第5話 異世界転移

「ここはいったいどこだ?」



 俺は視界の利かない、暗晦とした世界をさまよっていた。


 真っ暗で、ひんやりと冷たい。無臭に無音と感じたことのない感覚。どこか足場もふわふわしている。

 とても現実とは思えない不思議な世界だった。


 立ち止まって辺りに視線を配っていると、シャボン玉のような泡が俺の周りに浮かび上がってきた。



「これは……」



 若い女性に優しく抱き上げられた赤ん坊。

 家の中を元気に走り回る幼児。

 テストで百点を取って、頭をなでられて満面の笑顔を見せる子ども。

 恩を仇で返したことに、負い目を感じる青年。



「俺の記憶……、か」


 友だちと遊んだ記憶、かつての恋人と紡いだ記憶、学校での記憶、日常の一幕といった記憶が、スライドショーみたいに切り替わってゆく。泡が浮かんでは消える。それの繰り返し。


「これが俺の人生」


 出てこなくなった泡を見て思う。

 ちっぽけでつまらない。と。


 人はいつ死ぬのだろう。寿命が尽きたとき? 病気で体が蝕まれたとき? 不慮の事故? 自殺? 他殺?


 いつ死ぬのか? 俺はまだ生きているのか? それとも死んでいるのか?

 なにが生を定義する? 生死ってなんだ? 死ぬってどうして恐いんだ? 今の俺は恐いのか? 生きるのは必要か? どうなんだ?


 とめどない疑問の数々に、俺は何一つ答えられない。だけれど、それももうじき終了だ。


 自分の直感が、そうささやいていた。



「退屈でしようのない二〇年だったな」



 終焉に手をかける脳に痛みが、苦しみが、後悔が埋め尽くし、とざされた視界は真っ白に染まっていく。


 こう、かい……? 俺は、悔いているのか? こんなちっぽけでつまらない人生に?


『ふふ。まだこっちに来るには、ちょーっと早いと思うなあ』



 懐かしい。この声を聞いているだけで涙が出てくるような。その声を最後に、俺の意識は水面から顔を出すようにはっきりしていった。




~~


「……知らない天井だ」



 目を覚ますと、木組みの格子状の高い天井があった。俺は、畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。そこは、現代の家屋にはほとんど見られない、襖や木造造りといった、いわゆる立派な屋敷の一室だった。


 窓の外から差し込む太陽の光に目を向ければ、玉砂利の上に置かれた飛び石に、立派な鯉が優雅に泳ぐ大きな池が見えた。そして樹齢三桁を超えていそうな松が一本、そびえ立っていた。



 寝起き特有のぼんやりした頭に命令する。だるさが残る体を起こし、物珍しそうにキョロキョロしてたのだが、



 ……待てよ。俺は車に轢かれそうになった母親と幼女をかばって、代わりにぶつかったんじゃ……?



 最後の記憶を思い出す。

 その瞬間、寒くもないのにぶるっと体が震えた。


 喉の奥にあった空気まで、一瞬にして凍てつくような感覚。背骨に氷の棒を突っ込まれたかのように、体が凍りつく。フラッシュバックした死の恐怖にガチガチ歯が鳴った。


 痛……あれ?


 そこで俺は眉間に皺を寄せる。



「どこも痛くない……?」



 試しに体を動かしてみるがピンピンしている。骨も折れていなければ、変な方向に関節も曲がっていない。それどころか、痣の一つもない。


 というか俺の服は……?


 とにもかくにも精神衛生上、他のことを考えることにした。そのお陰か、急激に上昇していった脈拍が、次第に落ち着いてくるのが分かる。



 寝ている間に着替えさせられたのか、俺は時代劇で見るような服――小袖を着用していた。ただ帯がちゃんと締まってない上に、袖に手が通っておらず随分と手荒な感じがした。

 はだけた小袖を着直しながら、俺は考える。


 服もそうだがデバイスや財布もない。一体全体どういうことだ?

