第9話 夢物語の未来
屋敷の中でも一番広い部屋に案内されたエルンストだが、辺りに視線をやったきり、口をつぐんでしまう。
厭らしくない程度に調度品を調え、掃除もくまなく行き届いている。天子の使者をもてなすにあたって、文句のつけようがなかったからだ。
ヘルミーネに目を合わせることなく、エルンストはぶっきらぼうに言った。
「……ふん。肝心の料理はどこですかな」
「はっ。今お持ちいたします」
ヘルミーネの命令で、女中の一人が奥へと引っ込む。ほどなくしてお盆を持って出てきた。
お盆の上には、野菜の煮物にごま豆腐。がんもどき、けんちん汁といった野菜中心の精進料理が載っていた。女中からお盆を受け取ったヘルミーネは、苛立ちからか、しきりに貧乏ゆすりをしているエルンストへと差し出した。
「こちらが本日用意した料理でございます」
すると仮面の中でエルンストが、笑ったような気がした。やがて彼は額に手をやって、これまた大げさに肩をすくめてみせる。
「ヴェルナー殿。これはいったいどういうことですかな」
「……えっと。某には、リーファース様の仰っている意味が分かりませぬ。某はリーファース様のお指図通り、精進料理を用意したのですが」
「はぁ? 精進料理だと? わしは生物料理(しょうぶつりょうり)と申したのだぞ! それを精進料理などと。何も分かっておらん田舎娘が。そちは天子の使者ではなく、死者でももてなすおつもりか? はっ、笑止千万、洒落にもなっておらん。こんな晴天の日に精進料理とは忌々しい。論外。話にならん。これではカーバンクルの任など勤まらんわ! さっさと荷物をまとめて田舎の隻保にでも帰るがよいッ」
ここぞとばかりにエルンストが、唾を飛ばす勢いでヘルミーネのことを怒鳴り散らす。怒り任せに地団太を踏み、しっしと手を払う動作をした。
その突然の剣幕に、ヘルミーネはふためいてしまい、手先を震わせてしまった。
あっ……駄目っ!
お盆の上の皿同士がぶつかり、不快感のある音が鳴った。そのままヘルミーネの両手からお盆が離れようとして、
「……ヘルミーネ様。うちのせいで、申し訳ありません」
後ろに控えていたオクサナが、さっと彼女の手を優しくも力強く支えた。それと同時に、かばうようにモニカがエルンストの前に現れる。
「失礼致します。念のためにもう一つ料理を用意したのですが」
そう言って、モニカは精進料理とは別の、肉や魚を使った綺麗に盛り付けられた料理を彼に見せる。
仮面の中でエルンストは押し黙った。一度その場でぐるりと首を回して、
「ちッ……年のせいか、疲れてしまったようでな。わしはこれで失礼致す。見送りの者は要らぬ。おっと……」
体をふらつかせた拍子に、部屋にあった屏風を足蹴りしていった。
喚き散らし、あまつさえ誰が見てもあからさまな故意である。
家臣たちは怒りよりも先に唖然としてしまった。
吹っ飛んだ屏風はベコリと凹み、使い物にならなかった。武人どうこう以前に、人としてあってはならない態度だが……。
短く息を吐いたヘルミーネは、オクサナに頷くと、彼女にお盆を預けて、首をパキパキ鳴らすエルンストに対して堂々たるお辞儀をしてみせた。
「本日はヴェルナー家のため、屋敷まで出向いてくださってありがとうございました。季節の変わり目、体は壊しやすいと申されております。お体を大事になさってくだされ」
「…………」
何も言わず、振り返ることなく暴威を振りまいた御仁は、足早に去っていった。
当然のことながら場は騒然となる。
その空気を破ったのは、他ならぬヴェルナー家当主だった。
「リーファース様から確認は取れました。料理はもう一つの方をお出しします。それと急ぎ屏風の入れ替えを。これからが正念場です。天子の使者に決して粗相のないように」
「はいっ!」
女中、集まった家臣が一様に大きな声で返事した。彼らは、ヘルミーネと側用人の二人が部屋を後にしてから、各々仕事場に戻っていく。その顔は皆、やる気に満ち溢れていた。当主であるヘルミーネから直々に喝が入ったからだ。
