3月21日 ・・・・・


      × × ×     


 校舎の廊下。リノリウムの照り返し。学校指定の上履きの音。

 指先の底冷えが和らぎ、窓から吹き込む風に緑葉の気配を感じる頃合い。

 2024年3月21日。

 午前中に修了式を終えたばかりの僕は、あちこちで「またねー」「バイバイ」が飛び交う校内を独りで歩きながら、今この時から始まる「自由きままな長期休暇」に想いを馳せていた。


 春休み。ああ春休み。春休み。教室に拘束されない日々。いったい何をしようかな。

 新学年に向けての予習。志望校もそろそろ考えないと。僕は何者になりたいのだろう。友達に借りた小説を読了したいな。またみんなで遊びに行こうか。

 気が向いたら、叔父さんの遊び相手にもなってあげよう。


 僕は白紙の時間割スケジュールを脳内で妄想しつつ、校内のトイレに立ち寄る。

 当然、男子トイレだ。


 僕は小便器の前に立つ。学校指定の手提げかばんを小脇に抱え、右手の指先でズボンのファスナーを下げる。筒先を握る。放つ。

 男子なら当たり前の流れ作業だが、自分にとっては自己同一性アイデンティティを保つための大切な営みになっている。


 半年前、僕の身体は女の子になってしまった。

 こうして小便器の前で相棒からしずくを振り落とせるようになるまで、心身共に苦しめられたなあ。


 女子の姿では学校に行けるわけもなく、一時は卒業すら危ぶまれた。

 久しぶりに登校できた日には人目もはばからずに泣いてしまったほどだ。あの時は事実を知る友人たちも涙を見せてくれた。

 それが今となっては「休日が恋しい」と心底思えるのだから、喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものだ。まだ完全に冷めたわけでもないのに。


 僕は流し台で手を洗う。ズボンのポケットからハンカチを取り出しながら男子トイレを後にする。男子トイレ。心地良い言葉だ。


小野おのさん。ちょっとよろしいですか」

「わわっ」


 出口で待ち伏せを受けた。

 いきなり目の前に現れないでほしい。思わず仰け反りそうになった。


 相手の男は廊下からこちらの様子を窺っていたのか、灰色のハンカチを差し出してくる。

 受け取らないのも失礼な気がしたので一旦お借りしつつ。僕は床に落とした鞄を拾い上げた。

 相手が部活の先輩でなければ、文句の一つでも言いたいところだ。


「ありがとうございます。ええと。なにか御用ですか、物黒ものくろ部長」

「はい。近頃、少し気になることがありましてね」


 物黒暁人ものくろあきと・放送部部長の物腰は柔らかい。柔らかいのに妙に押しが強くて逆らいづらい。

 初対面の時は垢抜けた印象を受けたが、話しかけられるたびに灰汁あくが目立ってくる。ウェーブの掛かった栗毛同様にくせの強い人だ。身体は僕より一回り大きい。


「小野さん。こちらの画像を見てもらいたいのですが」

「はあ」


 ハンカチに続いてスマホを手渡される。

 小型の画面には見覚えのある写真が表示されていた。去年のクリスマスに僕の居候先でパーティーをした時の様子だ。僕も含めてみんなサンタクロースの格好をしている。改めて見ると気恥ずかしいな。


