第4話 指南役のエルンスト・リーファース
髷――ちょんまげ
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数日後、ヘルミーネはエルンストの屋敷を訪ねていた。
その目的は、今回のカーバンクルの任に際しての指南の御礼と挨拶であった。
ヘルミーネは座布団に正座をしてエルンストのことを待っていた。
腰には本差の打刀と、その予備の脇差からなる大小を差している。背中に板でも入れているかのような綺麗な姿勢で、目を閉じ、落ち着きを払っている姿は武人そのものだ。
「いやー、お待たせして申し訳ない」
そんな軽い調子の声とともに、一人の男性が襖を開け、和室に入ってきた。
長い銀色の睫毛を上げたヘルミーネは、そちらに顔を向ける。
年齢は五十代半ば。白髪交じりの髪を髷(まげ)にして、友好的な笑みを携えた顔には、それなりに皺が目立っていた。年相応に痩せてはいるが、まだ冴え冴えした黒目をしている。ただ鍛えてはいないのか、袖から出ている手は、枯れ木のように細く、骨に皮を張り付けただけの弾力がなさそうな両手だった。
とはいえ、相手の緊張を和らげようとする柔和な笑みは、好々爺という言葉をあてはめたくなる。ヘルミーネに、そんな第一印象を抱かせる人物だった。
この御仁がエルンスト・リーファース様。……良かった。温厚そうな方で。
ヘルミーネは、多少なりとも安堵していた。
モニカが言っていた噂のことだ。その噂とは、エルンスト・リーファースは金子にがめつく、女に目がない老獪な領主、というものだった。
すでにグラオザームをお受け取りになったはず。ですが、不機嫌そうな様子は見られません。むしろ上機嫌ですね。やはり噂は噂。大小を差していませんが、リーファース様も武人の一人なのですから。
音もなく襖を閉めると、彼はヘルミーネの対面に腰を下ろした。
ヘルミーネはその機会を見計って、すらりとした身を平たくし、
「お忙しい中、お時間を作っていただき誠にありがとうございます。お初にお目にかかります。某はヴェルナー家領主ヘルミーネ・ヴェルナーと申します」
「これはこれはご丁寧に。挨拶が遅れましたな。わしはエルンスト・リーファース。此度、そなたたちの指南役を司ることとなった。短い付き合いとなるが、よろしく頼みますな」
「はいっ。某にとってカーバンクルの任は初めてのこと。リーファース様がこれまで取り仕切ってきたカーバンクルの任、そのどれもが女王からお褒めの言葉を授かった、と聞き及んでいます。そのような方に指南して頂けるのは、我が身に余る光栄。若輩者の某ですが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「うむ」
感触は上々だ、と思うヘルミーネ。
リーファース様もお忙しい身。適度に世間話に花を咲かせつつ、折を見てお暇しましょう。今日は頑張りました、わたくし。帰ったらご褒美に甘いものを食べて、ゆっくり寝ることとしましょう。
ここにきて、ようやくヘルミーネは、ほっとして少しばかり肩の力を抜くことができた。
「ヴェルナー殿は至って生真面目な方だとお見受けした。わしとしては、大船に乗ったつもりでいてほしいのだが……」
そこまで言って、エルンストの視線がちらりと彼女の横へと移った。
その先には長方形の包みがあった。
ヘルミーネはそれに気が付かない振りをして、持参した包みをエルンストに差し出す。
「ほう、土産とはかたじけない。ふむ。ここで開けてもよろしいかな?」
「是非に。気に入っていただけると某も嬉しく思います」
「どれどれ」
にんまりした笑みを携えてしきりにうなずくエルンスト。
その様は、まるで目の前のおやつを楽しみにしている童のようだった。
長方形の包みを受け取った彼は、一瞬目を輝かせるも、すぐにつまらなそうな顔になる。気だるげな様子で包みの中にあったものを手に取ると、
「ヴェルナー殿。こちらは?」
「そちらは、我が領地で採れた鉱石を使いましてヴェルナー家お抱えの刀師が、一から叩き上げた『オサフネ』でございます。あらゆる災厄を払う守り刀として、リーファース様に重宝し……てい……」
ヘルミーネの言葉は最後まで続かなかった。否、続けられなかった。
それは、目の前の御仁が能面のように無表情だったからだ。
「……お気に召しませんでしたか?」
ヴェルナー家領主の白く透き通った首に一筋の汗が伝う。
エルンストは、右手に持った刀を抜くこともせず、鞘ごと子どもが駄々をこねるみたいに畳に叩きつける。かと思えば、左の手のひらにペチペチ当てて、いかにも不満げだと振る舞う。
