手の怪

ラッキー平山

手の怪

 陽子は雄二の運転する車で海岸沿いの国道を走っていました。五月の晴れた午後、窓の向こうに白いコンクリの塀が延々と続き、その先には広大に横たわる海が青く輝いて、水平線の上に綿のような雲がもくもくと立ち上っています。窓から差し込む日差しはぽかぽかと温かく、吹き込んでくる風も涼しく爽やかで、絶好のデート日和でした。

 ですが、二人の気持ちは重く緊張していました。そして同時に、そこそこ興奮もしていました。



「この先でいいんだよな」

 ナビを見て雄二が聞くと、陽子は上目で画面を見つめて答えました。

「ええ、宿の看板があったから、間違いないわ」

 その重々しい口調に、雄二はなだめるように言いました。

「大丈夫だよ」

 煙草の灰を灰皿に落とし、笑いかけます。

「絶対、誰かいたんだって。ああいうのが写るときって、たいてい場所を詳しく覚えてなくて、よけいに不安になるんだってさ。

 でも、俺らは大丈夫。場所、覚えてんだから」

「で、でも、もし」

 声を不安に震わせる陽子。

「誰もいられないところだったら、本当に――」

「だからそれを、これから確かめに行くんだろ?」

 そう言うと、うつむく恋人の肩に手をやり、雄二はこういうときこそ男としてしっかりしよう、とはりきっているようでした。


「もしそうだったら、そのときは――これさ」

 スマホの入っているポケットを叩き、口元を吊り上げる雄二。そこには、ある人物の電話番号が入っていました。




 二人が以前、この辺りへデートに来たのは、先週のことでした。今日のように車で海岸沿いを走り、ぴんときた場所に降りると、そこで写真を撮りました。

 カメラは最初は雄二の趣味でしたが、陽子も次第に興味を持ち、最近は自分用の初心者向けを買って、デートのときは一緒に写したり、たがいに写しっこしたりしています。

 その日も二人はカメラを楽しみました。そして何箇所か撮ったあと、問題の場所に停まったのです。


 陽子は周りを見回して、そんなにいいところでもない気がしましたが、(彼も、急に撮りたくなったんだろう)と思い、一緒に降りました。塀の前に縦長の白い看板があり、「○○宿」と、かすれた、いかにも古そうな、和風の黒いくずれ字で書かれています。

 雄二は陽子に、その看板から右に数メートルほど離れた位置に立ってもらい、カメラを構えました。

 フレームの中では、左端に爽やかな青のワンピースを着た陽子の上半身、バックには白の塀。それがずっと右端まで続き、その上に顔を出す海がきらきら光っている……という、絶好のアングルになっていました。


 ところが、何枚か写して車に戻ると、雄二はけげんな顔で聞きました。

「どうした? なんかあったか?」

「えっ、ううん、なんでもない」

 陽子は笑って首を振りましたが、実は写されるとき、自分の左側に何か嫌な感じを持ったのです。誰かがいるというか、それがたんに人の気配というだけでなく、変に気持ち悪いのです。もちろん二人のほかに誰もいなかったし、気配などあるはずもないのですが。

 にもかかわらず、そこの雰囲気は、とにかく嫌でした。まがまがしいというか、言いようのない不吉さというか。それは今までの日常で感じたことのない、不思議な感覚でした。

 でも、それ以上のことはなく、(やっぱり気のせいか)と思い、そのことは黙っていました。



 しかし、その数日後のことです。

 カメラ屋から写真をもらってきた雄二は、彼らしくない、ぎゅっとしたしかめっ面をしていました。店員が「どうしても欲しいですか?」とうるさいのを無理にもらってきたのが、その問題の宿屋の看板近くで撮った数枚の写真でした。

 三枚のうち、二枚はなにもなく綺麗にとれていました。ところが残りの一枚に、不気味な、あるものが写っていたのです。

「手……だよな、これ……」

「うん……手、だね……」

 重くつぶやく雄二と一緒に写真を見ながら、陽子も眉を寄せて言いました。


 写すときに雄二がフレームで覗いた光景と変わらず、写真の左端には、笑顔でたたずむ青いワンピの陽子。そのバックの白い塀が、そのまま右端まで続いて、その上に光る青い海。そこまでは同じでした。

