3月22日 ・・・・・・


     × × ×     


 僕の叔父さんには「奇行」が目立つ。

 朝目覚める度に「手番ターン開始」と呟き、架空の山札からカードを1枚引く。その結果に一日中振り回される時もあれば、上手く活用できる時もある。時には超能力同然の威力を発揮することすらあった。


 思い返せば、去年の秋頃だった。

 当時の叔父さんは海外旅行から一向に戻ってこない問題児社員(のちに退社)の後始末に奔走していた。

 あいつが指示に従ってくれていたら。同僚が手伝ってくれたら。全部自分に押しつけやがって。他人を自由に操りたい──苦境と願望のマリアージュが、叔父さんの「奇行」の新たな『拡張』を招いたようだ。

 その名も『効果カード』。

 対象に直接的な効果を与えられるというもので、使い方は非常に簡単だ。


 今、僕の頭には1枚のカードが載っている(らしい)。僕自身には見えないし、触れられない。お風呂でシャワーを浴びても排水口に流れたりしないが……一応あるということになっている。

 カードには次のような効果が記されている。


「このカードを付与された者は、在籍校指定の衣服を身につけている場合のみ、全てのランダムイベントの効果を無効化する」


 ランダムイベント。すなわち去年の夏、僕の肉体を女性に変えた「あの」イベントを無かったことにする。

 おかげで小野蒼ぼくは限定的ながら男子高校生に戻ることができた。


 2024年3月22日。

 僕は学校指定のジャージ姿で福島区の表通りを歩いていた。

 別段行く宛などないが、アパートにいても山名やまなさんのボードゲーム大会に巻き込まれるだけだし、独りになりたい気分だった。

 今の山名さんを見ていると不安がこみ上げてくる。

 何を考えているのか全くわからない。昨夜なんて叔父さんにおねだりして曰くつきの『効果カード』を頭に載せてもらっていた。


「このカードを付与された者は、ものすごくやる気が出る」


 字面だけ見たら便利そうなカードだが、ものすごくというだけあって思考が猪突猛進になってしまう。

 一説によると、去年このカードの『効果』に背中を押されまくり、勢いのままに会社の上司に退職届を叩きつけてしまった女性がいたらしい。一体どこの何名さんなのやら。全く。


「ままならないなあ」


 自分の小さな呟きが、足元のアスファルトをえぐり取るようなタイヤの走行音に搔き消された。

 府道41号・通称なにわ筋は大小の自動車が行き交っている。

 僕は地元テレビ局の玄関口が見えてきたあたりで交差点を西に曲がった。日当たりのよろしくない通りに面したタイ料理店が「準備中」の札を掲げている。もうお昼時は過ぎていた。その先には古びた雑居ビルや町工場が軒を連ねており、学生が立ち寄れそうな店は見当たらない。


 引き返そう。

 僕は大川おおかわ沿いの遊歩道に向かう。

 テレビ局の南側、玉江橋たまえばしたもとには錆びたトランペットが飾られている。ジャズ文化にちなんだ名称の遊歩道からは、中之島なかのしま地区の巨大ビル群を一望できる。

 向かい風に混じって、ほのかにタバコの匂いが伝わってきた。背広姿の男性が携帯灰皿を弄りながら通り過ぎていく。


 僕はベンチ代わりの石段に腰を据えた。スマホには特に通知等は来ていない。

 友達とは明日遊ぶ予定だ。今日は何もない。何もしなくていい。


 ぼんやりと川の流れを眺めたり、遊覧船の写真を撮ったり、気分転換にアプリで漫画を読んでいたら、少しずつ周りが暗くなってくる。

 オシャレな街灯が色付き始めた。

 このまま夜を待てば、水面が作り出す素敵な夜景を楽しめるのだが……家事の当番をサボるわけにはいかない。

 夕飯の段取りを考えつつ、僕は石段から立ち上がる。


「あれ……君さあ。側頭部あたまにカード刺さってない?」


 彼女に話しかけられたのはその時だった。

 一目見て、可愛らしい人だと思った。派手な色のロングヘアが街灯に照らされ、こちらに鮮やかな印象を抱かせる。

 身長は僕より低いが、全体の雰囲気からすると年下ではなさそうだ。大学生かな。

 長袖のトレンチコートとジーンズが活動的で似合っている。左手には茶色のキャスケット帽を携えていた。川沿いの強風に吹き飛ばされたくないのだろう。


「刺さってるよね。ほら」


 彼女の右手がこちらのこめかみを摘まんでくる。髪の毛ではない何かを引き抜かれてしまう。

 僕は石段に尻もちをついた。唐突に身体の重心がおかしくなった。視界が殴られたようにグラつき、なぜかジャージと靴が大きくなった気がする。違う。僕自身が小さくなったんだ。


