一章 罠

 サラブレッドについて調べた尾栗は背筋に緊張が走った。


 ──九割の競走馬は殺処分される。


「殺されるって本当なのかよ?」

 大粒の汗を額に浮かべながら尾栗は美輪に問いただした。


「……まあ、そう心配するな」

 美輪が慌てふためく尾栗を気怠るそうになだめる。


「競馬はな、農林水産省の管轄なんだよ。つまりは家畜農業。食肉用の牛や豚と扱いは同じ。食肉になる前に走らせている。これが競馬の大前提なんだ。だから、ごく一部の繁殖馬以外は食肉になって当然なんだよ」


「もしが本当だったとしたら俺達も活躍できなければ処分されちゃうんじゃねーのかよ?」

 練習での失敗が尾栗の脳裏をよぎった。


 美輪がいぶかしげに答えた。

「でだ。学校がのは分かるんだが、サラブレッド教育機関というのが引っかかる。その情報はどこから来たのか? 俺なりに推測してみたんだよ」


出所でどころはどこか? まず考えられるのは学校の関係者。先生かコーチか? ただ、機密情報を簡単に漏らすはずがない」


「たしかにな」尾栗が固唾を呑んで聞き入る。


「やはり、怪しいのは生徒のうちの誰か? そこで俺は、を仕掛けた」


「罠!?」


「罠って何だよ?」尾栗は目を見開き身を乗り出した。


「お前達もよーく知っているさ!」

「アレ!?」

 美輪が底深い光を留めた目を輝かせた。その光の奥には悪魔のような知性が鎮座していた。


「お前達がこぞって購入した「」。自信過剰なお前や、三ケ日のような誰もが実力を認める人間以外はみんな購入している。ところが、該当しない人間がたった一人だけいた。そいつはなぜか「不合格保険」を購入していない。俺がどれだけけしかけてもかたくなに購入を拒否した。つまり、自分が受かることを知っている」


「だ、誰だよ!?」

「そいつの名は新山」

 新山はコーチの息子だ。父親である新山コーチは元日本代表のサッカー選手。正真正銘のサラブレッド。そして、新山は深井がゴブリンと呼ぶ男だった。横柄な態度が許されるのはコーチである父親の存在が大きい。


「新山か……、たしかに新山なら父親から情報を聞き出すことも可能だな!」

 釣り上げた魚のような尾栗の反応に、美輪は口元を緩めた。




 ──この世界にある特別な場所。あの世との境目などといえば大袈裟になるが、そういった場所は存在する。例えば神社であったり、祠であったり。ひんやりとした空気とカビくさい匂いが淀むその場所は、学校生活において、明らかに何かが起こりそうな、最も身近にある異空間。


 美輪がゴールキーパー特有の長い腕を伸ばして、手の平を埃まみれの壁に押し当てた。告白の舞台の定番でもある体育館裏。そのシルエットは、愛を告げる「壁ドン」と同じだったが、この学校で愛の告白などというイベントがおこるはずもなく、小柄な新山ゴブリンが怯えた目で、美輪を突き上げるように見上げていた。


「新山、この学校がサラブレッド教育機関ってどういうことだよ?」


「は? 何の話だよ」


「しらばっくれても無駄だ。ネタは上がってんだよ!」


 美輪は長い腕を肘から折り曲げ、その距離を詰める。息がかかるほどの至近距離に、新山ゴブリンは思わず目を逸らした。美輪の背後では、鼻息を荒くした尾栗がシャドーボクシングの真似ごとをしながら耳をそばだてている。


「……あいつ、おしゃべりだな」

 美輪の読みは当たった。観念した新山ゴブリンが口を割る。ギャンブルで培った嗅覚が鮮やかなまでに犯人を突き止めた。尾栗はシャドーボクシングを止め、美輪の肩越しから新山ゴブリンを凝視した。


「機密情報だからここだけの話にしといてくれよな……」


「俺が親父にサッカーを辞めたいって愚痴った時に聞いたんだよ。この学校はサラブレッド育成機関でサラブレッドなのはだってな」


「それ以上は知らないよ。勘弁してくれよ」

 そう言ってゴブリンは潤ませた目を伏せた。


「全員!? じゃあ、俺は誰の遺伝子を受け継いでいるんだよ!?」

 美輪の影から、尾栗がここぞとばかりに躍り出る。


「尾栗か……。尾栗はたしか、アルシンド選手だった気が……」


「アルシンド!?」

 尾栗はスマホを取り出しすぐに検索した。画面に写し出されたのは、頭頂部だけが禿げあがった宣教師フランシスコ・ザビエルのような選手だった。


 アルシンド・シルバトーリ

 個性的な髪型で育毛のCMにも器用された。2011年に鹿島アンツに所属。


「なんだコイツ! 落武者ハゲガッパじゃないかよ!」


「ばーか、嘘だよ。そこまで俺が知る分けないだろ!」

 新山ゴブリンはうな垂れる尾栗に捨て台詞を浴びせ、逃げるように去った。


「確定ランプの点灯か……」

 美輪の深く長いため息と、壁に刻印された手型だけが、その場に残った。

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