一章 とある夏


 過酷なスケジュールにも慣れ出した、二年の夏。

 一年の時にはなかった夏休みが、盆休みという名目で与えられた。



 久しぶりの帰省に心が浮かれる。監獄島からの脱出。フェリーからバスへ。バスから新幹線へ。長時間の移動もまったく苦にならない。

 進級テストに合格したこと、三ヶ日や、名を馳せた指導者の側にいること、過酷な環境を耐え抜いたこと、それらが自信になっていた。僕は流れる景色を誇らしげに眺めた。


 見慣れた風景が近づき駅名がアナウンスされる前に席を立った。不安定な新幹線の通路をふらふらと歩き、降車口でその時を待った。


 懐かしい響きの駅名がアナウンスされ、ドアが開くと、真夏のモワッとした空気に呑み込まれる。


「おかえり」改札口に母が待っていた。

「ただいま」なんだかむずがゆい。

「背、伸びたんじゃない?」

 久しぶりの母を前に、ふと、例のが頭をよぎる。母の問いに「まぁ」とだけ返して助手席に座った。


 母は会社での業務が、責任逃れのたらい回しだと愚痴った。また、外国人経営の飲食店ばかりが増えたと不思議がった。


「あ、あそこのコンビニ、インドカレーのお店になってる」

 たしかに住み慣れた街は、しばらく離れているうちに若干の様変わりをして、違和感として映った。


「ネパールの人がやっているのよね」

 インドの人じゃなくて?


「ネパールカレーよりインドカレーの方が有名だからでしょ!」単純な答えに笑ってしまう。


 ネパールカレー。

 癖の強いスパイスに、どデカい豆とか入ってそうだな。勝手なイメージが膨らんだ。


「今日、すきやきにしようかと思って……」

 信号を待ちながら母が呟いた。

「ああ」、曖昧な返事で誤魔化した。

「焼肉の方が良かった?」母が再度、尋ねてくる。

「いや、内ちんと夏祭りに行くからいらない」

 信号が青に変わり母の車がゆっくり動き出すと、フロントガラスにつけられた御守りの鈴がなった。


「食べてから行きなさいよ」

「ああ」、もっともだと思った。



 待ち合わせ場所の神社に行くと、境内に内ちんが腰掛けていた。「ウィッス!」反射的に手を上げたが、内ちんの隣に座る二人の女性に目がいった。


「こいつが深ちん」

「あ、どうも」


「初めまして」

「何校?」


 夏祭りの定番の浴衣姿ではなく、四人とも個性を主張した私服姿。僕らは風情を楽しむ余裕など持ち合わせていなかった。


「こいつはサッカー学校に行ってるんだよ」

「私の友達も行ってるよ。JRAアカデミーでしょ?」


 JRA? それは競馬だ。

 サッカーはJFA。ちなみに俺はGアカデミー。


「アルファベットが三つ並ぶと分からなくなるよね。USJとUFJも紛らわしいし」


「それいうならFFシリーズのナンバリングも混乱するよな! ⅩⅥとか言われてもすぐにいくつか分からないわ!」


 矢継ぎ早につながる会話は強豪チームのパスワークのように目まぐるしく展開されていく。攻撃こそ最大の防御。言葉を発しなければ置いていかれる。疾走感に怯えながら、僕はなんとか言葉を捻り出した。


「あの数字表記ってゲーム以外にあまり見ないよね?」


「ヴィトンのロゴみたいなやつ?」

 予期せぬカウンターに、一瞬、頭が真っ白になった。ヴィトンのアナグラムを思い出し、ローマ字数字をパズルのように構築してみる。

 そのヴィトンはきっと偽物だろう。


「ローマ字数字だっけ? あの読み方って義務教育で習った?」

「外国でも使われてないよね? どこで使ってんだろ?」

「アラビア数字に覇権争いで負けたんだろうな!」


「で、何の話だっけ?」

「深ちんの学校の話」


 随分と脱線したな……。

 浮かんだ言葉が迷いなく、次々と飛び交い息つく暇もない。あっちにいったかと思えば、すぐにリターン。蛇行運転のくせにスピーディーで、高速のジグザグドリブルだ。しがみついてないと振り落とされてしまう。


「Gアカデミーっていうサッカーの学校」


「えー、知らない。JFAアカデミーの方がメジャーだよね?」


 ネパールカレーやヴィトンのロゴみたいな数字と同じ扱いかよ……。切り札でもあるパワーワード、「サッカー選手育成学校」。自慢するつもりでいたが、先駆けのJFAアカデミーのせいで、肩身の狭い思いをする羽目になった。僕のシュートはゴールポストの上を大きく飛び越えていった。