 現時点の自分が置かれている状況が呑み込めず、混乱していると、サーっと襖が開いた。




「やっと起きたの、アンタ。呑気に寝過ぎなのよ、まったくもう」



 そう言って、部屋に入ってきたのは、ずぼらを匂わせる無造作ボブカットの少女だった。



 百四十センチちょっとの身長。

 年齢は小学校高学年くらいか。これから成長期に入るであろう未成熟な身体。

 キリッと整った眉に、同心円目。

 光の加減によっては、白にも見える灰色の髪。



 少女にしては、使い慣れたかったるそうな口調と仏頂面が、可愛らしい顔立ちを打ち消していた。

 それに加え、腰に手を当てて、薄い胸を反らした姿が、居丈高な印象を俺に与えた。


 腰には長さの違う二つの刀を差していて、子どもながらそれは、平たく言えば歴史の教科書で見た武人の出で立ちであった。


 予想外すぎる少女の登場に俺は唖然とする。

 そんな俺のことなどお構いなしに、小さなくちびるが再度動いた。


「……? 言葉忘れちゃった? ちょっと! 大人なのに喋れないの、おい。おーい」

「あ……。す、すいません」

「まったくもう。喋れるんじゃないの。喋れるなら最初から返事しなさいよ。あまりあたしの手を煩わせないで」

「…………」

「相槌」

「……え」

「あ、い、づ、ちぃ」

「あっ……はいっ」

「ふん。あたしは、カティシア・テシュよ。アンタは?」

「あ……えっと。東鬼修一と、言います」

「週一でしのぎを削ってるとは思えない、生気の抜けた顔。ぜいたくな名だわ」


 湯〇婆みたいなことを言う。



 俺の名前を聞いた少女は、子馬鹿にしたようにクスリと笑った。


 初対面で失礼では?



 そう思ったが、口には出さなかった。少女の圧というか。その身に宿す雰囲気。これが当たり前であるとばかりに、妙に様になっていたからだ。


 少女に人を舐めたような態度を取られ、大抵の人は怒りそうなものだが、怒りの気持ちはこれっぽっちも湧いてこなかった。元々感情の起伏が薄いこともあってか、俺はただありのままを受け止めていた。


 いや今はそんなことよりも……。



「あの俺には、何がなんだか分かっていないといいますか。どうしてここにいるのか、分からないのですが……」



 おずおず聞いてみると、少女がボサボサながらも艶のある髪を揺らして、俺の前で胡坐をかいた。

 胡散臭そうにこちらを見上げて、


「それはこっちが知りたいことなんだけど。アンタはいきなり宙から現れたの。あれは、どんな奇術を使ったのよ?」

「いきなり宙から現れた?」

「そうよ。男とは思えない貧相な体をよく堂々とさらけ出せたわね」



 そのまま。赤い、小さな唇が信じられない単語を形作る。



「だって全裸よ。路上で全裸」

「全裸……? はぁ……」

「このド変態。あー、最悪よ。最悪。目が腐り落ちそうだわ。まこと馬鹿じゃないの。あーやだやだ。あのキノコみたいな太くて長い棒が……うがあ。未だに脳裏にこびりついてるわ!」


 訳が分からなかった。


 当の少女にふざけた様子は一切ない。出鱈目な台詞をつらつらと。役者ならそれは見事な演技といえよう。というか、教えてくれたそばから不愉快そうだ。嫌なものでも見たと言いたげに、女の子はこちらを睨みながら舌打ちしてくる。


 って俺が路上で全裸!?


「は!? えぇ!!」

「うっさいわねー。うっさいのはその下半身だけにしなさい……て、思い出させるんじゃないわよ! チッ」



 俺の裏返った声に、少女が耳を塞いで、不機嫌そうに一人でツッコミを入れていた。

 さっきよりも睨みを効かせ、ヤクザ顔負けの迫力である。



 なんだ、これは……?

 あれか? テレビのドッキリか? いやでも一般人に突然こんな大々的な仕掛けをするはずがない。


 起きた時よりも状況が飲み込めなくなり、俺は当惑する。


 そんな俺の様子を、少女がじっと見つめてくる。まるで探偵の彼女は、それを見逃さないように、俺の一挙手一投足に注意を払っているかのようだ。しばし少女と目が合った。やおら俺への興味がなくなったらしい。探偵役をほっぽり出すように視線を外して、灰色の髪を指に巻きつけ、くるくるいじり出した。