 写真自体は阿呆でおなじみの友達がSNSに投稿していたものだ。元カノたちとモテモテなクリスマスを楽しんでます! との妄言を添えて。

 そんな曰く付きの写真に部長が薬指を突き立ててくる。


「こちらの小柄な女性は小野さんですね?」

「僕の妹ですけど」

「なるほどみどりさん。庄司しょうじさんのインスタグラムによく出てくる名前です。庄司さんの元恋人だそうで。ボクとしては羨ましいかぎりです」

「それデマらしいですよ」

「ええ。どうやらそのようですね」


 部長は人差し指を立てる。さっきから喋り方と仕草を杉下右京けいじドラマに寄せているのが気になって仕方ない。

 先週はスポコン系の熱血主人公みたいな感じだったのに。


「たしかに緑さんは庄司さんの元恋人ではありません。何故なら小野緑という人物は端から存在せず……この女性は小野さん、あなた自身だからですよ」

「いやいや。笑わせないでくださいよ」

「シラを切りますか。結構。証拠は他にもあります」


 部長は指先で画面上の写真をスクロールさせていく。

 マクドでの勉強会、京都の紅葉探し、ハロウィンのコスプレ大会、ボードゲームの王者決定戦、六甲山で夜景巡り、USJでの制服デート。

 いつもの3人組(+たまに叔父さん)が楽しそうに過ごしている写真ばかりだ。

 こうしてみると我ながら充実した日々を送っているなあ。僕が男だったり女だったりするのはともかく。


「妙ですね。庄司さんのインスタグラムには数多くの写真がありますが……小野さんと緑さんが同時に写っているものは1枚もありませんよ?」


 そう。物黒部長は決してトンチキなことを言っているわけではない。

 小野蒼おのあおと小野緑は同一人物だ。

 僕はまだ完全には男性に戻れていない。今の姿は見せかけに過ぎない。

 それを部外者に教えるつもりは一切ないが。


「僕ら兄妹仲が悪いものでして」

「小野さんは化粧で印象が変わりますね」

「…………」


 訳知り顔の部長から、僕は少し距離を取る。

 この人はあれを女装だと思っているらしい。そりゃそうだ。叔父さんの奇行を知らないのだから。

 であれば仕方ない。僕はとっておきの切り札を見せることにする。

 叔父さんがシャッターを切り、クラウド上に保存しておいた、あの夏の思い出を。


「部長。こちらをどうぞ」

「これはまた……ずいぶんと大胆な……」

「去年の夏休みに『ひらかたパーク』で泳いできた時の写真です。妹の水着姿、兄としては他人に見せたくないんですけどね」


 あの時、庄司の甘言により身に付けるはめになった薄黄色のフリル付きビキニ。身体のラインがハッキリとわかる。手のひらサイズのアレも、お尻のあたりも。


「ふむ」


 部長は写真を凝視しつつ、こちらの胸元をチラ見してくる。

 今の自分には何もないとはいえ決して気分の良い行為ではない。

 僕はスマホを持ったまま腕を組む。もう十分、見せつけられただろう。


「おわかりいただけました?」

「少しだけ。ところで小野さんは妹さんと同じスマホをお持ちなのですねえ。仲良さそうではありませんか」

「なっ!?」


 部長からの思わぬ指摘に僕はたじろいでしまう。

 たしかに写真の中には手持ちのコレが写っていた。

 マズいぞ。別の友達に蒼=緑だとバレた時と似たようなミスを犯してしまった。


 部長が考え込むような仕草を見せている。おでこに指先を当てて……そこは古畑任三郎ふるはたにんざぶろうなんだ。刑事ドラマが好きなのかな。


「パッド……いや違いますね。もしや小野さんは女装ではなく男装していらっしゃる?」

「部長は漫画の読み過ぎですよ。体育の授業とか、どうするんですか」

「胸をサラシで抑えているのでは?」


 名案とばかりに手を叩く天然パーマ野郎。

 こちらがブレザーとシャツを脱がなければ主張を否定できない流れを作り出しやがって。下手したらズボンまで引きずり下ろされそうで恐ろしい。

 もし本当に僕が女子だったらどうするつもりなんだ。セクハラだぞ。

 そういう無神経な性格が、その。放送部の女子たちから敬遠されているんじゃないですかね!