あまりにぞんざいな扱いに、彼女の形のいい眉がピクリと反応するが、
「リーファース様のお気に障ってしまったようで、申し訳ありませぬ。武人ゆえに配慮に欠けておりました。何卒ご容赦くだされば」
「はぁ~。これだから田舎の武人は。礼儀の作法も知らんとは。いやシュピラーレ家はしっかりしておった。となると、ただ単にヴェルナー殿が小娘だからか」
「………………え? い、今なんと」
面を上げたヘルミーネの顔は、鳩が豆鉄砲を食らったような呆けたものだった。まさか、真っ向から悪口を吐かれるなど、思ってもみなかったからだ。
女王が頂点に君臨する身分制度。その下の領主は皆、同じ枠組みに入っている。しかしながら、その中でも優劣はあった。自身が治める土地の価値である。簡潔にいえば、土地の生産力を数値化したものだ。その数値を元に領主の位が決められていた。ヴェルナー家は五万に対し、リーファース家はたったの四千二百。この場合、数値が高いヘルミーネの方が立場は上のはずだが、女王の親類とあってエルンストの位は、高く設定されていた。それによって彼女よりも、エルンストの方が位は高かったのだ。
自分よりも格下の領主に対して、エルンストの舌は、止まることをしらない。
「現女王がこの世を治めて一〇年、戦などなくなって久しい。グラオザームなんて兵器なぞ要らんわ。蔵の荷物でしかないわ。持参金でもあるのかと待っておれば、手土産が刀とは。なにが武人。時代錯誤も甚だしい。ああ、そうか。そちの名産は武具でしたな。いかにも頭が固そうじゃからな。きっと頭も鉱石でできておるのだろう?」
「先ほどからい、いったい何を仰って……」
ヘルミーネの中で何かがガラガラと崩れていくようだった。
そんな唖然とする彼女の姿を見て、エルンストは小動物を発見した蛇のように、妖しく目を光らせる。
「そもそも武人、武人と申していられるのも女王の計らいがあってのこと。平安な世でするままごとは、さぞ楽しいでしょうな」
「……ッ!?」
エルンスト・リーファースの本性は噂の通りだった。目上の者にはゴマを擦り、下の者には自分の位の高さを楯に、傍若無人の振る舞い。それを勝手に好々爺だの好印象を抱いたのは、ヘルミーネの方だった。
自業自得だが、その落差が凄まじかった。始めから手酷くされるのと、淡い期待を持っていた状態で地の底まで落とされる。前者と後者では、精神的損傷の度合いが全然違った。
ヘルミーネは顔を青くし、体をふらつかせるも、なんとか耐える。
「…………」
「ほう。これだけ申されても黙っておるとは。わしはヴェルナー殿のことを少々侮っていたかもしれませんな。いやはたまた、ヴェルナー殿の持つ武人の心とは、それくらいのものなのですかな。確か……武人が面と向かって悪口を吐かれるのは、殺人罪と同じくらい酷い侮辱、だったのでは?」
彼はにやにやと、平気な顔でうそぶく。
何が『確か……』だ。あなたは、最初からそのことを知っている上で、わたくしを罵っているではありませんか……っ。
ヘルミーネは胸中で吐き捨てる。
リーファース家領主の化けの皮が剥がれて、今にして思えば、生真面目な方という言葉が、皮肉たっぷりだということが嫌でも分かってしまった。
怒りのあまりヘルミーネの体がわななく。膝に置いた両手に力が入り、爪が皮に食い込んで薄い手のひらが、破れそうになった。くちびるを強く噛んでそれらを我慢する。
美麗な顔立ちに、どこか幼さと神聖さを感じさせる彼女の容姿。憤怒で雪のような真っ白い肌に赤みが差す。その顔が歪むさまは、エルンストの嗜虐心を大いに満足させた。立派な庭園から琥珀色の西日がじりじりと照りつけ、一つにまとめられた長い銀色の髪へと反射して、きらきら光る。
卑しく目を細めたエルンストは、それを肴に咀嚼音をクチャクチャと立てながら、茶請けを食べ進めた。皿にあった茶請けをすべて平らげ、食べカスのついたざらざらに荒れた唇をちろりと舐め上げる。それらの動作にたっぷり時間をかけ、ひとつ咳払いをした。
「こう怒っていてはわしの狭量が知れよう。わしは寛大でな。そちの無礼を事と次第によっては水に流してもよいと思っておる。聞くところによると、ヴェルナー殿は床に伏していることが多いと聞く。それもあって未だに伴侶がいないと。ぐふふ、生娘なのだろう。どうだ、わしが直々に手解きしてやってもよいぞ」
膝立ちになったエルンストが、阿呆みたいに腰をカクカク振るうような仕草をした。
この人はどこまでわたくしのことを愚弄すれば……ッ!