「かったるい。なんであたしがこんなことを。はあ……次の質問。アンタ、どこから来たのよ」

「……紺屋、だったと思います」

「紺屋……? ふーん、聞いたことない地名ね」

「え……? 紺屋ですよ、紺屋」

「だから聞いたことないって申してるじゃない。今夜、紺屋って……二度も同じこと申さないで。紛らわしくて煩わしいのよ」



 少女は、俺の言葉にむすっと、ほんのちょっと頬を膨らませる。次いで俺に馬鹿にされたと思ったのか、イライラを隠すことなく、バンッと畳を叩いた。


 少女のなりとはいえ、普通に怖い。

 普段の俺なら身を竦ませるかもしれないが、今はそれどころではなかった。



 紺屋を聞いたことがない? 天照の首都の中心部だぞ? 天照に暮らしている人なら誰でも知っていると思うが……。ここは外国か? いやそれにしたら言葉が通じているのはおかしい。天照の言語は世界共通ではない。島国の天照だけ、と言っていい。


 ちらりと目の前の少女に目をやった。


 刀に小袖。現代のファッションからかけ離れている。まるで歴史の教科書にあった戦国時代の身なりだ。だが、つまり……それって……。いやそんなこと現実で有り得るのか?


 俺は、とある可能性にたどり着く。

 とはいうものの……信じがたい。そしてなんというか、じわじわと足元が落ち着かなくなるような焦りがやってきた。



「ちょっと! 自分の世界に入り込んで、あたしのこと無視しないでくれる? さっきからこのあたしに対して失礼なんじゃない?」

「あ、すいません。まだ起きたばかりで混乱していたもので……」

「ふんっ」


 俺の態度におかんむりな少女。

 だが俺は。彼女に聞かなくてはならない。浮かび上がった可能性が現実なのかどうかを。



 口を尖らせ、不満そうに鼻を鳴らした女の子に悪いと思いながら、俺は一度乾いたくちびるを湿らせて、


「先ほどは本当に失礼しました。こちらからも質問していいでしょうか。変なことを承知でお聞きしますが、ここはどこなんでしょうか……? それと今何年ですか?」

「はぁ……? なんでそんなこと覚えてないのよ! って、ああ。これって、ご領代の申してた通りなの……? えぇ……めんどくさい……」

「えっと……」

「なんでアンタなんかに教えなきゃいけないのよ。……不愉快。消えて。と申したいとこだけど、いいわ。教えてあげる。あたしもさっさと終わらせたいし。ここはヴェルナー領隻保よ。年は女王が地を治めて年号が変わったばかりの願楽(がんらく)一〇年。二〇七五年九月三日よ。これで満足?」

「教えてくださってありがとうございます」

「…………」



 言葉尻に苛立ちを滲ませつつも教えてくれた。

 素直に感謝を述べる俺を、少女が珍獣でも見たかのように目を見開く。


「ヴェルナー領……。隻保。女王。願楽一〇年……二〇七五年……。九月……三日」


 どれも聴いたことがない。


 俺も俺で手一杯だった。変な顔で俺を見つめる少女を放って、オウムのように彼女の言葉を小さく繰り返した。


 二〇七五年九月三日。

 過去に来たという訳ではなさそうだ。


 俺の中にあった可能性が、ふっと消える。



 戦国時代、紺屋という地名はまだできていない。だからもしや……と思ったんだが。

 最後の記憶から半年近く経っている。ただそれ以外、全くもってしっくりこない単語ばかりだった。


 目の前の女の子が、嘘をついていないのであれば、ここは俺が住んでいた天照ではないのは確実だ。外国でもなく、過去でもないのなら……、

 ここは俺が知っている世界ではない。どこか別の世界。異世界。



 それしか考えられなかった。

 突拍子もない考えかもしれないが、意外とそんなこともなかった。


 なぜなら、異世界転生してハーレムチート。異世界転移して俺TUEEE。女神なるキャラからぶっ飛んだスキルを授けられて、異世界での暮らしを謳歌する。奴隷のヒロインからお姫様のヒロインまで選り取り見取り。今も根強いファンがいるラノベ界の人気ジャンルだからだ。


 まだ確定ではないが、ほとんど。九割九分ぐらい異世界な気がしてきた。それならこのとんでも状況も、色々と説明がつく。説明がつくというか、理とか常識とか理屈とか、当てはめても意味を為さないから納得ができた。


「…………」



 なぜ俺が……。




 現実に嫌気がさしていたのは確かだ。小説を書く際に、人気ジャンルをおさえる意味で何冊か読んだことがある。だからといって、異世界転生とか転移したかったわけではない。



 そのまま殺してくれればいいものを……。


 どうして死にぞこなって、異世界なぞに来てしまったんだ。いるのか、いないかも分からない神様を、俺は心底恨んだ。

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