二章 絶対的存在


 早朝、トイレに行くと美輪が便器を磨いていた。起床時間にはまだ早いにもかかわらず、タオルを頭に巻いていそしんでいる。充満する洗剤の香りが鼻を突いた。


「こんな朝早くから何やってんだよ?」

「しまった……。見られちまったか。俺の善行を」

 

「徳を積むためにトイレ掃除だよ! ひたむきな努力は嘘をつかないからな」

 聞けば美輪は入学当初から早朝のトイレ掃除を欠かさず続けているらしい。


「努力の方向性が違うだろ!」


「みんな努力はしてるんだ。努力はあたりまえ。その先に必要なものは。日頃の行いの良さが運を引き寄せるからな。運を上げる努力こそ成功者への近道さ」


 信心深いのか、バカなのか? 

 こころざしは否定しないが、この男の思考はいつもどこかズレている。


「深井、お前知ってるか? 馬券で勝ってる奴は全国で5%しかいないんだぜ! 95%の人間は負け組、つまり養分さ。ところがな、たった5%の勝ってる人間でさえ、回収率は110%くらいしかない。一万円賭けたとして千円の儲け。僅か10%の利益しかない。100%がトントンだからそれのちょい上。死に物狂いに努力して、たったそれだけ。普通のことをしてたら普通以下になる。勝者になるってのはそーいうことだよ!」


 僕は美輪の力説に肩をすくめ、呆れながら尋ねた。

「……ところでさぁ、例のサラブレッドの話はどう思う?」


「……うーん、まぁ、卒業する頃には何かが分かるかもな」

 美輪は気にする素振りもなく、再び便器を擦り出した。


「親は誰なのか? とか、これからどうなる? とか、色々と気になることあるだろ!」

 僕は無関心な美輪に腹が立ち、捲し立てるように声を荒げた。


「気にしてもしょうがないだろ! 今を楽しまなきゃ損だぜ! 今を一生懸命に生きる。それが人生ってものよ」

 手を止めた美輪が諭すように言った。

 正論だとは思うがトイレ掃除イコール一生懸命に生きるなのか? と疑問が浮かぶ。釈然としない僕がため息をつこうとすると、


「そうだ! いいことを思いついた!」

 美輪がおもむろに立ち上がった。何事かと身構える僕に、神妙な面持ちで顔を近づけてくる。鼻先がくっつきそうな程の距離にたじろいだ。


「何だよ?」

 僕は押し付けられる眼差しに思わず息をのむ。時間が切り取られたかのようにすべてが固まった。しばらくの間をおいて、


「誰がゴッドの遺伝子を受け継いでいるか? みんなで賭けようぜ?」


 シャーーーー。

 便器の水が自動センサーで一斉に流れ出し、その音で再び時間が動き出す。


「はぁ?」

 絶句した。またもやギャンブル。

 美輪に期待した僕がバカだった。


「なっ! 名案だろ?」


 なにが名案だ!

 やはり、こいつは狂っている。



 公式戦四戦目。

 ゴッドの遺伝子を受け継ぐ者と噂される三ヶ日が、一人で3ゴールを叩き出し本領を発揮した。いとも簡単にハットトリックを成し遂げる。

 これで2勝2敗。振り出しに戻った。


 三ヶ日の秀でた能力はいくつかあるが、特筆するべきはバランス感覚だ。圧倒的なフィジカルを誇る巨漢のメジロンを「大木」と表現するならば、三ヶ日は「柳」。しなやかな筋肉はあらゆるものを受け流す。柔軟さに裏付けされたバランス感覚は重心を自在に操った。

 右側へ移動すると見せかけて、着地の反動を利用し左サイドに展開する。相手の重心をズラすテクニックが抜群に上手い。スローダウンしてディフェンスと対峙し、フェイントを入れてからの動き出しが速いため相手はついていけない。

 それに加えてシュートやパス精度の高さ。ボールコントロールの巧さ。類い稀なるテクニックとスピード。複数のユニークスキル。

「七人抜き」という偉業を成し遂げたゴッドもまた、三ヶ日のようにバランス感覚の優れた選手だったと聞く。ゴッドの遺伝子を受け継ぐ者と称されるのも納得がいった。



 入学初日、僕は負けを認めた。

 絶望からのスタート。

 気づかない振りをして必死に足掻あがいた。

 心の奥底で自称、聖剣をチクチク突き立てる勇者を押さえ込んだ。

 本来なら、そこで諦めて、他の道を探すのが正解だったのかもしれない。

 絶対的存在「三ヶ日」。

 魂レベル?

 人生、何周目?

 命を授かった瞬間に、超えられない壁も同時に授かった。スピリチュアル的思考をこじつけて逃げた。


 今もそれは変わらない。

 近づけば近づくほど、遠のいていく。


 そこに突如として舞い込んできたサラブレッドの噂。

 遺伝子が受け継がれていたとしても、覚醒するわけではなかった。三ヶ日との差が縮まるわけでもない。何も変わらない現実と、家族に対する違和感だけをもたらした。


 学校に二つしかないエースナンバー背番号10。

 かつてのゴッドが、日の丸と一緒に背負った数字。

 僕と三ヶ日に与えられた。

 対等ではない。

 僕なりの背番号10を模索するしかない。



 新しく美輪が始めたギャンブル。

 ゴッドの遺伝子を受け継ぐ者は誰か?

 皆が三ヶ日に投票した。

 その中で美輪だけが自分自身に投票していた。


「本命を買う奴はギャンブルの本質を分かっていない! 俺は大穴の自分に投票する!」


 お前ゴールキーパーだろ?

 美輪に常識は通用しなかった。


 今日は3失点か……。

 トイレ掃除を強化する必要があるな。

 そして、懲りない男でもあった。


 サッカーはゴッドや三ヶ日だけがすべてではない。そう、自分に言い聞かせた。




♢♢♢


 ビワハヤヒデ

 最強馬として確固たる地位を築くも3歳時はウイニングチケットの引きたて役。有馬記念ではトウカイテイオーの引きたて役。古馬になってからもその境遇は変わらず「」の馬と呼ばれる。公式のキャッチコピーは「鮮やかに、ひたむきに」。

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