 僕は女の子に戻ってしまった。


「うわっ。すごっ。脳にカード刺したら変身できるの? ヤバい能力じゃん」


 目の前で女性がビックリしている。

 何なんだ。何者なんだ。僕は怖くて仕方がない。

 恐怖と鈍痛で腰が抜けそうになる。

 背筋も冷えてきた。一体何が起きているんだ。わけがわからない。


「か、カードを返してください」


 変わりはてた自分の声。衣服のズレ。

 久しく味わっていなかった肉体の感覚、密室の風呂場では感じられない系統の違和感に安心を求めてしまうほどに、僕は狼狽していた。

 助けて。僕は思わずスマホを握りしめてしまうが、叔父さんに電話をかける勇気が出ない。


 目の前の女性はキョトンとしている。


「別に良いけど。やったことないからウチにはわかんないな……あっ。こうしたらいいっぽい」


 細長い指先に耳の付け根を弄られる。

 再び視界が揺らぐ。空気を吹き込まれた風船のように身体が起き上がり、膨張したような感覚に陥った。

 僕は元に戻ったらしい。下着の着心地が悪い。全身の衣服があちこちで微妙にズレてしまっている。少し苦しい。


 対照的に彼女のほうは心底ウキウキした様子で、こちらの変貌ぶりを眺めていた。


「ホントすっごいねえ。ウチもそういうのやってみたい。面白そう。どうやったら出来るようになるの?」


 彼女は前屈みになり、こちらと目線を合わせてくる。とても大きくて美しいひとみが、彼女の興奮ぶりを如実に示していた。


「ねえねえ。君が……あなたがウチらに『満漢全席』を教えてくれた人なんでしょ。尾藤びとう先輩」


 三十路のわりに結構童顔なんだね、と彼女は笑う。

 僕は即答する。


「違います」

「違う? やや、そんなわけないじゃん。福島区このへんに住んでるってアカリンが漏らしてたし。ウチと同じでカードも使えるくせに。ガチのボドゲマニアなのにブラフとか苦手なタイプなの?」

「僕にはカードなんて見えません。それに、ボードゲームは付き合いでやらされているだけで、別にマニアというわけじゃ」

「ふうん」


 彼女の目つきが鋭くなる。再び指先が伸びてくる。

 僕は咄嗟に逃げようとしたが、すぐにこめかみからカードを引き抜かれてしまった。すでに地面を蹴っていたため、思いっきりバランスを崩した僕は前のめりに転んでしまう。

 遊歩道のブロックは砂の匂いがした。

 鼻血は出ていない。顔をぶつけなくて良かった。その代わり受け身を取った前腕のあたりがジンジンしている。痛い。幼稚園児なら泣いている。


「じゃあ、君が尾藤先輩の所に案内してよ。その感じだと知り合いなんでしょ。逆らうならカードを川に捨てちゃうけど。ねえ、どうしちゃう?」


 彼女がよりによって右手を差し出してくる。

 おい。僕の『効果カード』をどこにやったんだ。ポケットに入れたのか。架空の手札に加えたのか。まさか、もう捨てたんじゃないだろうな。

 なんて強気に出られるわけもなく。


 僕は渋々ながら彼女の手を取るしかなかった。


「あ、言っておくけど。君が勝手に転んだからね。ウチのせいじゃないし。尾藤先輩に言いつけたりしないでよ」


 街灯の明かりに照らされる彼女は、とても画になる容姿をしていたが──確信を持って言える。僕は好きになれない。どこかで痛い目にってほしい。



     × × ×     



 アパートに向かう途中、彼女は京極光きょうごくひかりと名乗った。

 麗谷れいこく大学経済学部の3回生でボードゲーム同好会の現役部員だという。

 叔父さん世代の卒業後に長らく途絶えていた『満漢全席』の伝統を復活させたらしく、彼女もまた奇行が目立つ。


「去年さあ。同級生のアカリンが大昔の記録を掘り出してさ。なんかインターンで知り合った先輩に教わったとかで……面白そうだったからウチらも文化祭の余興でやったんだよ。66時間連続プレイ」