 ドーン。

 バ、バ、バババ、バーン。

 花火が上がり会話が中断された。

「きれいっ!」夜空に釘付けになった。「花火って儚いよな! 青春みたいなもんだ!」内ちんが、薄っぺらい浮ついたセリフを口にした。夏の夜を彩る花火をみて、僕はいつも思う。

「もったいない、お金の無駄使い」。

 つまらない人間と言われるかもしれないが、一発何百万もするものを僅か数秒の鑑賞のために使うことに抵抗があった。娯楽の少ない時代なら分かる。令和だよ。効率悪くない? CGでよくない? 

 共感を得られない自分の感性が、最初は偉大な特別な物なんだと思い込んでいた。勇者にしか扱えない聖剣エクスカリバー、そんな風にさえ思っていた。だけど違った。悪い意味での特別な人間だということに、僕は薄々気づき始めていた。



 内ちんの家は、さすが医者の家といった大豪邸だ。高級車が並べられたガレージがあり、その上が内ちんの部屋になっている。家族の生活圏とは独立した部屋。子供部屋としては最高の立地条件で、中学時代から僕らの溜まり場になっていた。こんな家に住んでいる内ちんを羨ましく思った。


「深ちんは何飲む?」

 内ちんがぎっしりとお酒が詰まった冷蔵庫を開ける。祭りの後に飲む約束をしていた。


「えっと、ビール以外で」

 ビールが苦くてまずいことくらいは知っていた。


 内ちんの彼女は男ならば誰もが羨む女性だった。アニメ基準で申し訳ないが、複数登場するヒロインの中で最初に登場するヒロイン。作者の愛が最も感じられるヒロインだ。


 容姿端麗、それでいて気さくで話しやすい。慣れない空気に打ち解けられたのも彼女のおかげだった。友達に彼女ができたことを祝福するよりも、嫉妬する気持ちの方が強い。それくらい魅力的な女性だった。


 子供部屋としては広すぎる部屋も思春期の男女四人の距離としてはあまりにも狭かった。パックリと開いた胸元からのぞく谷間がお酒をすすませる。


 どれだけ飲んだのだろうか?

 リンゴ、グレープ、レモン、オレンジ。体が火照ってふわふわと気持ちが良い。


 テーブルの上には四人で飲んだたくさんの空き缶が並んでいる。時計の針は午前0時を回っていた。

 内ちんと彼女が人目をはばからずにキスをした。

 今日の出会いで僕のことを好きになってくれたらいいのに。まったくもって身勝手な淡い期待は崩れ去った。


 しばらく薄目を開けて見ていたが、気まずくなって寝たふりをした。二人が寝室に移動したのが分かった。


 膨らむ想像力。

 前に飛び出すフォワード陣。

 サッカーでいえばオフサイドだ。

 相手の陣地でシュートを決めようと突っ立っている。


 ──突っ立っている。


 目を開けると、もう一人の女性と目が合った。どことなく内ちんの彼女に似ている。髪型、メイク、服装。ふくよかな胸までもが同じだった。Fカップはあろうかという胸も、全体的にぽっちゃりとした彼女のそれは輝きを放っていない。

 しなだれるように寄っかかってきた村人Fに唇を押し付けられた。


 酔う前に内ちんから渡されたものがある。

 こっそりと拳の中に握らされたもの。

 避妊具だとすぐに分かった。

 初めて触れる女性の唇はとても柔らかかった。

 果実や花のような甘い香りがした。


 デビュー戦。

 できればホームグラウンドで暖かいサポーターに見守られながら戦いたかった。ブーイングがスタンドから聞こえている。そして、そのブーイングが次第に大きくなっていく。


Fしてあげよっか?」

「……ごめん。ちょっと吐いてくる」

 内ちんの部屋を飛び出していた。



 河川敷の土手を夜風にあたりながら歩いた。

 ビビッたわけではない。

 初めてのキスの感触に感動したくらいだ。

 お酒だって、意外に飲めるもんだなと自信にもなった。


 相変わらず散らかっていた内ちんの部屋。

 その中にたった一つだけ変わっていたものがあった。埃をかぶっていたギター。


 内ちんに伝えたかったこと。

 プロのサッカー選手になりたい。


 明日からまた、あの監獄島。

 生温い夜風に抱かれながら、ファーストキスの感触を思い返していた。

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