一章 英雄
トイレで用を足していると、隣にゴブリンが並んだ。
「話、広がっちゃったな……」
無言で立ち去るわけにもいかず、
「なんか、プレッシャーだよな」
そう答えて洗面台に向かった。「プレッシャー?」後頭部に投げかけられた。話を広げるつもりはなかったが、やむなく続けた。
「……ああ、サラブレッドの話」
そこで、気がついた。ゴブリンの父は元日本代表。いわばサラブレッドの先輩。
ずっとその重圧と戦ってたんだな……。
なんとなく親近感を覚え、
ゴブリンが終わるのを待ってから、並んで手を洗った。
「サラブレッド? どっちかと言うとお前らはモルモットじゃない? 実験に使われるヤツ」
自分はサラブレッドで、他は実験用のネズミ(モルモット)。区別していた。実験用という響きが心を
「まあ、気楽にやれよ。遺伝子が優秀でも受け継がれるとは限らないしな」
お前もだろうが! 飛び出そうになった言葉をのみ込んだ。
「……
「分かってくれた? まあ、お互いに頑張ろうぜ!」
ゴブリンは水しぶきを払うと、僕の背中をポンポンと叩いて出て行った。
お前、今、濡れた手を背中で拭いただろ!
──進級テスト合格発表当日。
川上と誰よりも早く掲示板の前にいた。尾栗に、先に言われるのを避ける魂胆だった。周りを見渡し尾栗がまだ来ていないことを確認する。
視線を掲示板に移すと二人の名前があった。
「やったな!」
「よかったー!」
川上と握手を交わして胸を撫で下ろした。
あと一年。なんとか踏みとどまった。
プロサッカー選手に成れるか成れないかはともかく、卒業も出来ずに、おめおめと逃げ帰るわけにはいかない。
川上と喜びを分かち合っていると、ぞろぞろと人が集まり出した。
「お前達、不合格じゃなかったのかよ!」
トラブルメーカーゴブリンだ。不合格を決めつけているかのような言い回し。関わらない方がよいと、瞬時に悟った。
「殺処分にならなくてよかったな」
得意の挑発行為。分かっていても腹立たしい。巻き込まれないように心を落ち着かせる。
「いいよな。モルモットは実力とか関係なくて」
自分のことは棚に上げやがって! と、
「お前の母さんブスで誰にも相手にされなかったんだろうな! だから種付け馬の餌食になるしかなかったのさ!」
これは一発退場のレッドカードでいいだろう? 冷静に対処をしようとしていた自分が情けない。
僕の平常心はぶっ壊れた。
コイツをぶん殴ろう。
ゴブリンの挑発にまんまとのせられた。
それでも構わない。ぶん殴る。
川上が僕を押し退けるように前に出た。
「お前、ふざけんなよ!」
高ぶった感情が川上によって遮られる。勢いに負けて一旦、握りしめた拳を
「なんだよ川上。小動物みたいな顔しやがって! お前はスーパースターの遺伝子じゃなくて、ハムスターの遺伝子だな」
ゴブリンのユーモアは笑えない。ただ悪口としてはナタの斬れ味のように重い。
「いい加減にしろよ!」
「おーこわっ!猛獣注意の看板でも出しとくか?
川上の表情が豹変したのが分かった。
退学上等。ぶん殴る。再び拳を握り直した。
そう思った瞬間、先に拳を振り上げたのは川上だった。
「殴れるもんなら殴ってみろよ! サッカー選手は手を使えないから無理だろう? ルール違反だもんな!」
「クククッ。今のうまいだろ?」
そう言ってゴブリンは自分の頬を差し出し、ペチペチと叩いてみせた。
ドンッ!