 僕は付き合いきれなくなり、借りたままだったハンカチを突き返す。


「失礼します」

「もう帰られますか。今日は部室で有志の自主練習が行われていますよ」

「家で妹が待ってますから」

「なるほど。来週の全体発声練習は休まないでくださいね。次はかばえませんから」


 部長が釘を刺さしてくる。

 夏休み中に部活を全休したことを今さら蒸し返してくるとは。あの時は元の姿に戻れなくて、どうあがいても出席できなかったのに。


 放送部にも技能を競う大会があり、様々な練習がある。部長には部員を率いる役目がある。

 そして部長は僕たちの秘密を知らない。

 それはわかっているつもりだけども。

 やはり好きになれない人だ。


「おいおい蒼芝あおしばぁ。こんなところにいたのかよ。なんだなんだ~?」


 軽妙な語り口。

 寂しげな廊下の向こうから坊っちゃん刈りの同級生が駆け寄ってくる。

 庄司晶しょうじあきら。僕にとって中学以来の友達だ。現在も往時と身長が変わらない。


 そんな庄司に対し、栗毛の部長は怪訝な目を向ける。


「庄司さん。感心しませんね。廊下を走ってはいけませんよ」

「おっといけねえ。てへへ」


 ペロリと舌を出す庄司。そういう仕草は別の友達に任せておくべきだと僕は思う。お前には抜群に似合わない。

 次いで、彼はこちらに耳打ちしてくる。


「……おい蒼芝。なんで部長に絡んでんだよ。まさか退部するつもりか」

「こっちが被害者だっての。全部お前のせいだからな。何でもかんでもインスタに載せやがって」


「ほほーん?」

 庄司に首をかしげられても全く可愛くない。

 部長も同意見らしく苛立ちを隠せない様子だった。わざとらしく喉を鳴らしてくる。


「んんっ。庄司さん。今は小野さんと面談中です。少し席を外してもらえますか」

「なんだそりゃ……まさか部長、俺の親友を退部に追い込もうって魂胆ですか。先公への点数稼ぎのために。そんなの上級生でも許さねえぞ」

「そういうことではありません。何といいますか。彼の妹さんの件です」

「え? 蒼芝一人っ子だろ」


 庄司は言い終えてから猛烈な速度で口元を抑える。

 お前。お前なあ。

 妙な男気を見せようとしたのに全部台無しじゃないか。何やってんだ。


 部長の方は打って変わって笑みを堪えきれずにいた。


「なるほど。そうですか。一定の『答え』は出ましたが、謎は深まるばかりですねえ。是非とも突き止めてみたいものです」

「他人のプライベートに興味を持たないでください」

「細かいことが気になるんですよ。小野さんは面白いですからね」


 栗毛の上級生はハンカチをポケットに戻すと、会話に満足したのか、放送室の方向へ去っていった。


 面倒なことになっちゃったなあ。

 いっそ自分の相棒チンチンを見せてやったほうが話が早いような気もするが、それはそれで彼の術中にハマっているみたいで腹立たしい。


 とりあえず、春休み中はなるべく放送部の自主練習に参加しておこう。退部処分者にはなりたくない。



     × × ×     



 福島区の公営団地の足元に古びたアパートがある。

 赤色系のスレート屋根と同程度にまで赤錆びた外階段は、足をかけるたびにカンカンと不揃いな音を立てる。

 外廊下の日除けが道路側に突き出しているせいで玄関先が若干暗かったり、天井が少しだけ低かったりと、築40年の歴史を感じずにいられない建物だ。


「ただいま」

「おかえりー」


 若い女性がリビングで出迎えてくれる。

 彼女の名前は山名やまなちひろ。201号室の入居者である僕の叔父・尾藤勇樹びとうゆうきの遊び仲間で大学時代の後輩。

 さっぱりした容姿と愛想の良さが特徴の女性だ。

 僕にとっては知り合いのお姉さんであり、少なからず恩のある人でもある。


 それゆえに昼間から彼女がアパートでダラダラしているのは正直見るに堪えない。

 去年勤めていた会社を辞めて以来、山名さんはすっかり叔父さんの同類と化してしまった。

 常にボードゲームのことしか考えていない。


「さっそくだけどさー。あたしと『スノープランナー』やらない?」

「やりません」

「えーやろうよ! 今日アマゾンで届いたばかりの新作なんだよー。アートワークがすっごいオシャレで楽しそう。雪山でホテル経営だってさ」

「さすがに叔父さんが帰ってきてから開けましょうよ。新作なんでしょ」

「それは蒼君の仰るとおりだね……うーん。だったら定番の『バロニィ』かなー」


 山名さんはリビングの戸棚から紙箱を取り出す。


 いつのまにかボードゲームで遊ぶ流れを作られてしまっているが、高校生の僕としては他にもやることがある。

 例えば新学年に向けた予習とか。まずはカバンの中の教科書を片付けないと。


 僕は自室のふすまを開ける。リビングの右奥に設けられた小部屋だけが自分のテリトリーだ。

 ほぼウォーク・イン・クローゼット同様の狭小空間には、敷き布団と学習机以外に押入おしいれ代わりの衣装ケース(3段)が屹立している。受験の時に使うかもしれない1年次の教科書を入れておくのにピッタリだろう。


