少しの間、俺は感傷に近しい気分に浸っていた。


 やがて。

 寂しい……。



 そんなぽっかり空いた心の隙間を埋めたくて。




「あの、テシュさん」




 ほんのり肌寒い色なき風が、テシュさんのぼさぼさの灰髪をなびかせた。

 それに誘われるようにして俺は、気づけば彼女の名を呼んでいた。



「なぁによ? エリーと話してるんだけど。邪魔しないでくれる?」

「はい、修一さん。どうしましたか?」


 姉妹だからだろうか。同時に二人が振り返り、エリーが立ち上がったことで細く伸びた三つの影が交わった。



 俺の声に反応して、威圧するような視線と花が咲いたような笑顔が俺に集中する。

 頭をかいたテシュさんが面倒くさそうにこう言った。



「エリーと混同するわね。支障出るし特別にあたしのことはカティシアさんでいいわよ」

「これから一緒に暮らすのですから、わたしは気軽にエリーでいいですの」

「それはダメよ、エリー。アンタ、エリーって愛称で呼んだらぶち殺すわよ!」

「お姉、厳しいですの。えっと、すみませんが修一さん。エリーゼと呼んでください」

「わかってるわよね、アンタ」


 何かを含ませたような目でこちらを見上げてくるテシュさん……カティシアさん。


「よろしくお願いします、エリーゼさん」

「そ。エリーゼさん、よ。やればできるじゃない!」

「あ、ありがとうございます。カティシアさんもこれからよろしくお願いします」

「せいぜい精進することね!」


 ちょっと上機嫌だ。

 そんな姉を見て、エリーゼさんは目を細めて楽しそうに笑う。


「……ふふ。慣れないことで大変ですけど、分からないことがあったら何でも聞いてくださいね」

「ふん。エリー。あまりこいつに甘い顔するんじゃないわよ。つけあがるだけよ! 無害そうに見えても、男はみんな狼なのよ?」

「修一さんは狼というより、犬っぽいですの」

「随分とまあ無愛想な犬ね。まあいいわ。とにかく何かされたらすぐに申しなさい。あたしがただちに制裁を加えるから」

「お姉が連れてきた方です。信用してますの」

「もう。まこと困った妹ね」


 そう言うが、カティシアさんはニコニコしている。

 本当に妹のことが大好きらしい。



「悪い男に引っかかりそうで、おちおち目を離してられないわね。いいこと? すぐに申すのよ」

「相も変わらずお姉は心配性ですの。わたし、もう子どもじゃないんですよ~」

「あたしからすれば、あなたはずっと子どもみたいものよ。で、アンタ。どうしたの? 何かあったから呼んだんでしょ」

「あ……、えっと。……そうでした。俺に何かできることはありますか? タダで居候の身になるのもバツが悪いですから。よろしければ手伝わせてください」



 俺は、思いついたままのことを口にした。


 あのとき、二人の関係が羨ましかったなんて言えない。

 疎外感といえばいいか。気づけば、カティシアさんの名前を呼んでしまっていたのだ。

 成人を迎え、大人の仲間入りしたにも関わらず、そんな行動をした自分が無性に恥ずかしかった。ただありがたいことに、俺にまったく興味がないカティシアさんは、気にした様子もなく仏頂面を向けてくる。



「んー、そうね。アンタ、家事はできるの?」

「一応、一通りはできるつもりです」

「そ。ならエリーの手伝いをしなさい! 今日はエリーが非番だから家にいるけど、普段はアンタ一人だからね。よろしく頼んだわよ! あとの詳しいことはエリーに聞いてちょうだい。あたしは疲れたから、夕餉まで少し寝るわ」

「あれ、お姉。今日のお勤めは終わりなんですの?」

「幸か不幸かこいつのお陰でね。あなたも非番なんだから、こいつに押し付けてゆっくり休むといいわ」



 それだけ言って少女は眠かったらしく、口をパクパクさせる俺に有無を言わせず、まぶたを擦りながら自分の家へと入っていった。


 その場に俺とエリーゼさんだけが残される。

 俺は内心、恐怖におののいていた。


 綺麗な女の子と二人っきりになったからではない。カティシアさんに命じられたことだ。


 不用意な発言のせいで、テシュ家の家事の全権を担うことになってしまった。



 口は禍の門、というがこれは……。言い出しっぺは俺である。しかし、いったい誰が一方的にすべてを押し付けられる、と予想できただろうか。

 しかもだ。十中八九ミスを犯したらどうなるか、容易に想像ができてしまった。



 すると、俺の絶望に近しい感情を感じ取ってくれたのか。エリーゼさんが窮屈そうな胸に手をやって微笑んできた。



「ふふ。修一さん、安心してください。お姉はああ申していましたけど、修一さんに全部任せたりしませんから。わたし、家事が好きなんですの。ですから一緒にやりましょうね」

「……エリーゼさん。ありがとうございます」

「いえいえ」



 ありきたりな言葉だが、まるで彼女に後光が差しているかのようだった。

 エリーゼさんは包み込むような笑顔のまま、



「じゃあ修一さんもお家に入りましょうか」

「あ、はい」

「えっと、それじゃあ改めまして。おかえりなさい」



 優しさをたたえ、多くの男を惹きつけるだろう瞳で、ゆっくりと俺を見上げた。


 その柔らかそうな唇に、甘く澄んだ声に、しなやかな身体に、俺の意識は持っていかれそうになる。



 独りでも居られた不完全な世界が。




 誰も入り込んでこなかった荒廃と化した世界の壁が、みしりと亀裂を生じさせて簡単に崩れていく。



 それほどまでに『おかえりなさい』という言葉が俺の心にじゅわっと染みこんだのだ。

 それは、差し込む木洩れ日のように暖かくて……そして、ほんの少しだけ痛みが走った。




 これがカティシアさんの妹、エリーことエリーゼ・テシュとの初めての出会いだった。

 エリーゼさんのお陰で足取りが軽くなった俺は、心に誓った。




 カティシアさんの前で迂闊な発言は控えよう、と。

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