一方の三人は……部屋を出るなり、オクサナが廊下の床に額を擦り合わせた。
「ヘルミーネ様。申し訳ございませんでした! わたしの聞き間違えで、ヘルミーネ様に多大なご迷惑をおかけしてしまいました! ……このオクサナ、命をもって償いを……ッ!」
「落ち着きなさい、オクサナ。よいのです。あのご様子からして、あまり申したくはありませんが……、リーファース様はあなたに精進料理と伝えたのでしょう。初めからわたくしに恥をかかせるために……。今回のことは不問にします。ですから面を上げてください」
「…………。ヘルミーネ様の寛大な処置。まことにありがとうございます」
「オクサナ、モニカ。こちらこそ、ありがとうございました」
「あ……、へ? いえっ、ヘルミーネ様! 叱責ならいざ知らず、このわたしに感謝の言葉など……」
「オクサナの申す通りでございます。我らはこの命に代えてもヘルミーネ様をお守りする身。それはヴェルナー家に仕える家臣、皆同じでございます」
「ふふっ、ありが……と……」
ヘルミーネのふらついた体を、モニカは即座に支えた。
モニカの方が身長が高く、すっぽりと彼女の体が収まってしまう。以前にもまして食が細くなり、やつれたように見える。
「……ヘルミーネ様」
「少し気疲れしてしまったようです。横になってきます。四半刻(三〇分)、経っても起きてこない場合は、起こしに来てください」
「……承知致しました」
「ゆっくりお休みください」
そう言い残して、ヘルミーネは足取り重そうに自室へ向かって行った。
モニカは、そんな彼女のことを心配げに眉尻を下げて見送る。
「このところヘルミーネ様の体調が思わしくありません。リーファース様が来る前も寝ていらしてました。精神的な疲労が、体に障っているに違いないけれど……」
「……うちらにできることってなんやろ」
「決まっています。カーバンクルの任を滞りなく終えることです。さすれば、リーファース様と顔を合わせる機会もめっきりなくなります。のしかかっているヘルミーネ様の心労も軽くなるはずです」
「それはそうなんやけど、なんて申すんやろか。やんな。頑張れる糧みたいなんあると、ちゃうやん?」
「ふむ。一理あるかもしれません。……それはそうと、相も変わらず物事に対して尾を引きませんね、君は」
「いつまで引きずってもしゃあないやん。ヘルミーネ様が許してくれはった。それに従うだけやで」
「その気持ちの切り替え、私も見習いたいものです」
「モニカは多少固すぎやで。んー、そやな……。あ、せやせや。これから秋やろ。ほんなら、カーバンクルの任が終わったら江戸詰めの家臣も集めて紅葉狩りせぇへんか? お弁当にお酒。甘いものを持参してな」
「……お酒ですか。君にしたらいい案です」
「にしたらは余計やん。今から楽しみやわ、紅葉狩り。せやせや。ヘルミーネ様、うちらに隠れて、よう甘いもの食してん知っとる? あのときのヘルミーネ様、ものすーっごく可愛いらしうて」
「ほう、それはまことですか? 私も見たか……って君。ヘルミーネ様に可愛らしいとは不敬です」
「だって頬っぺたもちもちさせててん。つい昔のこと。幼い頃のヘルミーネ様を思い出してなあ……。うちもつい最近知ったんやけど……」
「ヘルミーネ様が起きたら、このこと申しつけます」
「ちょいとモニ!? それは堪忍してや!」
ヘルミーネの側用人である二人は、ぎゃあぎゃあやりながらも、カーバンクルの任を終えた後の行事に思いを巡らせていた。
紅葉を見ながら大好きな甘いものを食すヘルミーネ。その横で静かに食事を摂るオクサナ。盃を傾けてお酒をあおるモニカ。無礼講だと申してどんちゃん騒ぎする江戸詰めの家臣たち。一夜の酒盛り。肩を組んで歌を歌って騒ぐ。
ただ彼女たちは知らない。
それが決して叶うことのない夢物語の未来であることを。
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