「やり遂げたんですか、あれを」

「余裕余裕。アカリンたちは途中でギブアップしてたけど、ウチはお客さんを巻き込んでやり抜いちゃった。そしたらウチだけ『異能力』に目覚めたってわけ」


 京極さんは自身の「奇行」を格好良く呼称していた。


 夕方の風に巻かれながら、僕たちは環状線の高架をくぐる。

 花の金曜日ということもあり、福島駅付近には飲酒目的の会社員たちが早くも群がっていた。梅田うめだ方面から流れてきた彼らは、時折京極さんを品定めするように見つめている。

 たしかに彼女の容姿は少し遊びなれているようにも見える。

 傍らにジャージ姿の妹(?)がいなければ誰かが声をかけてきたかもしれない。


 僕は「寒い寒い」と呟きながら胸の前で腕を組みつつ、出来るだけ早足でガード下の飲み屋街を抜ける。ジャージのファスナーを首元まで上げているとはいえ、一応ノーブラなので他人の視界に入りたくない。

 結果、あっという間に叔父さんのアパートに到着してしまった。


「ここがアカリンの言ってたアパートなんだあ。へへへ。たしかに下品なヤリ部屋っぽいじゃん」

「あの。アカリンさんって誰なんですか」

「ウチの友達だけど」


 それくらいは自分でもわかる。もっと具体的に教えてほしい。叔父さんの「奇行」を知る人物なんて両手で数えられるくらいしかいないはずなのに、どこから話が漏れたのか……僕は少し気になっていた。