 僕はついでに服も着替えることにした。

 ブレザーを脱ぎ、ズボンを下ろし、あらかじめ机の上に用意しておいた学校指定のジャージに袖を通す。

 この時、ほんの一秒でも全裸になってしまうと大変なことになる。肌着だけになってもいけない。

 必ず『学校指定の衣類』を身体のどこかに身につけていないと──僕は女子の姿に戻ってしまう。

 理屈はともかく。今はそういうルールなのだ。


「よしっ。あたしの勝ち」


 リビングに戻るなり山名さんにボードゲームでボコボコにされた。3回やっても全く歯が立たなかった。

 山名さんは強い。こちらの行動を先読みしてくる。

 サイコロ次第で盤面が変わるゲームならともかく『バロニィ』みたくシビアなゲームでは彼女相手だと勝ち目が見いだせない。


「これで公爵になったの何度目だろうねー。いっそ来世で領主にジョブチェンジしよっかなー」

「現世では転職しないんですか」

「あはは。言うねえ蒼君。まあ貯金はまだまだあるからさ。心配ご無用」


 山名さんはケラケラ笑いながらコマを片づけていく。

 彼女の築いた広大な王国が跡形もなく消え去り、僕の心に諸行無常を覚えさせる。盛者必衰。ただ春の夜の夢の如し。


「ところで今日から春休みなんだよね。蒼君たちって。つまり毎日朝から晩までボードゲームできるってことだよね? やったぁ!」

「宿題やらなきゃなんで」

「ああっ」


 新たな王国が広がる前に、僕はリビングから退散させてもらう。

 山名さんが持っていたのは『ロストシティ』だから新たな遺跡かもしれないが、さすがに夕方まで付き合ってられない。


 僕にはやるべきことが多くある。例えば春休みの予定を立てる、とか。



     × × ×     



 夕方。201号室の主人が、玄関の鉄扉に寄りかかりながら革靴を脱いでいた。

 脱衣所の洗面台でハンドソープの詰め替えを済ませた僕は、廊下で叔父さんを出迎えることにする。

 スーツ姿の叔父さんは普段より元気そうに見えた。多分『精神力コマ』に余裕があるのだろう。今週は忙しくなかったみたいだ。


「おかえり叔父さん」

「おお。ただいま蒼。昼間に新作のボードゲームが届いてなかったか」

「山名さんが受け取ってくれたみたい」

「今日も来てるのか。ちょうどいい。さっそくみんなで雪山のペンション経営を始めるとしよう」

「ちょっと待ってよ」


 僕はリビングに駆け出してしまいそうな叔父さんを引き止める。


「なんだ。今から夕飯の買い物に行くつもりなら、その間に俺が『スノープランナー』のルールブックを読み込んでおくが」

「そうじゃなくて。山名さんのこと。今日もあんな感じでさ……本当にあのままでいいと思う?」

「むむ」


 叔父さんの眉間にしわが出来る。

 この人なりに彼女のことを心配しているのは僕もわかっている。わかっているが、本気で向き合っているようには見えない。


「叔父さんの好意で昼間の出入りを許して、合鍵まで渡しちゃったけどさ。あのままだと山名さん、一生ここをボドゲカフェ代わりにして『バトルライン』しながら朽ち果てていくことになりかねないよ」

「それは……」

「まさか叔父さん、自宅にボードゲームの対戦相手が何人いても困らない、別に一人くらいやしなってもいいとか思ってないよね」


 山名さんは魅力的な女性だし、と言いかけて僕は口をつぐむ。それは今回、僕の言いたいことではない。

 叔父さんは反応に困っていた。少なからず図星を突いていたらしい。全くこれだからこの人は。僕はため息を禁じ得ない。


「はあ。山名さんがああなったのは叔父さんの『効果カード』が原因なんでしょ。だったら何とかしてあげてよ」

「当然そのつもりだが手持ちの手札では対応できん。お前の身体もそうだ。今の不完全な方法よりマシな『効果カード』を引いてやりたい。それまでは今のままで……ひとまずガマンしてくれ」


 叔父さんは手提げ鞄を自室のベッドに放り投げると、力強い足取りでリビングに向かった。


 僕は呆れてしまう。

 どうやらあの人は、山名さんの現状さえも「奇行」の力で解決するつもりらしい。

 たしかに僕の身体を完全に戻すためには相応のカードを引くしかないだろう。学校指定の服装を脱いだら女の子になってしまう、そんな奇妙な症状は現代医学では治療不可能だ。下手したら人体実験の被験体にされかねない。


 けれども。山名さんには言葉をかけるだけで良いはずだ。

 今の彼女が何を考えているのか、読心術の使い手ではない僕にはわからないが、社会復帰に向けて背中を押してあげることは出来るはず。

 付き合いの長い叔父さんの言葉なら、尚更効くだろうに。

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