悔しさのあまり川上は壁を蹴り上げた。行き場所のない怒りを壁にぶつける。異様な雰囲気に辺りが騒然となった。
──その時だった。
僅かな呼吸音が聞こえ、群衆を縫うように飛び出してきた。人影は重心を低く落とし、瞬く間に懐に潜り込んだ。
烈火の如く標的目掛けて、直線一気の閃光。
全身全霊の一撃を浴びせた。
ゴブリンが宙を舞う。
竜巻のように
ぶん殴ったのは、尾栗だった。オーク並みに鍛えられた腕力。破壊力抜群の鉄拳制裁。
「痛ァー! 親父にいいつけてやるからな!」
「ただで済むと思うなよ!」
ゴブリンが頬を抑えて激昂した。
真っ赤に充血した目を潤ませて、尾栗を睨みつけていた。
「俺は退学が決まってんだ! 怖いものなんかないわ!」
その言葉で初めて気づいた。
──掲示板に尾栗の名前はなかった。
翌朝、尾栗の見送りに来ていた。
海の匂いと静かな波音に海鳥の鳴き声が折り重なる。なんの変哲もない小さな港。思えば二年前、僕は尾栗と一緒にこの港に降り立った。
無神経で
厚かましくて
バカで、単純で
熱くて、面倒くさい奴。
そんな奴からようやく解放される。
待望のお別れだ。
「競馬、勉強したんだよ。俺、
ズッコンバッコン!」奇抜な腰つきに川上が爆笑した。
「それって名馬じゃないとなれないだろ!」
「サッカーはここじゃなくてもできるからな。絶対プロになって活躍してやるよ!」
「種牡馬は
僕達は噂の一件以来、競馬に詳しくなっていた。
初めまして。20歳です。優しくして下さいね。
任せてください! 僕もう我慢できません!
それでは早速、始めましょう!
ごめんなさい。ここからは相手が変わりますね。
どーも48歳です。よろしくねー!
てな、感じ。
「種牡馬も大変だな……」
いきりたった雄は簡単には止まらない。
三人の視線が複雑に絡んだ。
フェリーの出港時間が近づくと、尾栗は荷造りしたスポーツバッグを肩から背中に回して背負った。パンパンに膨らんだバッグが遠心力でフックを描く。それが川上の顔に当たり、小さな悲鳴が聞こえた。
「いたっ!」
「あ、ごめん!」
「じゃあ、お前達、俺の分まで頑張れよ!」
不恰好な別れ際。
最後の最後までスマートじゃないな。
尾栗らしいといえば、尾栗らしい。
「俺は諦めたわけじゃねーからな! 絶対に!」
尾栗はそう言ってフェリーに乗り込んだ。
かっこつけてんじゃねぇよ。
なにが、絶対に! だ。
お前の口癖はいつも押し付けがましいんだよ!
絶対なんてものは存在しないだろーが!
オークらしく序盤で死にやがって。
入学式の威勢はどこいった?
川上が目を潤ませて、
突然、わんわんと泣き出した。
やめろ。もらい泣きしそうになる。
ちょっと想定と違うだろ。
ちきしょう。
子供の頃からワンセットだった。
ずっと一緒だった。
お前がいたから……、
お前がいてくれたから……。
尾栗は高い身体能力を評価されて、ディフェンダーへの転向を勧められたそうだ。サッカーの花形ポジションはフォワード。尾栗はそこにこだわった。生きるためには柔軟さも必要だが、やりたいことを突き詰める頑固さも必要だ。
尾栗のような自己肯定感が強い人間は、誰に何を言われようが、自分を信じて、力でねじ伏せるしかない。
汽笛の音に
尾栗が船上から拳を突き出し、ガッツポーズをみせた。
二人の代わりにぶん殴ってくれた、その拳。
それこそ、まさに「ゴッドハンド」。
あの時、ゴブリンを殴れるのは、退学が決まった尾栗しかいなかった。マラドーナがアルゼンチンの英雄なら、尾栗は僕らの英雄だ。
英雄との別れに目頭が熱くなった。
拳が霞んで見えなくなる。
【栄光と挫折と】
【熱狂と失望と】
【そしてあの】
【奇跡のような結末。】
【常識も退屈も】
【すべてを吹き飛ばす】
【怪物に魅せられた僕ら。】
【競馬には一生を懸けて】
【追いかける価値があると】
【教えてくれたのが彼だった。】
※名馬の肖像 オグリキャップより引用
♢♢♢
オグリキャップ
決して良血とは言えない血統背景。元々中央で走らすことを前提に交配された馬ではなかった。岐阜県・笠松競馬場でデビューし中央に移籍してからG1四勝。「地方の星」「
道端の雑草や馬房の寝ワラを食べてしまうほど、食欲旺盛な馬。数々の困難を克服した強靭な精神力を持った馬だった。
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