 しかし、塀の右端の部分が問題でした。白い塀の上から、向こうからこちらを覗くように、人間の白い右手が、ひょいと出ていたのです。


 てのひらをやや広げ、指先が少し前に曲がっており、なにかをつかみかけているような、あるいは引っかこうとしているような感じ。そして手首の下には、ひじの手前くらいまでのひょろりとした腕が、下にまっすぐに伸びて、塀のところで途切れています。指と腕の細さと色の白さからいって、女の手のようです。


 どう見ても塀の向こうから誰かが手を出しているとしか思えませんが、その構図は、この爽やかなショットにはあまりに不似合いで、しかも見ていると、なにか心をかきむしるような、異様な不穏さがありました。こんな場所から人の手が出ているのは、かなり変な光景です。

 向こうに人が立てるところがあるなら、誰かのイタズラか、もしくはその人が何かをしているときにたまたま写ってしまった、ということでいいのです。しかし、もしそこが誰も立っていられないような場所――たとえば下が海しかないとか――だとすると、かなりの問題です。そうなるとこれは、よくある「その場にあるはずのないものが写ってしまった」という超常現象、すなわち心霊写真のたぐいになってしまいます。


 雄二は写真屋でそれを見るなり、たちまち嫌な気持ちになり、彼の部屋でそれを見せられた陽子も、顔をぐっと曇らせました。持って帰るとき、彼女に見せないほうがいいのでは、と一瞬思いましたが、その不気味な手はネガにもはっきりと写っており、尋常ではないと思ったので、思い切って見せたのです。



「でもこれ、ほんとに幽霊かな」

「うーん……」

 聞かれて雄二は、ちょっと考えてから言いました。

「後ろに立てる場所があれば、その可能性はずっと低くなるんだが」

「じゃ、確認しましょうよ」


 場所は目印があるから分かっています。もちろんまた行くなんて面倒だし嫌ですが、二人とも、これをこのまま放置するには、あまりに気持ち悪すぎました。

 それで写真を撮った日の翌週、二人は有休をとって、再びそこに出かけたわけです。



「いざとなったらさ、ここに電話するから。なぁに心配ないよ」

 そう笑ってシャツの胸ポケットを手でぽんとやり、ハンドルを切る雄二。大学時代の友人にプロの霊能者がいて、その人に相談済みだったのです。電話すれば、いつでも写真を浄霊して処分してくれることになっています。


 この世ならざるものが憑依している物品――たとえば今のような写真、ほかによくあるのは人形、着物など――を焼いて霊を浄化することを、「お焚き上げ」というそうですが、それがその人の得意分野だそうで、だから安心しろと言われましたが、オカルト関係で得意分野という言い方が、なんだかおかしくて陽子は笑いました。暗かった顔にぱっと花が咲いたようで、見ながら雄二はほっとしたのでした。




 海岸沿いの国道に入って十分ほどで、それが見えました。停めて左の塀を見ると、この前と同じく縦長の白い看板が立っていて、かすれた「○○宿」の黒い崩れ文字があります。確かにここです。

 降りる前、雄二は忌々しい写真を取り出して、もう一度見ました。そのとたん、眉間にしわが寄り、目が大きく見開きました。驚いて「ど、どうしたの?」と聞く陽子に、彼は険しい顔で、黙ってそれを差し出しました。




 さて。

 ここで、現実的な皆さんには、とてもバカバカしく思われる展開になります。しかし、事実なので仕方ありません。ここは、本当にそうだったと思って読んでください。




 写真を見た陽子も、同じく目を見開きました。左端にいる自分とバックの塀は何も変わっていません。

 が、問題は手です。

 右端にあったはずのそれが、なんと真ん中辺りまで移動し、同じように何かを握ろうとする形で、まっすぐに立っているのです。しかも、その指先が心持ち彼女のほうに向いているように見えました。それは、明らかに彼女に近づいています。写真にうつっている画像が変化するなど、普通はありえませんが、その手は完全に動いていたのです。