 京極さんは説明責任を果たさないまま外階段を上っていく。階段脇の郵便受けから「尾藤」の苗字を探し出したらしい。

 彼女が201号室の鉄扉を叩こうとしたので、僕は仕方なく客人のために鍵穴をほじくることにした。


 ガチャリ。

 玄関には使い古された革靴が無造作に転がっていた。すでに叔父さんが帰ってきている。

 僕は唇を噛む。このまま両者を会わせていいのだろうか。

 京極さんが何のために叔父さんを訪れてきたのか、はっきりとは知らないままなのに。大丈夫なのかな。


きみ、帽子掛けといて」


 彼女がキャスケットを胸元に押しつけてくる。

 こちらが引き止める間もなく、トレンチコート姿の大学生がリビングに踏み入っていった。


「おじゃまします。尾藤先輩。ウチは麗大れいだいボードゲーム同好会の現役部員・京極光。突然で恐縮ですが、ウチと『対戦』してもらいます」

「……んんん?」


 リビングのテーブルでは山名さんがラーメンにコショウをかけていた。突然の闖入者ちんにゅうしゃに目を丸くしている。

 やがて台所の方から、もう1杯のラーメンが持ち込まれてくる。この匂いはチキンラーメンだ。叔父さんが作ったらしい。

 夕食当番なのにお待たせして申し訳ございません。あと変な人を連れてきちゃってごめんなさい。僕は京極さんの背後で両手を合わせておく。


 叔父さんは首を傾げていた。


「よくわからんが、ひとまず腹ごしらえしてからで構わないか。喰ったらワインを飲みながら『ワイナリーの四季』でワイン作りをするつもりだが……」

「そんなの後にしてちょうだい」


 京極さんが人差し指を左右に振る。

 僕には大げさなジェスチャーにしか見えなかったが、叔父さんには「別のもの」が見えていたらしい。

 叔父さんはチキンラーメンの汁を一口だけすすると、まだ温かい器をテーブルの山名さんに預けた。

 その上で、彼は仁王立におうだちの女子大生と正面から相対し──恐怖と興味の入り混じったような笑みを浮かべてみせる。


「なんなんだ、それは」

「ウチの『異能力』……『対戦』。ウチらの『気力』を賭けた戦いを、存分に楽しみましょう」


 両者には架空のカードが見えている。

 僕には何もわからない。ただ二人が虚空を見つめ、カードの名前(?)を呼び合い、指先をちょこまかと操り、次第に脂汗をかき始める様子を見守ることしか出来ない。

 狂人同士の非言語コミュニケーション・つばぜりあいに介入の余地などない。


 僕は山名さんの隣に座布団を寄せた。冷めないうちに叔父さんのチキンラーメンを味見させてもらう。


「山名さん、あれって何なんですか」

「あたしにもさっぱり。ただ『異能力』は「奇行」のことで『気力』は『精神力コマ』のことなのかなー……あの様子だと互いの手札を用いて、カードゲーム……トレーディングカードゲームみたいに遊んでいるのかも」


 困惑しながらも山名さんなりに考察していたらしい。

 トレーディングカードゲーム(TCG)とは大雑把に言えば、コレクション用の市販カードを用いた対戦ゲームのことだ。

 叔父さんの戸棚にあるような『ニムト』『ラブレター』といった特定のカードを使用した遊びとは異なり、新種のカードコレクションがどんどん発売される形式なので、プレーヤーは数百・数千種類以上の市販カードの中から自分で集めたものを駆使してプレイすることになる。

 そのためTCGでの対戦プレイは(原則として)常に対等な状態では始まらず、収集・デッキ構築の時点から戦いが始まっているとも言える。


 僕自身は小遣いが少なくて手を出せなかったが、小・中学生の頃は周りで『遊戯王ゆうぎおう』や『デュエル・マスターズ』をやっている奴がいた。友人の庄司しょうじは今でもデッキを保管しているらしい。


「くっ……何故だ。お前の『精神力コマ』は全部削ったはずだが。まさか7個以上持ってるのか」

「逆に尾藤先輩は7つしかないんですかあ? ウチは半日寝たら9つくらいにはなってますけど?」

「これが若さか。クソッ」


 叔父さんが苦悶の表情を浮かべている。

 対照的に京極さんのほうは嗜虐しぎゃく的というか、超強気の笑顔で「カードで攻撃。気力マイナス1。チェックメイト」と言い放った。


 途端に叔父さんが床に膝を突く。

 勝負がついたようだ。


「わはははは。すごい、すっごい楽しい! めっちゃヒリヒリしたあ!」


 勝者となった女子大生は少しやつれた様子だったが、相当『対戦』が楽しかったらしく元気に飛び跳ねている。

 一方の叔父さんは壁にもたれかかり、息も絶え絶え。いつぞやの三徹さんてつ明けみたいな顔色になっていた。

 おそらく『精神力コマ』を全部削られてしまい、全く動けない状態になってしまったのだろう。山名さんが心配そうに駆け寄っていた。


 僕は下手人の女子大生をにらみつける。

 すると相手は小さく手を叩き、こちらのこめかみに架空の何かを挿し込んできた。ダボダボだったジャージのサイズが急速に合っていく。


「はい。これで元通り。連れてきてくれてありがとね。おかげですっごい、めっちゃ楽しめた」

「あの……京極さんは「今の」をやりに来たんですか」

「そうだよ。だってほら。ウチの周りに『対戦』できる人いないのに、こんな力をゲットしちゃったわけじゃん。ずっと探してたわけよ。君の叔父さんみたいな人を、ねえ」


 彼女は満足そうに息を吐いてみせた。頬の紅潮が感情を物語っている。わかりやすい人だ。

 その美しい双眸りょうめが疲れ果てた叔父さんを真剣に捉えることはついぞなく、何も言わずに京極さんは玄関から去っていった。


 僕は確信を抱く。断言してもいい。あの人はまたやってくる。

 茶色のキャスケット帽、預かったままだし。


「叔父さん」

「うう……」

「次はあの人をノックアウトする番だよ。徹底的にボコボコにしちゃって。僕も応援してるから」


 ぼくの激励に応えることなく、叔父さんは千鳥足で自室のベッドに向かっていった。傍らの山名さんに支えてもらいながら。

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