そこでついに、口をつぐんでいたヘルミーネの堪忍の緒が切れる。
彼女は、キッと睨んで額に青筋を立てた。
「あ……あなたに! あなたに武人の心はないのですか! 金子を貪ることに飽き足らず、卑劣な手を使って体の要求などっ! 武人どうこう以前に、民を率いる領主として考えられない振る舞いですっ。領主ならば一度その汚い心を見つめ直して、自身の行いに恥を知るべきです!」
悔しくて情けなかった。
正面切って悪口を言われたのにも関わらず、何も言い返せなかった自分が。身分や位に縛られた自分が。そしてそれを理解した上で最後まで貫き通せなかった自分が。
彼女の赤眼から涙が頬を伝う。唇が切れ、真っ白な肌に、一筋の赤い血が滴る。怒りで己を律せなかった。
「某はこれにて失礼いたします!」
「短絡的な小娘だ。一回抱かれるだけでよいというのに、そんなこともできないとは。そちこそ領主の何たるかを分かってないのでは? ふんっ、民よりも我が身が大切か。本当によいのだな?」
「……んぐぅっ。失礼しますっ」
目元を乱暴に拭い、立ち上がるなり、ヘルミーネは彼を見ることなく部屋の外へと出て行った。
「ちっ、身の程を弁えろ田舎娘がッッッ!!!」
一人残されたエルンストは、右手に持っていた刀を乱暴に投げ捨てた。勢い任せに投げ捨てたそれは、部屋の角にあった絢爛な屏風をなぎ倒す。刀は、勢い衰えぬまま壁にぶつかり、ものすごい音を立てて畳に転がった。ぱらぱらと、天井から土埃が落ちてくる。
彼が、ここまで腹が立ったのは久方ぶりのことだった。
女王の威を借りて好き放題やってきたエルンスト。
それが今回通らなかったからだ。
そもそも素直に金子を包めばよいものを。それが何だ。体を差し出さないばかりか、武人だがなんだが知らんが、群れないと何もできない人間のくせに、このわしに対して恥を知れだと?
「調子に乗るな。ふざけるなよ、ヘルミーネ。矮小な人間の分際で、このエルンストに楯突いたこと決して忘れぬぞ。抱くだけでは許さん。泣いて、鳴いて、喚かせて、媚びへつらわせてやる。いかに自分が小さきものか。あのクソ生意気な顔を恐怖に。絶望の色に染めてやろうぞ。あひゃひゃ……あるいは憎悪を満たさせて、下等の獣らしく、本能の赴くままに牙を剥かせるのも一興よな。あのお高く留まった心が壊れるとき、貴様はいったいどんな表情を見せるんだろうなあ、ヘルミーネ・ヴェルナー」
賄賂に手を染めなかったヘルミーネの心持ちは、素晴らしいものだ。
しかしながら、エルンストに対しては悪手の他なかった。
一見真面目とは聞こえがいいものだが、時と場合によっては考えなければならないかもしれない。
彼らのやり取りは、そのように思わざるを得なかった。
「あひゃ、あははははははははははは」
エルンストの金色の瞳がどろりと昏く揺れる。
この日を境に、エルンスト・リーファースによるヘルミーネ・ヴェルナーへの執拗ないじめが、始まるのだった。
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