「電話する!」

 突然の事態に、雄二は叫んでスマホを取り出しました。なかなか出ないので舌打ちしていると、いきなり左から、消え入るようなか細いすすり泣きが聞こえてきました。驚いて見ると、泣きぬれた陽子が、悪さをした子供のように、写真をおずおずと差し出しました。

 受け取って見るや、「あっ」となりました。

 写真の中の手が、今度は左端にいる陽子の左肩の上からわっと突き出し、今にも彼女につかみかからんとしていたのです。



 そこで友人が出ました。とたんに怒鳴るように言う雄二。

「大変なんだ! どうすりゃいいか、教えてくれ!」

「待て落ち着け、まずは説明しろ。なにがどうした?」

「あ、ああ、あの写真なんだが、その、例の手が――」

 動揺しきってろれつも回らずに言いかけて、ふと止まりました。とつぜん黙ったので、今度は電話口の友人があわてました。

「おい、どうした雄二?! 手が、どうしたんだ?!」

 しかし雄二は、ただじっと下を見たまま動きません。


 なぜなら。

 いま話しながら、ふと握っている写真に目を落としたとき――

 それが、あったのです。


 写真の中に陽子はいませんでした。左端のその部分には、彼女のかわりに、さっきのひょろりとした細い腕が、一本の木のように長々と上に伸びて、その先端には広がった手が、さっきと同じく、何かをつかむ形で指先をこっちに、ぐっと向けていたのです。まるで、今この一瞬のうちに、写真の中の陽子と腕が入れかわったようでした。


 ふと、隣の気配が一気に変わったので、雄二はぎょっとして固まりました。恐る恐る横目でちらと見ると、どうも助手席に何か細い枝のようなものが立っているようです。

 背筋が一気にぞっとなり、思わずそっちを見ました。

 陽子は、いませんでした。


 代わりに席の上にあったのは、木のように立っている、あの白い腕でした。それは天井辺りまで伸びて、ひらいた手が蛇の鎌首のようにこちらを向き、曲がった鋭い指先を彼の顔にぐっと突きつけていました。

 悲鳴をあげ、ドアの外に飛び出そうとした彼の首に、指がぐるんと巻きつきました。万力のような力でぐいぐい締め上げられ、彼は目をむいて、低く「ぐほおおっ!」とうめきました。


「おい、どうした雄二?! もしもし!! もしもし!!」

 叫びのするスマホを床に落とし、雄二はそのまま白目をむいて沈んでいきました。ドアがあき、彼の死体は外にずるりとこぼれ落ちて、動かなくなりました。車内の腕は、もうありませんでした。


 写真が路面にすべり落ちました。

 そこには、もう誰も写っておらず、ただ白い塀と海だけが、延々続いているばかりでした……。






 ここまで読んで、おかしいとお気づきでしょう。実話のはずなのに、たった二人しかいない登場人物が、どちらも死ぬか消えてしまったのです。それなら、いったい誰がこの事件を目撃し、他人に伝えたのでしょうか? さぞや、「そうか、きっとこれは、よくあるいい加減な都市伝説の一つだろうな」と、鼻白む思いでいらっしゃることでしょう。


 実は、一部始終を見ていた者がいます。

 私です。



 実は私は、この話の手の持ち主なのです。わけあって、もう腕しかありませんが。何者なのかを説明している暇はありませんので、たんに以前、この写真の中の海で、事故かなにかで死んだ一人の女だ、とでも思ってください。


 ええ、確かに私が二人を殺したのです。だから、この話の中で、人物が二人とも死んでしまっても、全然オッケーなのです。殺した手が語っているわけですから。



 信じられないでしょうが、これは事実です。

 だって私は、さっきからほら、今これを読んでいるあなたの後ろに、こうしてじっと立っているのですから。

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