3月26日 ・・・・・・
× × ×
2024年3月26日。
雨が降り続いている。こういう時は浴室でシャワーを浴びるのがいささか勿体ないというか、文明人として矛盾を抱えているような気分になる。屋根の下で人工的な雨を浴びずとも外に出ればよかろう。みたいな。
当然、天然の水浴びより給湯器の温水の方が健康には良い。ついでに世間体も守られる。何より心地良い。
髪の毛をゴシゴシと洗い、乳白色のボディソープを柔肌に塗りつけ、シャワーヘッド片手に全身を洗い流していく。
美容に詳しい友達から「こうするといいよ〜」と
どうせ湯船に浸かり、バスタオルで水滴を拭き取り、脱衣所で学校指定のジャージに袖を通せば元に戻るのだから。
僕は男子高校生だ。
洗面台の前に立てば、姿見には去年の春より少しだけ背が伸びた自分が映っている。同世代より若干小柄かな。容姿自体は平凡だと思う。
何となくジャージを脱いでみる。
立ち止まってさえいれば、変化の度に転倒することはない。
姿見にはやはり平凡な容姿の女子が映っていた。こちらも去年より少しだけ成長している。
おそらくおじいさんになったら、こっちの姿もおばあさんになっているのだろう。その頃まで叔父さんの「奇行」に人生を振り回されたくないが。
一応、記録としてスマホで自撮り写真を残しつつ。
僕は早々に元の姿に戻ることにした。
ジャージを着込めば視界が上がり、身体が風船のように膨らむ。
一時的に消えていた男子らしい気持ちも返してもらえる。
正直に言えば、あっちの姿になること自体はそこまでイヤというわけではない。今はいつでも元に戻れるし。ぶっちゃけ気分転換にはなる。友達と遊ぶ時も
僕が出来るだけ学校指定の衣服を身につけ、なるべく男子の姿を保つようにしているのは、結局のところ「生理が怖い」からだ。
去年の9月。まだ『効果カード』の拡張が起きていない頃だった。ある時から僕はとても辛い日々を送るはめになった。
あの鈍痛と体調不良。体内に未知の臓器があるという感覚。耐えられないとは言わないが、あえて再び経験したいとは全く思わない。
あんな苦行に毎月耐えているなんて石生や
周期を読めば良いんじゃね? とか呑気に言いやがった庄司にもいつか体験してもらいたいが、そうなると石生の「永年仲良し
石生は男女3人グループを女子3人組に改変したいらしい。仲の良い男の子たちと「本物の友達」とやらになるために。
健気な
男女の友情と恋愛感情。人間の根本にまつわる問題だけに、きっと彼女なりに思うところがあるのだろう。だからといって彼女の願いを叶えるつもりは一切ない。僕の希望が叶わなくなってしまうから。
× × ×
脱衣所を出ると
彼女は玄関で靴を脱ぎ捨てると、今日もこちらに防寒着を押し付けてくる。赤茶色の春物パーカー。また衣装掛けに衣服が増えていく。
いい加減、持ち帰ってもらいたいが、彼女は帰ると決めたら即出ていってしまうので持たせるタイミングを逃してばかりだ。
いっそオークションアプリで売り払ってやろうか。全部良い値段になりそうだし。
冗談はともかく。
「晩御飯、食べてくるね」
僕はリビングのおじさんに告げる。
風呂上がりに外出したら湯冷めしちゃうよ。そんな母親の忠告が脳内に去来するが、今日はラーメンの気分だった。
それに京極さんがいると微妙に居づらいのもある。叔父さんは同類との対決に盛り上がっているけどさ。
一応、風邪を引かないように上着を羽織りつつ。
僕は雨傘を片手に
ガード下をくぐり、落ちてきた雨水が路上を跳ねる様子に感心しながら歩いていたら、不意に後ろから声をかけられた。
「ラーメンいいね。どこ行くの?」
「山名さんもそういう気分ですか」
「まあねー」
明るい声色。さっぱりした笑顔。元気に揺れる凛々しい髪。大人っぽい私服。大雨の日には似合わない彼女の所作から、僕は一定の気持ちを察する。
彼女もまたアパートに居づらかったみたいだ。
新福島駅の3番出口を過ぎたあたりに和食店のような店構えのラーメン屋がある。
僕たちは店に入り、誰もいないカウンターの奥に座らせてもらう。食券の代金は年長者の山名さんが出してくれた。
「まだまだ貯金あるからさー。全然余裕なんだよね」
「ありがとうございます」
「あーもう未来のことなんて考えたくないなー」
山名さんは早速運ばれてきた瓶ビールをコップに注ぎ、グイグイと喉にぶち込んでいく。
彼女の発言にエンジンが掛かる。
「ていうかさー。何なのあの子。完全にイサミ先輩の同類じゃん。今日なんてあたし、あの2人が兄妹に見えたもん」
「はい」
「あたしのこと完全に眼中に無いっぽいし。ムカつくから全部のゲームでボコボコにしてやったけど。ずっとあっちしか見てないしさ。もう頭に来たわよ。何なのさ。もう。あたしの指定席に座りやがってぇー……とっとと春休み終わって、
「僕も思います」
「だよねー。はあ。あたしもあの頃に、大学に戻りたいなー……あっ。
女性の店員さんが運んで来たのは2杯の白いラーメンだった。
クリーミーな味わいの鶏白湯スープと麺が心地よく絡まっている。一口すするだけで早くも満足感があった。美味しい。
山名さんもすっかりハッピーになり、右隣の席で自然な笑みを浮かべている。さっきの仕事用のそれよりもずっと魅力的に見えた。
やはり
「よーし! イサミ先輩の部屋に戻ったら、あの女をまたボコボコにしてやる! 蒼君も手伝ってね。次は何やろっかなー!」
「そういえば今って叔父さんと京極さんしか居ないんですよね、あの部屋。たぶん2人きりで『ジェネシア』を続けてるんでしょうけど」
「…………」
彼女は無言でビールを飲み干した。
目が据わっている。
結局、急いでアパートまで戻ってきた僕たちが目にしたのは『ジェネシア』ではなく『ガイスター』に興じる三十路と女子大生の姿だった。
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